初恋を論文にしたら、なぜか査読が通らない件

八海クエ

第1章 ほんとうのこと

第1話 夏の終わりと、転校生

 繰り返し実証されている研究によれば、恋愛が人間を成長させる(※1, 2)。


 この物語は、ある恋の始まりと、当事者たちの成長に関する研究成果をまとめたものだ。


 浅学非才せんがくひさいの身ながら、みなさまによる査読をお願いしたく、ご連絡差し上げた次第である。


◇◇◇


 窓からそそぐ、チリチリとした紫外線を身体に受けて、少女がいる。


 北川高校の夏休み明け。


 藤咲ふじさき 七海ななみは、1年B組にいた。


 七海は、身なりでこそ「ギャル風」に整えてはいる。


 しかし、彼女の清廉せいれんさは、まったく隠せない。周囲から自然と視線を集めてしまう、髪の長い、目鼻立ちの整いすぎた、少女。


 教室は少し暑い。エアコンの風はぬるくて、カーテンをゆっくりとふくらませている。


担任「今日から、転校生がきます」


 ドアがすべる音。乾いた靴音がしてくる。


 濃い紺のブレザー、胸には小さな銀のエンブレム。ネクタイは細いしま。


 北川高校の制服じゃない。


——ああ、知ってる。神戸の名門、白嶺しらみね学院だ。


女子A(あの制服……高校生クイズでいつも優勝してる……)

男子A(テレビで、あのエンブレム、みたことある……)


 黒縁メガネ、長い黒髪。前髪に隠れて、顔はよくみえない。背が高い。


 人を切ったことのある刀のよう。鋭利。


 クラスのざわざわが、消える。


御影「御影みかげ れんです。よろしく」


 低くて、静かだけれど確かな声。短い自己紹介だった。


 その瞬間、黒くみえていた御影の目の色が、七海には「ゆれた」ように感じられた。


——いま、目の色、変わった?


 御影の席は、七海の後ろになった。椅子がきしみ、机の脚のゴムが床をこする音がする。


 七海は、男性のことが病的にこわい。


 だから七海は、いつも男性から物理的な距離を取る。男性から名前を呼ばれたら、半歩さがる。七海には、そんな癖がついていた。


 男性が近づくと、普段なら、七海の身体はこわばる。でも、御影を背にしたこのときは、肩が少し固くなっただけ。不思議と、スッと全身の力が抜けた。


——彼は、こわくない?


 七海ななみは、背後にいる御影の気配を、ずっと意識している。


 御影みかげが出す音は、とても小さい。シャープペンの芯を出す動作も、一回だけ、カチ。そもそも、身体をほとんど動かさない。無駄がない。


 七海の頭のどこかが、チリッと光る。


記憶『どうして、あんなこと言ったの? レネーなんて、大嫌い!』


 すぐ、消えた。夏休みにみた、あの陽炎かげろうみたいに、形にならない。


——なに、いまの? レネー? 誰?


 チャイムが鳴る。最初の休み時間。


 教室はにぎやかになった。外では、セミが鳴いている。なんだか無駄に、色々な音が大きく聞こえる。


 御影には、まだ、誰も話しかけない。どこか、人間とは違う種類の危険な生物のよう。みんなが、御影のことを警戒している。


 七海も、少しだけ御影を警戒する。けれど


——彼は、静か。そして、きれい


 七海は、振り向かない。


 七海は付箋ふせんを出した。そこに、『以前、どこかでお会いしましたか?』と書く。それを2回折って、ペンケースにしまった。


——この付箋、きっと、彼に渡せない


 2時間目。


 チョークの粉がふわっと舞って、光を反射する。


 七海は黒板の文字をノートに書き取る手をとめ、視線を窓のほうに向けた。


 ガラスに、うっすらと御影の姿が映っている。御影の肩は、七海の頭よりも高い位置にあった。


——大きな人。顔、みえないな


 そう思ったとき。ガラスの中の御影が、少しだけ顔を上げる。


 光が、黒縁メガネのレンズにあたって、キラッとする。レンズの角度が変わる。光が消えると、代わりに一瞬だけ、薄青い色がみえた。


 七海の心臓が、キュッと固くなる。


——放課後、話しかけてみよう。


 七海は、御影に、学校新聞を渡すことを思いつく。短く「これ、今月の」と。それだけ。こわくて無理そうなら、やめればいい。


 3時間目。


 七海の、ペンを走らせる手が、ふと止まる。自分のつま先が、ほんの少しだけ後ろのほうを向いている。七海はそれに気づいて、つま先を前に戻す。深呼吸。


男子B「起立ー、礼ー」


 昼前のチャイム。クラスがわっと動く。


 七海は、座ったまま。また、窓ガラスに映る御影をみる。


 このときも、御影の目の奥がふっとゆれて、黒とは別の色がみえた。だが、すぐまた黒に戻る。


 長い前髪が、御影の顔を隠す。


——彼は、あまりこわくない。なんでだろう


 御影は、七海から半歩だけ後ろにいる。御影には、他の男性が近づいたときに感じる「耳の奥のザワザワ」を、ほとんど感じない。


 夏は終わりかけ。


 空は白っぽくて、雲はもう薄くなっている。


 七海のほほがぬれていた。それを指でさわって、びっくりする。


——涙? こわいからじゃない。あたたかい。私、うれしいんだ


 七海の胸の奥で、小さな花がひらいたみたいに


 それは、ふわっと広がった。



参考文献;

1. Aron, A., & Aron, E. N. (1986). Love and the expansion of self: Understanding attraction and satisfaction. Hemisphere Publishing Corp.

2. Drigotas, S. M., Rusbult, C. E., Wieselquist, J., & Whitton, S. W. (1999). Close partner as sculptor of the ideal self: Behavioral affirmation and the Michelangelo phenomenon. Journal of Personality and Social Psychology.

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