第3話 目が覚めたら

 ふんわりと肌にかかる布団の柔らかさと、陽だまりのような温もりに包まれ、咲玖さくは瞼を閉じたまま意識をまどろませていた。

 その陽だまりのような温もりは、幼い頃、寒さをしのぐために母親に抱かれて眠った夜を思い出させ、咲玖は無意識にその温もりへとすり寄る。


 ――温かいなぁ。


 まだ目覚めるのを拒むかのように重い体を何とか動かし、冷えた手と足先をその温もりへと絡ませると、その温もりは優しく髪に触れ、また咲玖を包み込んだ。


 ――こんなにも温かいのはいつぶりだろ。


 まだ半分眠ったままのような意識でその温もりの形をなぞると、思っていたよりも大きくて、固くはないが、柔らかくもない。

 どうにかその形を捉えようと手を動かすと、それはピクリと身をよじらせた。


「目を覚ましたのか?」


 頭の中に流れ込んできた重低音に反応し、瞼が自然と開いた。

 目の前にあった白いもやが消え、焦点が合いはじめると、咲玖の黒目がちな瞳に一番初めに飛び込んできたのは、宝石のように光るエメラルドグリーン。そして、その宝石を彫りの深い切れ長の眼の中に埋め込んだ驚くほど美しい男の顔だった。


「大丈夫か?」


 先ほど聞こえたのと同じ重低音と、金を混ぜたオレンジ色の髪と同じ色をした長い睫毛が揺れるエメラルドグリーンの瞳はこちらに向けられた心配の色で少し曇って見える。

 状況が呑み込めず硬直していた咲玖は、その男から伸びてきた手が髪に触れようとしたとき、ようやく身体の機能を取り戻したように勢いよく飛びあがった。

 明らかに見覚えのない建物の中で、見覚えのない人となぜか同じベッドの上にいる。

 理解できない状況に咲玖は混乱と恐怖で体が震え、うまく息が吸えず、額からは汗が噴き出す。その様子を見た男は体を起こし、穏やかな声で咲玖に語り掛けた。


「落ち着きなさい。決してきみに危害を加えたりはしない」


 真っ直ぐとこちらを見つめる男を睨みつけながら、咲玖は唇を噛んだ。


 そんなこと、信じられるはずがない。信じてはいけない。

 結局あの男たちに捕まって、この男に売り飛ばされたのも知れない。

 そうだとすればこの男は咲玖ケーキを喰らう捕食者フォークなのかもしれない。

 息の仕方がわからなくなり、締め付けられるように痛む胸をギュッとつかみながら咲玖は必死に逃げる方法を考える。だが、酸素をうまく取り込めずにいる体はどんどんと動かなくなり、思考も体も凍り付いていくかのように冷えていく。

 ベッドに片手をついて前かがみになると、それまで心配そうにこちらを見つめていた男は咲玖に近寄り、そっと背に手を伸ばした。


「大丈夫だ、ゆっくり息を吐いて」


 咲玖は伸ばされたその大きな掌を振り払おうとするが、すでに力の入らない体は言うことを聞かない。


「さ‥‥わ、るなっ……!」


 何とか振り絞った言葉と共に睨みつけた先に見えた顔は、美しいエメラルドグリーンの瞳の上にある形の整った眉を八の字に下げた。その顔に、すでに苦しいばかりの咲玖の胸に、なぜかそれとは違う小さな痛みがチクンと刺さった気がした。


「すまない。きみが落ち着いたらすぐに離れるから。今は息を整えてくれ」


 男はそう言うと、少し離れたところから手だけを伸ばし、咲玖の背を優しく撫でた。


 ――温かい……。


 さっき眠っていた時にも感じた優しい温もりに、なぜかほっと気持ちが落ち着く。同時に凍り付いた体も溶け始め、ゆっくりと呼吸はリズムを取り戻していった。咲玖が男の顔をチラリと見上げると、男はすぐに咲玖から手を離し、優しく微笑んだ。


「大丈夫かい? すぐに侍医を呼ぶ。その間、少し話すことはできるかい?」


 信用はできないが、目の前にいる男は随分と紳士的で、急に乱暴を働くようには見えない。さっき触れられた手も、優しく、温かった。

 そもそも、咲玖は身を守るすべを持っていないし、何よりもこの状況を把握しなければならない。そのためにも今は大人しく従うのが最善だと、咲玖はその男から目をそらしたまま小さく頷いた。

 その様子に安堵のため息を吐いた男は、ベッドから離れ、すぐ横にあるテーブルに備え付けられた椅子に腰を掛けた。


「私はラインハルト・フォン・オスマンサスと言う。きみの名前を教えてもらってもいいかな?」

「……蓮見はすみ 咲玖さく

「ファーストネームがハスミ?」

「……違う。咲玖がファーストネーム」

「サク、よい名だね。出身国は?」

「……日本」


 小さく、ポツリポツリと葉の上に落ちる小さな雨粒のように話す咲玖の言葉を、男はこぼさないようにしっかりと掬い上げていく。男の持つ穏やかな空気感のせいか、つい警戒心が緩んでしまいそうになり、咲玖は心の中で何度も「ダメだ」と自分に言い聞かせながらシーツを握る拳に力を込めた。


「では、ここがどこだかわかるかい?」


 咲玖が首を横に振ると、男は「そうか」と呟いた後、ここがベラーブル王国のバーデルンという場所であるということと、この屋敷の中庭で咲玖を見つけたと話した。


「べらーぶる……?」


 咲玖は世界事情に詳しいわけではないが、少なくともそんな名前の国は聞いたことがない。そう言えば、目の前にいる男も、部屋の雰囲気も明らかに日本のものではない。咲玖は思わず部屋の中をきょろきょろと見まわすが、部屋に置かれた調度品も、日本では“アンティーク”と呼ばれるようなものばかりに見える。


「目を覚ます前のことを覚えてるかい?」

「……川に落ちて……」


 男たちに囲まれて橋から飛び降りた後、確かに冷たい水の中に体が沈んでいった記憶はある。おそらくすぐに意識を失ったのだろう。特に苦しいとは感じなかった。その次に感じたのは優しく包み込まれるような温もり。それが心地よくてついすり寄ってしまったことをふと思い出し、熱の集まる顔を見られないよう、咲玖はぎゅうっと抱えた膝に隠れながら少しだけ男の顔へ視線を向けた。

 そんな咲玖の様子を見て心配になったのか、男は椅子から立ち上がってベッドの横で跪き、咲玖を真っ直ぐと見つめた。


「先にも言った通り、私たちはきみに危害を加えるようなことは決してしない。念のため弁解するが、さっき同じベッドに入っていたのは水にぬれて冷えてしまった君の体を温めるためだ。世界樹に誓って、きみの名誉を傷つけるようなことはしていない」

「世界樹……?」


 男は咲玖が自分の言葉に反応したことで目に見えて顔を明るくし、立ち上がってベッド端に腰を下ろした。


「我が国のあるフラクシナス大陸は『世界樹』と呼ばれる大木を中心として成り立っていて、その幹は天を、その根は地を支えていると言われている。さらに、天地に広がった世界樹は他の世界へとつながっていて、稀に他の世界からこの国へ客人を招くことがある」


 そのように招かれた者を『世界樹の客人』と呼ぶのだと、男は語った。

 こんな物語のような、ゲームの設定のような、現実とは思えない話しに頭が付いていかず、黙ったまま聞いている咲玖を男は優しく見つめながら、話しをつづけた。


「サク、きみは『ニホン』という国の出身だと言ったが、この世界にそのような名の国はない。きみのその外見と、ここに現れた状況から見て、サクは異世界から我が家に招かれた『世界樹の客人』だと私は思っている」


 その言葉にサクの心臓が大きくドクンと音を立てる。

 まさか、こんなありえない話を信じることなんてとてもできない。もしかしたら咲玖をだますための盛大なドッキリなのではないかとすら思う。

 もちろん、あの男たちが咲玖にそんなことをするメリットも意味もないことはわかっている。何より、目の前にいるハリウッドスターのような、もしかしたらそれよりももっと美しいこの男から向けられる、熱のこもった真摯な眼差しと、優しい重低音に乗せられた咲玖を思いやる言葉に、悪意や嘘が含まれているようには思えない。もし、これがすべて演技だとしたら、この美しい主演俳優は某映画賞を総なめすること間違いなしだ。


 ――でも、じゃあ本当にここは異世界ってこと……? そんなことあり得る?!


 まとまらない思考がグルグルと周り始め、言い知れない不安に胸がつぶされそうで、下に向けた視界は潤みぼやけていく。こみ上げる涙がこぼれ落ちないよう両手でシーツをぎゅうっと掴むと、少し離れたところに座っていたはずの男がその長い指で咲玖の手を取った。

 驚いて顔を上げた瞬間、男の美しいエメラルドグリーンの瞳と視線が重なる。


「サク、きみが不安に思うのは当然だ。私の言うこともすぐには信じられないだろう。だが、私はサクがここに来てくれてとても嬉しいんだ」


 真っ直ぐと咲玖に向けられたその瞳は、まるで咲玖の不安を包み込むかのように優しく、美しくて、咲玖は思わず息を呑んだ。


 コンコンコンッ――


 いつの間にか晴れた視界で、エメラルドグリーンの瞳に吸い込まれていくかのようにじいっと見つめていると、唐突にドアを叩く音が部屋の中に響いた。その音に驚いて咲玖がビクッと大きく飛び上がると、男は握ったままでいた咲玖の手を離してベッドから立ち上がり、『入れ』と声をかけた。

 まさか、ついにあの男たちが現れるのかと咲玖は服の胸元を掴んで身構えるが、開いた扉から入ってきたのは、咲玖を追いかけていた安っぽいスーツを着たチンピラなどではなく、さながら外国映画の登場人物のような燕尾服を着たグレイヘアの老紳士と、メガネを掛け、白衣を着た小柄な男だった。


「サク、この家の筆頭執事のオットーと、侍医のローマンだ」


 二人は咲玖に恭しく礼をし、まずは診察を、と言って白衣を着た男が咲玖に近づいてくる。咲玖が咄嗟に広いベッドの上を後ずさると、白衣を着た男はにっこりと優しく微笑み、穏やかな声色を咲玖に向けた。


「ご安心ください、私は医者です。あなた様は先ほどまで意識を失っていましたから、少しだけお体の様子を診せていただきたいのです。お手に触れさせていただいてもよろしいでしょうか?」


 これまでかけられたことのない丁寧な言葉に驚き、戸惑っていると、医者の後ろでその様子を心配そうに見ていた男は、エメラルドグリーンの瞳を細めて「大丈夫だ」と優しく微笑んだ。

 その笑顔になぜかドクンと心臓が跳ね、顔に熱がこもっていく。すぐに男から視線を外し、覚悟を決めておどおどと手を差し出すと、医者はそっとその手を取り、脈を計ったり、じいっと目を見つめたり、テキパキと咲玖の診察を進めた。

 何となく居心地は悪いが、医者からは咲玖に対する配慮のようなものを感じる。何よりその動作は、まるで高貴な人を相手にするように全てが慎重で、丁寧だった。


「体温も戻っていますし、脈も……緊張はしていらっしゃるようですが、問題ありません」


 そう言って診察を終えた医者が手を離すと、咲玖はパッとその手をひっこめた。まだ何かされるのかと構えていたが、そんなことはなく、医者は再び丁寧な礼をしてからあっさりと部屋を出ていった。

 なんとなく拍子抜けしていると、今度は燕尾服の老紳士が少しだけベッドに近づき、胸に手を当て、もう一度咲玖に向かって礼をした。


「改めまして、オスマンサス公爵家の筆頭執事、オットー・シュトレーゼマンと申します。サク様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」


 なぜこんな年上の、しかも今まで関わったことなど一度もない上品な老紳士が、ただのフリーターである咲玖を『様』づけで呼ぶのか。戸惑いでどう返したらよいのかわからず体を硬直させたまま黙っていたが、その間も老紳士は、頭を下げたまま咲玖の返事を待っている。その状況がいたたまれなくなり、咲玖はこくりと小さく頷いた。


「ありがとうございます。わたくしのことはオットーとお呼びください。ではサク様、これからお食事をお持ち致しますが、何か食べられないものはございますか?」


 咲玖はまた声を出さないまま、小さく首を横に振った。


「畏まりました。すぐにご用意いたしますので、もう少しだけお待ちください」


 そう言ってオットーも部屋を出て行き、再び男と二人っきりになったが、どうしても落ち着かず、所在なくキョドキョドと目を泳がせてしまう。その様子を相変わらず優しく微笑みながら見ていた男は、先ほど座っていた椅子に座り直してさらに目を細めた。


「ふふっ、借りてきた猫のようだね」


 男の言葉に、咲玖は思わず、ボッと火が付いたように顔が熱くなる。確かに自分でも落ち着きがないとは思う。だが、未だに自分の置かれた状況が理解できていないのだ。『そんなの仕方がないだろ?』という思いを込めて、ぐっと唇を尖らせながら潤んだ瞳で男を睨んだ。

 ところが、その様子ですら男は優しく、どこか嬉しそうな顔で咲玖を見つめてくる。

 こんな視線、今まで誰からも向けられたことはない。もちろん母親は、愛のこもった瞳で自分を見つめてくれた。だが、それともまた違う。まぁ初対面の人間から母親と同じ目で見られたら、それはそれで恐怖でしかない。

 とにかく、咲玖への悪意や、好奇、それから“あの男たち”が向けたような自分を値踏みするようなねっとりとした視線。そんな、嫌な感情は一切感じられない。

 それどころか、男の視線には咲玖への好意しか見えない。でも、それがどういうたぐいのものでも、理由のわからない好意を素直に受けることはできない。

 だって、咲玖は『被食者ケーキ』なのだから。


 咲玖のいた世界には、男女の性の他に、三種類に分けられる二次性が存在した。

 それは、『捕食者』と言われる“フォーク”、『被食者』と言われる“ケーキ”、そのどちらでもない“ナチュラル”に分けられる。人口の大多数が“ナチュラル”で、二次性を持つ者はごく数パーセントだ。

  “フォーク”は後天的に発現し、味覚を失う。何かきっかけがあったという人もいれば、ある日突然、と言う人もいて、その原因は今もわかっていない。そのフォークが唯一、味を感じられるのが “ケーキ”という存在だ。フォークにとってケーキはただひたすらに甘く、香しいまさに嗜好品ケーキなのだという。

 フォークがケーキを『食べたい』と思ってしまうのは食欲に直結する本能で、そう簡単に抗えるものではない。そのため、フォークがケーキを“捕食する”という事件がたびたび起きるほどだった。

 ケーキは先天的な二次性で、出生時の検査で判明するが、フォークよりもさらに数が少なく、見た目では判断が付かない。フォークから身を守るために自らケーキだと公言する者もほぼおらず、ナチュラルにとっては“普通の人”と変わらない存在だった。

 ところが、ある時からケーキの体液、はたまたその存在ごとフォークに売りつけ、金儲けをするものが現れる。それまで簡単に“食欲”を満たすことができなかったフォークたちは、争うようにこの売買にのめり込み、莫大な金が動くようになった。

『ケーキは金になる』ということが世間に知られ、これまでフォークとの接触だけを気を付けていればよかったケーキたちは、金に目がくらんだナチュラルにも狙われるようになり、さらにその素性を隠して生きることを強いられるようになった。金のために自分を売るようなケーキもいたが、それは命を売ることとほぼ同義だった。

 当然咲玖も身を守るために常に自分に向けられる視線に敏感になって生きてきた。それは同じくケーキだった母からの教えでもあった。


「サク、一応先ほど名乗ったが、私の名は覚えているかい?」


 過去の暗い記憶に沈みかけた咲玖の意識は、ふいに投げかけられた重低音で元の場所へと戻された。

 確かに先ほど名乗られた覚えはある。暗い記憶を振り払い、咲玖は一生懸命に少し前の記憶を探るが、先ほどまでいた老紳士の名前をぎりぎり覚えているくらいだ。何とも言えないバツの悪さを顔に出したまま、下を向いて首を横に振った。


「ははっ、大丈夫だ。では、改めて名乗ろう。私の名はラインハルト・フォン・オスマンサス。ここ、オスマンサス公爵家の当主だ」


 “公爵家”というのがどのくらいの地位なのか咲玖にはわからないが、とりあえず偉い人だというのはわかった。だが、日本人としてなじみのないカタカナの長い名前はやはりすんなりと頭に入ってこない。


「ら、らいん……?」


 ギリギリ聞き取れた初めの方だけおずおずと聞き返すと、“公爵様”はまたエメラルドグリーンの瞳を細めた。ただでさえ美しい色をしたその瞳を直視するには勇気がいるのに、さらにそこに込められた思いを想像すると、どうも自意識過剰な考えが浮かびむず痒くなる。


「ラインハルト、だ。きみの国ではなじみのない名前なのかな? 呼びやすいように呼んでくれればいい」


 ようやく聞き取れた名を心の中で唱えてみるが、日本から出たこともなければ、外国人の知り合いもいない咲玖にとってはなじみもないし、しっくりも来ない。少し思案して、思いついたことが思わず口に出た。


「ライ、とか…」


 咲玖は言ってから、目の前にいる人が『偉い人だった』ことを思い出し、ハッと口を両手でふさいだ。恐る恐る公爵様をみるが、目に入ったのは “偉い人”の威厳など微塵も感じられない、顔の筋肉がとろけてしまったような緩んだ顔だった。


「それ、とてもいいね。嬉しいよ」

「で、でも、あんた偉い人なんじゃ……」

「かまわないよ。きみは特別な人だからね。ぜひそう呼んでほしい」


 相変わらず緩み切った顔を向ける公爵様の視線に、咲玖はまたどんどん顔に熱が集まっていく。

 まだ警戒心を解いたわけではない。信用したわけではない。だが、そんな頑なな自分がバカみたいに思えるほど、公爵様の表情も態度も柔らかくて温かい。なんとなく悔しい気持ちでいると、再びドアを叩く音が聞こえた。

 部屋に入ってきた老紳士が運んできたカートには、何やらいい匂いがする湯気の立った器とカトラリー、それから、水差しとコップが乗せられていた。

 ラインハルトはそこから器を取ると、スプーンを乗せて咲玖に差し出した。

 咲玖はそれを受け取ろうと手を少し伸ばしたが、ふと、また臆病な気持がよぎり、手を下げ、目線を逸らす。すると、公爵様はスプーンを手に取り、器の中に入っていたものを少し掬って自分の口へと運んだ。


「大丈夫、問題ない。味も良いだ。安心して食べなさい」


 そういうと、また少し掬って咲玖の方にスプーンを差し出した。公爵様自ら“毒見”をされてしまっては食べないわけにもいかない。咲玖は差し出されたスプーンへおずおずと顔を寄せ、思い切ってぱくっと口に入れると、ミルクとチーズの優しい香りが鼻に抜け、じんわりとした温かさが口の中に広がった。


「おいしい……」


 呟くようにこぼれたその言葉に、公爵様は目を細め、老紳士はほっと胸を撫で下ろしていた。

 もう一度そのスープのようなものを掬ったスプーンを差し出されたが、「自分で食べる」と咲玖は器ごと受取る。子供ではないのだし、初対面の男にしてもらうことではない。なぜか公爵様は残念そうな顔をしたが、咲玖がそれを食べる様子をニコニコとしながらずっと見ていた。


 食事の後、咲玖は一人になった部屋の窓から外を覗いてみるが、月明りに見覚えがあるものは何一つとして映らない。

 まだ、この状況を受け入れられてはいない。“異世界”だなんてとても信じられない。だが、少なくともこの家の人たちは、咲玖を捕まえようとしていたやつらとは違う、と思う。考えていても結論は出ないのだから、とにかく眠ろうと潜り込んだベッドは、驚くほどふかふかで、柔らかい。それなのに、なぜか何かが足らない気がする。ひんやりとするシーツに頭からくるまり、咲玖はギュッと目を閉じた。

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