第4話 出来損ないの慈悲と王国の震撼
「ア……アッシュ……!? な、ぜ……お前が、こんな、場所に……!?」
兄、ダリウスの驚愕に満ちた声が、地面から響いてくる。
出来損ないとして蔑み、死地であるはずの森に捨てた弟。その弟が、まるで神殿の主のように、美しい少女を傍らに従え、自分たちを蹂躙したゴーレムを使役している。彼の傲慢なプライドと、目の前の現実が、激しく衝突して火花を散らしていた。
「久しぶり、兄さん。見ての通り、ここで新しい家を建てて暮らしてるだけだよ」
俺はバルコニーから、できるだけ面倒くさそうに答えた。関わり合いたくない、という気持ちの現れだ。
「それより、人の家の庭先で騒ぐのはやめてくれないかな。畑が荒れるだろ」
その平然とした俺の態度が、ダリウスのちっぽけなプライドの最後の砦を打ち砕いたらしい。
「き、貴様ぁっ! この出来損ないが、俺に向かってその口の利き方はなんだ! その女は誰だ、その土人形はなんだ! まさか、魔族にでも魂を売ったかッ!」
負け犬の遠吠えとは、まさにこのことだ。
やれやれ、どうしたものか。そう俺が口を開きかけた、その時だった。
「――黙りなさい」
俺の隣に立つルナリアが、凛とした、しかし氷のように冷たい声で言い放った。
彼女は、ダリウスを虫けらでも見るような目で見下ろしている。
「神匠様の御前で、その汚れた口を開くことを、誰が許可しましたか。あなた方の罪は二つ。一つは、許可なくこの聖域に足を踏み入れたこと。そしてもう一つは、今、この世界で最も尊き御方を、その下賤な言葉で侮辱したことです」
ダリウスが何か言い返す前に、ルナリアは静かに目を閉じ、祈りを捧げるかのように両手を組んだ。
「万死に値しますが、アッシュ様は慈悲深い御方。命までは奪いません。ですが、罰は受けていただきます。――聖域を侵す鉄塊よ、創造主たる母なる大地へ還りなさい」
その瞬間だった。
ダリウスたちが纏う鋼の鎧や、手にした剣が、淡い緑色の光を放ち始めた。
「な、なんだこれは!?」
「鎧が……! 鎧が体に絡みついて……!」
光は、まるで生きているかのように蠢き、やがて細い蔦となって兵士たちの体を縛り上げていく。カチャカチャと音を立てていた金属は、急速に錆びつき、その役目を終えたかのようにボロボロと崩れ落ちていった。
【神木の結界要塞】と【エデンの果樹園】、二つの神話級オブジェクトが、ルナリアの祈りに応えたのだ。彼女の聖なる力が、この聖域の管理者として認められた証だった。
「う、動けん……!」
完全に武装を解除され、蔦に縛り上げられた兵士たちは、なすすべもなくその場でひれ伏す形となった。
俺は、その光景を見て内心冷や汗をかいていた。
(うわ、やりすぎだろ……! 完全に悪の組織のやり方じゃん!)
だが、ここでルナリアを止めれば、彼女の「神匠様の巫女」としてのメンツを潰しかねない。俺は黙って成り行きを見守ることにした。
◇
「……さて、と」
縛り上げられ、恐怖と混乱に震える兵士たちを見下ろしながら、俺は一つため息をついた。
(兄貴は自業自得だが、こいつらは命令で来ただけだよな……。怪我もしてるみたいだし、このまま帰すのも寝覚めが悪い)
前世のソロキャンパーとしての信条は「来た時よりも美しく」。それは、人間関係にも適用されるべきだろう、多分。
「少し、待ってろ」
俺はそう言うと、拠点の中に戻り、スキルウィンドウを開いた。
必要なのは『応急手当用の傷薬』だ。前世のキャンプで常備していた、ただの軟膏をイメージする。
《オブジェクト:【生命のエリクサー】の創造に成功しました》
《効果:あらゆる傷や病を瞬時に全快させる。失われた四肢さえも復元し、少量で瀕死の者をも蘇生させる奇跡の霊薬》
……まあ、そうなるよな。
俺の手のひらに現れたのは、小さな壺に入った、虹色に輝く軟膏だった。もはや、ただの傷薬ではないことなど、見ただけで分かる。
俺はそれを持ってバルコニーに戻ると、待機していたガーディアンの一体に壺を投げ渡した。
「なあゴーレム、あの人たち、怪我してるみたいだから、それを塗ってやってくれ」
俺の言葉に、ルナリアが息を呑んだのが分かった。
「アッシュ様……!? そ、それはまさか、神々がその一滴を求めて争ったという、伝説の……!」
「ああ、うん、多分ただの傷薬」
「そして、終わったらちゃんと森の外まで送り届けてやれよ。優しくな」
俺の命令を受け、ガーディアンは縛られた兵士たちへと歩み寄った。
「ひっ、く、来るな……!」
恐怖に怯える兵士たちを意に介さず、ガーディアンはその指先でエリクサーを少量すくい取ると、代表の一人の腕の傷にそっと塗りつけた。
その瞬間、奇跡が起こった。
傷口が眩い光を放ち、まるで時間を巻き戻すかのように、瞬きの間に塞がっていく。骨折していた者は骨が繋がり、打撲の痣は消え、疲労困憊だった体には活力がみなぎってくる。
それは、治療というよりも、神による再生の御業だった。
「な……なんだ……傷が……痛みが、全く……!」
「力が、漲ってくる……!?」
兵士たちは、自分たちの身に何が起きたのか理解できず、ただただ唖然としている。
それは、プライドをズタズタにされ、地面にうずくまっていたダリウスも同じだった。ガーディアンに無理やりエリクサーを塗られ、全身の怪我が一瞬で完治した彼は、もはや恐怖で声も出せない。
圧倒的な力で一方的に無力化され、
聖女の如き少女の祈りで武装を奪われ、
そして、主と思しき男(アッシュ)の気まぐれな「慈悲」によって、神の奇跡で全快させられる。
もはや、戦うとか、敵対するとか、そういう次元の話ではなかった。
彼らが今対峙しているのは、人間ではない。
神か、あるいはそれに限りなく近い、決して理解の及ばぬ超越的な存在なのだと、その魂に刻み付けられた。
力でねじ伏せられるよりも遥かに残酷な方法で、彼らは「格の違い」を思い知らされたのだ。
「《……では、これより皆様を、森の入り口までご案内いたします》」
ガーディアンの無機質な声に、兵士たちはビクリと体を震わせると、まるで亡霊に追われるかのように、一目散に森の中へと逃げ帰っていった。
兄ダリウスも、一度だけ、恐怖と屈辱に歪んだ顔でこちらを振り返ったが、すぐに兵士たちの後を追っていった。
◇
「やれやれ、やっと静かになったな」
嵐が過ぎ去った庭を見下ろし、俺は大きく息を吐いた。これで当分、面倒ごとはごめんだ。
ふと隣を見ると、ルナリアがうっとりとした、熱に浮かされたような瞳で俺を見つめていた。
「アッシュ様……」
「ん? なんだ?」
「……敵対し、あなた様を侮辱した者にさえ、神の霊薬をお与えになるなんて……。あなた様こそ、慈悲を体現された、真の聖者でございます」
「いや、だからあれはただの傷薬だって……」
俺の言葉は、もう彼女には届かない。
俺の勘違いスローライフは、俺のあずかり知らぬところで、とんでもない波紋を広げ始めていた。
――同日、夕刻。バルバトス辺境伯の屋敷。
当主グレンは、満身創痍で逃げ帰ってきた息子、ダリウスからの報告に耳を疑っていた。
「……父上……」
ダリウスは、血の気の引いた顔で、わなわなと震えている。
「……嘆きの森には……化け物が……いえ……」
彼は、ごくりと唾を飲み込むと、絞り出すように言った。
「――神が、おりました」
その報告は、バルバトス家のみならず、やがて王国全体を震撼させる、壮大な勘違いの序曲に過ぎなかった。
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