第10話「復讐の刃」

 高遠彰は、すべてを失った。

 エリートとしての地位、将来を約束された縁談、そして、かつて自分が捨てた女。そのすべてが、今や一条蓮という男の手にあった。


 明誠商事をリストラされた彼は、再就職先も見つからず、安アパートで酒に溺れる日々を送っていた。

 テレビやネットをつければ、嫌でも蓮と美月の幸せそうな姿が目に入る。その度に、胸をかきむしられるような嫉妬と憎悪が、彼の心を支配した。


「なぜ、俺がこんな目に……。悪いのは、あいつらだ。一条蓮が、俺から美月を奪ったからだ。美月が、俺を裏切ったからだ……!」


 彼の思考は、完全に歪んでいた。

 自分が美月を捨てたという事実は、都合よく記憶から消し去られ、自分こそが被害者であるという妄想に囚われていた。


 ある日、彼は血眼になってネットを漁っていた。

 ホライゾン社の成功の秘密は何か。一条蓮の弱点は何か。

 その中で、蓮が過去のインタビューで『ある無名のアナリストのレポートに救われた』と語っている記事を見つける。

 そのアナリストの名は“K”。興味本位で“K”のレポートを読んでみた彰は、そこに並ぶ分析の口調や着眼点に、かつて美月が企画書で使っていた言い回しと酷似している点を見つけ、戦慄する。

『まさか……あの地味な女が……“K”だと?』

 最初は一笑に付したが、調べれば調べるほど疑惑は確信に変わっていった。

 その瞬間、彼の歪んだ心に、完璧な復讐の筋書きが閃いたのだ。

 これを使えば、一条蓮と相沢美月を、社会的に抹殺できる、と。


「これだ……。これを使えば、あいつらを引きずり下ろせる……!」


 彼は、その日から、狂ったように情報を集め始めた。偽の証拠を作り、匿名で週刊誌にリークした。

 彼の目的は、一つ。一条蓮と相沢美月を、社会的に抹殺することだった。


 蓮と私の婚約パーティーが、数日後に迫っていた。

 親しい友人や、お世話になったビジネス関係者を招いた、ささやかなパーティーだ。その準備で、私たちは幸せな忙しさに追われていた。


 パーティーの前日。一本のニュースが、私たちの幸せな空気を一変させた。


『急成長IT企業ホライゾン・テクノロジーズに、産業スパイ疑惑! 若きカリスマ社長・一条蓮に、不正競争防止法違反の疑い』


 発売されたばかりの週刊誌が、一面でそう報じていた。

 記事には、私たちがライバル企業の機密情報を盗み、それを元に事業を展開してきたかのように、巧妙に捏造されたストーリーが書かれていた。そして、その情報漏洩の実行犯として、名指しされていたのは……“K”こと、相沢美月だった。


『伝説のアナリスト“K”の正体は、元大手商社社員・相沢美月だった! 彼女は、前職で得た人脈を利用し、不正に情報を入手していたのか?』


 記事を読んだ瞬間、全身の血が凍りついた。

 ありえない。そんな事実、あるはずがない。しかし、記事はあまりにも巧妙に作られており、あたかも真実であるかのような説得力を持っていた。


「ひどい……。誰が、こんなことを……」


 震える私の肩を、蓮が力強く抱き寄せた。


「落ち着いて、美月。これは、誰かが僕たちを陥れるために仕組んだ罠だ」


 蓮は冷静だった。しかし、その瞳の奥には、静かな怒りの炎が燃えていた。


 その日から、事態は急速に悪化した。

 会社の電話はマスコミからの問い合わせで鳴り止まず、株価は暴落。提携企業からは、次々と契約の見直しを求める連絡が入った。

 ついこの間まで私たちを賞賛していた世間の声は、手のひらを返したように、非難と中傷の嵐に変わった。


「蓮さん、ごめんなさい……。私のせいで、会社が……」


 私が“K”であることが、会社を窮地に追い込んでしまった。

 罪悪感に、胸が張り裂けそうだった。


「君のせいじゃない! 悪いのは、こんな卑劣な罠を仕掛けた犯人だ。絶対に、そいつを突き止めてみせる」


 蓮は私を励ましながらも、すぐに対策本部を設置し、弁護士チームと対応を協議し始めた。

 しかし、一度広まった噂を打ち消すのは、容易ではなかった。会社の信用は、日に日に失墜していく。


 そして、婚約パーティーの当日。

 私たちは、予定通りパーティーを開催することを決めた。こんな時にこそ、支えてくれる人たちの前で、毅然とした態度を示さなければならない。蓮はそう言った。


 しかし、華やかに飾られたはずの会場は、空席が目立っていた。

 多くの招待客が、スキャンダルを恐れて、出席をキャンセルしたのだ。がらんとした会場で、私たちは、残ってくれた数少ない友人や社員たちに、今回の騒動について謝罪し、必ず潔白を証明すると誓った。


 その時だった。

 会場の扉が、乱暴に開かれた。そこに立っていたのは、高遠彰だった。その手には、例の週刊誌が握られている。


「面白いことになっているじゃないか、二人とも。これが、人を裏切った報いだ!」


 彰は、酔っているのか、呂律が回っていない。その目は、憎悪と狂気に満ちている。


「高遠さん……。あなたが、この記事を……?」


 蓮が、低い声で問う。

 彰は、勝ち誇ったように、歪んだ笑みを浮かべた。


「そうだ! 俺が、お前たちの嘘を暴いてやったんだ! お前たちは、俺からすべてを奪った! だから、今度は俺がお前たちから、すべてを奪い返してやる!」


 彼の狂気に満ちた叫びが、静まり返った会場に響き渡る。

 これが、彼の復讐。あまりにも身勝手で、醜い、復讐の刃。


「あなた、最低ね」


 私は、震える声で言った。

 彰は、そんな私を見て、さらに嘲笑う。


「まだ言うか! 俺を捨てて、こいつに乗り換えたお前が、一番の裏切り者だろうが!」


 彼が、私に掴みかかろうとした、その時。

 蓮が、私の前に立ちはだかった。


「もう、やめろ。見苦しい」


「なんだと!」


 逆上した彰が、蓮に殴りかかろうとする。しかし、その拳は、駆けつけた警備員によって取り押さえられた。


「離せ! 俺は、まだ……!」


 最後まで醜くわめき続ける彰は、警備員に引きずられるように、会場から連れ出されていった。


 嵐のような出来事の後、会場には重い沈黙が流れた。

 私は、あまりの衝撃に、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

 私たちの幸せを妬んだ、一人の男の狂気。それが、私たちのすべてを、壊そうとしている。


 薬指の指輪が、やけに重く感じられた。

 蓮がくれた、幸せの象徴。この輝きを、失いたくない。

 私たちの未来を、こんな形で終わらせるわけにはいかない。


 私は、隣に立つ蓮の顔を見上げた。

 彼の表情は、固く、険しい。しかし、その瞳の奥の光は、まだ消えてはいなかった。


「蓮さん……」


「大丈夫だ、美月。勝負は、まだこれからだ」


 彼は、私の手を強く握りしめた。

 その温もりが、絶望の淵にいた私に、もう一度、戦う勇気を与えてくれた。

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