第7話 神話の始まりと世界の波紋


 神罰の天槍が世界に刻んだ巨大な傷跡を前に、バルバトス家の軍勢は、まるで潮が引くように無言で撤退していった。

 恐怖に支配された彼らは、一度としてこちらを振り返ることはなかった。当主グレンも、敗残兵のように力なく馬に揺られている。


「やれやれ、やっと帰ったか。これで静かになるな」

 俺はバルコニーからその光景を見送り、大きく伸びをした。ようやく、待ちに待った平穏なスローライフが戻ってくる。


「アッシュ様……」

 隣で、ルナリアが畏怖の念のこもった瞳で俺を見上げていた。

「あれほどの御力……軽々しく振るわれるべきでは……。世界そのものを傷つけかねない、あまりにも強大すぎます」

 彼女は、先ほど俺が放った一撃を、心底憂いているようだった。

「ん? ああ、ただの石投げだよ。ちょっとコントロールをミスっただけだ」

「いしなげ……」


 ルナリアは絶句していた。神々が振るうという天罰の槍を「石投げ」と言い切る俺の感覚が、彼女にはもはや理解不能なのだろう。この勘違いが解ける日は、果たして来るのだろうか。


「それより、問題はあっちだ」

 俺は、天槍が穿った巨大な更地を指さした。森の一部が、まるごと抉り取られている。これでは景観が悪いし、生態系にも影響が出そうだ。前世のキャンパー魂が「来た時よりも美しく」と囁いている。

「ちょっと見栄えが悪いからな。直しとくか」

「な、直す、と仰せられるのですか……!? 神の御業によって引き裂かれた大地を……!?」

「まあ、適当にな」


 俺はスキルを発動し、『地形修復』をイメージした。荒れた地面を元に戻し、ついでに綺麗な花でも咲けば見栄えも良くなるだろう。


《オブジェクト:【創世の息吹】の創造(発動)に成功しました》

《効果:破壊された地形を再生し、以前よりも生命力に満ちた土地へと作り変える。空間に満ちるマナを浄化・活性化させるフィールドを永続的に生成する》


 俺が地面に軽く手をかざすと、更地の全体が柔らかな光に包まれた。

 次の瞬間、ルナリアは、そして俺自身も、我が目を疑う光景を目の当たりにした。

 抉り取られたはずの大地が、まるで意思を持つかのように盛り上がり、みるみるうちに再生していく。それだけではない。再生した大地の上には、見たこともない色とりどりの花々が咲き乱れ、清らかな小川が生まれ、せせらぎの音を奏で始めた。

 無機質な破壊の跡地は、わずか数十秒で、神話に謳われるエルフの里のような、幻想的な渓谷へと生まれ変わった。


「……」

 ルナリアは、その光景を前に、ただ静かに涙を流していた。

 やがて彼女は、懐から小さな手帳と羽根ペンを取り出した。それは、俺がスキルで作ってやった『無限インクのペン』と『自動記録手帳』だった。

「ルナリア?」

「……私は、決めました。アッシュ様のこの御業の数々を、その御言葉を、一つ残らず記録し、後世に正しく伝えること。それが、あなた様にお仕えする、私の第一の使命です」


 彼女は、決然とした表情で、手帳の最初のページにこう書き記した。

『―――創世記、第一節。はじめに、神は大地を再生された。その御名はアッシュという―――』

 俺の勘違いスローライフが、本人の全くあずかり知らぬところで、壮大な「聖典」として編纂され始めた瞬間だった。



 一方、その頃。バルバトス辺境伯の屋敷は、絶望的な静寂に包まれていた。

 当主グレンは、あの日以来、自室に閉じこもったきりだ。執務も、軍議も、すべてを放棄し、ただ「我々は、触れてはならぬものに触れたのだ……」と、虚ろに繰り返すばかり。父の野心は、神罰の光によって完全に消し炭と化していた。

 次男ダリウスもまた、自身の傲慢さが招いた惨劇と、弟だと思っていた存在の変貌に打ちのめされ、自室で呆然と過ごす日々を送っていた。


 機能不全に陥ったバルバトス家を、静かに立て直そうとしている者がいた。

 長兄、ガイウス・フォン・バルバトス。

 遠征には参加せず、領地の守りに就いていた彼は、父と弟から事の次第を聞き、冷静に状況を分析していた。


(……神、か。馬鹿馬鹿しい)

 ガイウスは、書斎で一人、地図を広げながら思考を巡らせる。

(だが、我が家の全軍を、それも父上とダリウスを、赤子の手をひねるように退けた『力』は本物だ。問題は、その力の正体と、それを操るアッシュの目的だ)


 彼は、父や弟のように、感情やプライドで物事を判断しない。常に冷静で、狡猾。そして、目的のためなら手段を選ばない冷徹さを持っていた。

(武力での制圧は、もはや不可能。ならば、別の手でいくしかない)

 彼は、嘆きの森が描かれた一点を、指でなぞった。

(アッシュ……出来損ないだと思っていたが、とんでもない化けの皮を被っていたものだ。だが、貴様のその力、この私が必ず解明し、利用させてもらうぞ……)



 そして、その波紋は、ついに王国の中心、王都にまで達していた。

 王城の一室では、国王と宰相、そして騎士団長や諜報部の長官といった、国の最高首脳部による極秘の会議が開かれていた。


「―――以上が、諜報部が掴んだ情報のすべてです」

 諜報部長が、苦々しい顔で報告を締めくくった。

「バルバトス辺境伯家が、領内の『嘆きの森』にて、所属不明の勢力と交戦。結果、当主グレン卿が出陣したにも関わらず、一方的に撃退され、壊滅的な被害を受け撤退した、と」

「馬鹿な!」

 騎士団長が、声を荒らげた。

「あのバルバトス家の軍勢を、一方的にだと? どこの国の差し金だ! あるいは、伝説級の竜でも現れたか!」

「それが……」

 諜報部長は、さらに信じがたい報告を続けた。

「生存者の兵士たちから漏れ聞こえてくるのは、『森に神殿が現れた』『聖女のような少女がいた』『神罰が下った』など、およそ現実的とは思えぬ証言ばかりでして……」


 会議室は、混乱に包まれた。

 宰相は、皺の刻まれた額を押さえながら、静かに国王に問いかける。

「陛下……。これは、バルバトス家の反乱の兆候と見るべきでしょうか。あるいは、本当に我々の理解を超えた何かが、西の辺境で起ころうとしているのか……」

 国王は、玉座で腕を組み、難しい顔で沈黙していたが、やがて重々しく口を開いた。

「……いずれにせよ、放置はできん。我が王国を脅かす火種は、小さいうちに摘み取らねばならん。―――『王立魔導騎士団』に、最高練度の調査団を編成させよ。目標は、『嘆きの森』の完全調査。そこに巣食う『謎の勢力』の正体を、何としてでも突き止めるのだ」


 一個人のスローライフは、今や国家レベルの安全保障問題へと発展しようとしていた。


 そして、その数日後。

 アッシュとルナリアが、新しくできた渓谷で水遊びをしていると、森の木々の間から、一人の訪問者が姿を現した。

 それは、バルバトス家の兵士でも、王国の騎士でもなかった。

 尖った耳、美しい弓を背負い、自然と調和した緑色の衣服を纏う、一人のエルフの女性だった。


 彼女は、神話のような光景(再生された渓谷)と、その中心で無邪気に遊ぶ俺たちを見ると、驚きに目を見開き、そして、ゆっくりとその場に膝をついた。

「……まさか……古の伝承にあった、森を浄化する『大地の守り人』様が、実在したとは……」


 俺の平穏なスローライフに、また一人、新たな勘違いをする人物が登場しようとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る