第7話



「……そうか、敬一の奴、そんな事を言ってやがったのか」


 浅子の話を一通り聞き、末松の声も沈んでいた。


 背を丸め、俯いた体に先程までの荒々しさは見る影もない。


「あいつが悪ガキの玩具になってたのは知ってる。小学校の行き帰り、散々罵られてたからな」


「末松さん、ご自身でその現場を目撃されたのですか?」


 落ち窪んだ目を細くし、老人は遠い過去の光景を脳裏へ巡らせていた。


「子供の声、甲高いやろ。近くにいたら嫌でも聞こえるわ」


「どんな風に?」


「弱虫毛虫、土に埋めよか、海に沈めよかって、妙な節廻しの鼻歌交じりで」


「……え?」


「何度もしつこく繰返してよ。逆らえねぇ敬一の背へ小石投げたりしてよぉ。怒鳴ってガキ共を蹴散らした後、学校へ怒鳴り込んだ。でも落ちぶれたわしの足元見やがって、ろくに取り合わねぇ」


「もしかして、いじめっ子に有力者の子供が混ざってた、とか?」


「ああ、多分」


「そりゃ学校側も、できればシカトしたいでしょうねぇ」


「一応、調べるポーズを取って見せたがな。埋めるとか、沈めるとか、歌った子供の意図が不明瞭。いじめの意思を確認できず、故に処罰できない、なんて言われたわ」


「だって末松さん、声を聞いただけじゃないでしょ? 実際に自分の目で確かめたんですよね?」


「わしの言葉だけじゃ、何の証拠にもならんとさ!」


 末松の拳が床を叩き、反動で障子の柱に凭れたままの金属バットが揺れる。


 それを振り回した老人の心境が、浅子にも漸く判った気がした。


 埋める、沈める……


 不明瞭な表現をわざわざ玄関の張り紙に掲げ、ご近所に嫌がらせを続けてきた意図。


 敬一が好きだったという映画の爆音も含め、家族を傷つけた者達への報復の意が含まれている事を、末松なりに仄めかしていたのだろう。


 勿論、それは単なる八つ当たりで、迷惑行為を正当化する余地など無いが、


「末松さん、あなたの胸に秘めた思い、息子さんが聞いたら喜びます」


 敢えて強い共感を、浅子は言葉に込めた。


「……そんなんじゃねぇよ」


「だからこそ、一刻も早くご決断願いたい事がございます」


「奨学金の話?」


「敬一君に、もう借金は返せません。今は亡き、あなたの奥様が連帯保証人になっておられまして、債務相続により、あなたも責任から逃れられない」


「……おう」


「その上、あなた御自身、借金の利子返済がここしばらく滞ってますよね?」


「そんな事まで調べたんか」


 絞り出す声はかぼそく、微かな反感を伴っているが、末松の言葉から怒気はすっかり失われていた。


「一気に解決を図るとしたら、最早、この家と土地を売るしかないでしょう」






 いよいよチェックメイトだ。


 最早、浅子は交渉相手にシンクロする素振りも無く、その代わり包容力に満ちた慈愛の微笑を浮かべてみせる。






「実はね、とてもいい話があるんです。夢洲のIRに出資していた中国の資産家が、この辺りにオフィス兼用で使う広い宅地を探していまして」


「俺ん家を外人に売れ、と?」


「価格相場の一割増し……いえ、ボクのディール技術を持ってすれば一割五分増しまで、引き出す自信がございます。どうか、この特務マイスターへ末松様の厚い御信用を賜りまして、今日中にこちらへ御署名下さい」


 ビジネスバッグから取り出した先程とは色違いのクリアファイルに、真新しい書類の束が入っていた。


 土地の売買契約委託書で、家屋の取壊し費用は契約額から事前に差し引く代り、残りを即座に現金で支払う旨も付記されている。


「さぁ、善は急げと申します」


「……へぇ、そいつはありがてぇ」


 契約書を手に取り、詳細は読みもせず、添えられたペンを手に取るが、


「その前に、あんた、ちょいとこの庭、見てくんねぇか」


 そう言って障子を半分開く。


 広がる庭の光景は意外なものだった。


 殺風景で雑然としている部屋の様子に比べ、小さな池も植木も、細部に至るまで見事に手入れされている。しっかり根を下ろした椿の古木が程良く枝をはり、白い蕾がほころび始めていた。


「……ほう」


「良いだろ、この庭」


「もしかして全部、御自身でお手入れなさったんですか?」


「ほ~ら、さっきさ、敬一から久しぶりに手紙が届いたって言ったわな」


「ええ」


「そこに書いてあったんや。庭で、俺や女房と遊んだ日が懐かしいって」


「え?」


「もう一度、戻れるものなら我が家へ……あの頃の、あの日へ戻りたいとも、な」


 大怪我をし、一人暮らしの不安が募った敬一に里心がついたのだと浅子は思った。






 まずい。


 ひじょ~にまずい。


 ありったけの交渉テクを使い、情に絡めて何とか落としたと思った矢先、この展開は想定外だ。

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