バニラホームを訪ねて

 バニラの匂い。

 真昼と汐の自宅を訪ねて、まず頭に浮かんだのはそれだった。ドアを開けるとほんの微かにだが、甘い匂いが漂っている。

 あの時はただ甘いとしか思わなかったが、太陽にアイスの匂いと教えられて合点がいった。知ってしまったらもうそうとしか思えない。

 それから、靴箱の上の小瓶が目に入った。口の部分に結ばれたリボンが印象的だ。


「ああ、これ、真昼の香水なんですよ」


 月生の視線に気づいた汐はうれしそうに瓶を手に取り、月生に渡してきた。

 二頭のユニコーンが角を突き上げたパッケージ。

 ロゴはペンハリガン……と読むのか。英国で十九世紀から続く老舗ブランドだと教えてくれた。


「姉が亡くなってからは、最後の大会前なのに部活も辞めて友達付き合いもしなくなって。

 私も同居して仕事も在宅にしたので、そばにいられるのはうれしいけど、心配で。

 唯一の救いがこの香水で。ねだられて、ちょっと高価だったけど買ってあげたんです。やっぱり女の子なんだなぁって。

 ごめんなさい。真昼がしたことを謝らなきゃいけないのに、こんな」

「姪御さん思いなんですね」事務所で真昼に身を寄せる姿を思い出して言う。


 この度は本当に申し訳ありませんでした、と汐は頭を下げる。

 市の郊外、宅地とも言い難いエリアに佇む古びた一軒家が、二人の住まいなのだという。もとは朝海の両親の持ち物で、彼らの死後は朝海が相続し、現在は真昼が相続していると。

 月生がこの家を訪ねたのは半ば偶然だった。

 つい十五分ほど前、この家の近所の山林入口にいた時のことだ。

 朝海の遺体の発見場所だった。現場を見れば何かインスピレーションがあるかもと来てみたのだが、事件から数ヶ月、痕跡などとうに消えてしまったと見るべきだろう。

 朝海に供えられたのだろう菓子や花の他、使用済みコンドームも落ちていて、どういう性癖なんだと思ったところに、声をかけてきたのが汐だ。供えた花を片付けに来たと。

 それから真昼が先日事務所のガラスを割った件に話が及び、自宅へ招かれる形となったのだった。


「今日、真昼は模試のために登校してて。学校が終わったら改めて事務所に伺いますので」

「大丈夫ですよ。いや、正直、神野と会わせるのも怖いですし」

「……そうですね。すみません」


 リビングに通され、重ねて謝罪を受ける。慰謝料込の修理費を渡され、その件はもうどうでもよかったが、真昼に会えないのが惜しくはある。


「真昼さん、お母さんっ子だったんでしょうね」

「ええ。それはもう。兄が亡くなってから母一人子一人だったので。兄が生きていた頃から、仲の良い家族だったんですよ?」


 汐が近くの棚から写真立てを持ってくる。親子三人の写真だった。今よりずいぶん幼い真昼と、それから両親。父親は真昼の中学時代に癌で亡くなっている。

 今との一番のちがいは真昼の成長以上に朝海の体型だろう。

 捜査書類の写真ではかなり太っていたように思うが、この頃はむしろ痩せ型で、対して亡き夫が肥満体。夫の死後の苦労で太ったのかも知れないが、どことなく夫が乗り移ったかのような構図だ。


「朝海さんを、殺されて、それで……真昼はあんなことになって、きっと二人も悲しんでます。私も、やめなさいって言ってるんですけど。神野さんも危険な目に」

「アイツは気にしてないですよ」

「……でも、私も、加賀美ライラは許せません。お二人に、とは言いませんけど早く捕まえてほしいです。

 じゃなきゃ、あの子は活動をやめてくれない気がして」

「その件なんですが」


 ひと呼吸挟み、ミネラルウォーターで喉を潤して続ける。


「恐らく


 汐はわかりやすく呆気にとられた様子だった。


「どういうことですか?」

「もちろん、後の三件は加賀美の犯行と考える他ありません。

 しかし朝海さん殺害に関してはそれらとちがう部分が多すぎて、私には同一犯とは思えないんです。犯行が夜だなんて正直どうでもいい」

「……死体が傷つけられてることですか?」


 そう、と返して続ける。捜査資料にしか載っていない首の傷のことは持ち出さずとも、報道された情報だけで違和感を指摘するには十分だった。


「死体損壊の犯人は刃物で切ったり鈍器で叩いたり、道具に頼っているそうです。しかし、吸血鬼の腕力は虫の脚をもぐように人間を解体できる。道具なんか必要ないはずだ」

「そういえば、そうですね」

「まあそれだけなら、加賀美ライラの犠牲者を別な何者かが傷つけたのかも知れない。けど、恐らく朝海さんは吸殺されていない。遺体には解体時に飛び散るくらいの血が残ってたそうですから。

 吸血鬼は血を吸いたいんです。たとえ吸血以外の方法で殺したとしても遺体の血は頂戴するはずだ。だから加賀美は犯人じゃない」


 汐は月生の推理に一時納得した様子だが、「でも」と指摘する。


「牙痕があるんですよね? それは加賀美ライラのものにちがいないんでしょう?」

「ええ。だから、加賀美に襲われてはいたはずだ。

 そこに第三者が割って入ったんだと思います」


 結果、加賀美ライラは吸殺することなく退散し、その第三者が朝海を殺した。

 真犯人は凶器を辿られかねない傷を隠蔽すべく死体をめちゃくちゃに損壊し、そして加賀美ライラの牙痕だけが明確に持ち主を示す痕跡として残った。


「第三者って?」

「重要なのは、加賀美を退散させていることです。吸血鬼を。だとしたらそいつは、加賀美より強い、とまではいかなくとも、食事を巡って戦うのは面倒と思わせる戦力があるはずだ。

 彼女と同じ吸血鬼だとしたら、さっき指摘した遺体の不自然さがそのまま当てはまる。

 だから吸血鬼ではなく、吸血鬼が脅威を感じる戦力の持ち主。且つ、吸血鬼を積極的に襲う動機がある」

「……ハンター?」


 月生は頷く。夜の吸血鬼というほぼ無敵の怪物への脅威となれば、聖銀で武装した狩人たちを置いて他にないだろう。


「当初は加賀美を狙っていた。けれど巻き添えの形で、例えば流れ弾に当たるなどして朝海さんは死んでしまい、肝心の加賀美には逃げられた。彼らは自分たちが犯人であることを隠すべく、銀弾を摘出するために肉体を損壊、去っていった。

 私が頭に描いているのはこういうストーリーです。現在の加賀美がハンターを狙うのはその時の恨みかも知れない」

「そんな……じゃあ」


 汐は声を震わせる。それが本当なら、真昼は母の仇に加わって、見当違いの復讐へ走っているのか、と。


「今の話は憶測です。証拠はないし、まだ腑に落ちない部分もある。勝手に犯人扱いするわけですし。真昼さんに真犯人はあいつらなんて言うのは危うい。だから言わないでください。

 ただ、加賀美の犯行が疑わしいという部分は、できれば私から言いたかったんですが」

「必ず、私が伝えます」

「……お願いします。

 ……真昼さん、誕生日なんですか」


 なんとなしに室内を見回していると、壁掛けのカレンダーが目に止まった。今日に当たる日付に赤字で『真昼 ハッピーパースデー』と書き込まれている。


「ええ。十八歳。今はもう成人なんですよね」

「おめでとうございます」

「ありがとう。でも、大人になった日に、あんな幼稚な悪さをしたって知らされるなんて」

「叱ったら、祝ってあげてください。更生するのにも、大切にしてくれる人がいるのが一番大事ですから」


 汐は頷きつつも、何だかあまり嬉しくなさそうな、固い笑い方をした。


「あの子、学校が終わったらお墓参りに行こうって言うんですよ?」

「……ご両親の?」

「ええ。四丁目の、お寺の。今は少なくなりましたよね。

 誕生日にお墓参りって、親孝行かも知れないけど、事件のことに囚われてるんだなと思うと」

「……加賀美ライラを捕まえることが、解放のきっかけになるかも知れない。朝海さんの死の真相だって加賀美なら語れることがあるはずだ」


 その言葉に、汐ははっと顔をあげる。


「依頼、受けてくださるんですか?」

「いえ……やっぱり不確実すぎますし。ただもしも我々が捕まえたら、ヘブン探偵事務所の功績をバンバンアピールして宣伝に協力してください。それが依頼料ということで」


 汐が「ええ」と頷く。それから、真昼にと言ってメモ書きを手渡した。


「捜査一課の球地刑事の番号です。事件のこと以外も、同性ですし、何かあったら彼女に相談して欲しいと」


 用が済んだ月生は家を出て、車を停めていた駐車場へ向かう。

 まだ十六時前だったが空の色は青から藍色に差し掛かり、買い物を住ませて事務所へ戻るころには完全に日が沈んでいた。少し前まで昼下がりだった時間帯が夜になることに、毎年のこととはいえおどろいてしまう。

 ドアを開ける際には年末調整のことが頭にあったが、中へ入った瞬間、それら全て頭から吹き飛ぶことになる。

 太陽が事務所に倒れていた。

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