第48話 愛するわんこの、最後のわがまま
歯磨きに時間をかけすぎたせいなのか、磨く手に力が入りすぎたせいなのか、口の中が少しばかりじんじんする。けれど、おかげで多少は心も落ち着いてきた。
ここまで来れば、あとは寝るだけ。
イージーミッションである──
わけがない。
沙霧に与えてしまったわがまま放題権、その期限は今日が終わるまで。残り時間はあと一時間弱。沙霧のことだから、まだなにか仕掛けてくるのは目に見えている。
「はぁ……少し時間稼ぎでもするかなぁ……」
一人ぼそっと呟いた俺は、沙霧の待つリビングではなく、その手前のキッチンへと足を向ける。炊飯器の蓋を開ければ、明日の弁当用に残しておいた炊き込みご飯がほかほかと湯気を立てた。
その匂いに誘われたのか、カウンターの向こうから沙霧がぴょこっと顔を覗かせる。
「わん? ご主人様ぁ、お夜食ですわん?」
「んなわけないでしょ。歯磨きしてきたばっかりなんだし。これ、冷蔵庫にしまっとこうかと思って。保温しっぱなしは良くないからさ」
「そうなのですわん?」
「うん。炊き込みご飯は普通のご飯よりも傷みやすいんだよ。だから明日の朝にしっかり温め直して、弁当箱に詰めたら粗熱取って……っ感じ。手間はかかるけど、弁当でお腹壊されたら困るじゃん」
「ほほぉ……さすがご主人様ですわん♡」
「まぁ、こういうのは慣れだからね」
残暑が長引くこの季節、真夏ほどではないにしろ、まだ食中毒には警戒が必要だ。俺一人なら自業自得だが、沙霧を巻き込むわけにはいかない。
これは、キッチンに立つ者としての責任ってやつだ。
──決して、時間稼ぎだけが理由ではないのだ。
……たぶん。
ついでに、放置して冷めきった唐揚げも、皿に移し替えて冷蔵庫に放り込んでおいた。
「よしっ、これで完了っと。で……沙霧、どうする? もう、寝る?」
「んー……そうですわんねぇ……」
俺の問いかけに、沙霧は迷うような表情で視線を時計に向ける。日付変更までは、残り三十分を切っていた。
「もう少しだけ、のんびりしたいですわん。やることが済んだのでしたら……こちらに来てくださいませ」
「はいはい」
「ふふっ、珍しく素直なご主人様ですわんね♡」
「どうせ、今の俺に拒否権なんてないんでしょ……」
「よくご理解いただけているようで助かりますわんっ♡」
さてさて、次はなにをさせられのやら……。
警戒レベルを最大に引き上げて沙霧の隣に腰を下ろすと、沙霧はなにも言わず、びたりと身体を寄せてきた。
静かな部屋に、時計の秒針が刻む小さな音だけが響く。時折目が合うたび、沙霧は眠そうにほんのり瞳を潤ませながら、はにかむように笑った。
「……ねぇ沙霧? そろそろ今日が終わるけど、もうわがままは言わなくていいの?」
「今は、こうしていたい気分なのです。ご主人様とのんびりこうしているのも……とても贅沢で幸せなのですわん♡」
「……そっか」
沙霧の言葉に、俺はほっと息をもらした。もう、奇想天外なわがままに振り回されなくて済むかも。そう思って──
それなのに。
少しだけ寂しい気もして、俺は沙霧の頭をゆったりと撫でた。沙霧はやはりなにも言わずに、うっとりと目を細める。
ただ一つだけ気になるのは、沙霧の尻尾が緊張するようにぴんと立っていることだろうか。こういう時はいつも、穏やかに揺れていたはずだ。
とはいえ、沙霧の尻尾は俺が見ている幻覚である。考えても無駄だと思い直して、すぐに意識の外へと追い出した。
「……そろそろ、お部屋に行きましょうか。今日も一緒に寝てくださいますよね? ご主人様ぁっ♡」
そう言って、沙霧がそっと俺の手に触れてきたのは、タイムリミットまで残り五分を切った頃──
指を絡めるには、少し足りない。でも、意識せざるを得ない絶妙な距離感だった。
「じゃないと沙霧は床で寝るんでしょ?」
「もちろんですわんっ♡」
まったく、ずるいわんこである。俺の逃げ道なんて最初から全部潰しているくせに、わざわざ確認してくるんだから。
「いいよ、それで……じゃあ、行こうか」
軽く手を取られて立ち上がる。そのまま自然と指が絡まって──
二人並んで、俺の部屋へと歩いていった。
ドアを開くと、沙霧は俺の手を離れてベッドに飛び込んだ。
二人で寝るにはやや狭い、シングルサイズの俺のベッド。沙霧は端に身体を寄せ、空いたスペースをぽんぽんと叩いた。
「ご主人様も早くっ! 今日が終わってしまいますわん!」
「そんな急かさなくても、ちゃんと寝るってば」
「急かしもしますわんっ! あと二分しかないのですからっ!」
あぁ、まだなにか企んでるのか……。
だが、二分でできることなんて限られているだろう。俺はどこか油断しきった気持ちで、沙霧の横に寝転がった。
「……これでいい?」
「はい、ギリギリでしたけどね。では、これから最後のわがままを言わせてもらいますわん。その前に──目を閉じていただけますか?」
「……こう?」
そっと瞼を下ろすと、完全な暗闇に覆われる。沙霧の息遣いが、妙にはっきりと耳に響いた。
「……見えて、いませんか?」
「見えてないよ」
「そうですか……では、失礼して──」
ぎゅっと、強く抱きしめられた。吐息が頬を撫で、さらに耳元に寄せられる。そして、この距離でなければ聞き取れないような、小さな声が落ちてきた。
「本当に、これが最後のわがままです。樹くん、あのね────ずっとずっと、私の、私だけのご主人様でいてほしいですわん♡」
甘くて、それでいてどこか切なくも感じられる声色。胸がきゅぅっと締め付けられて、俺は迷わずに頷いた。
「いいよ。沙霧は──俺の愛犬、だから。これからもずっと、沙霧のご主人様でいるよ」
「…………」
返事はなかった。代わりに、もぞもぞと動く気配。喜んでいるのか、恥ずかしがっているのか。どちらにせよ、今の俺が出せる精一杯の答えだった。
これで、たとえ沙霧が家に帰ってしまったとしても、繋がりが消えることはない。それがたまらなく嬉しくて、思わず沙霧を抱き寄せた。
「はわっ……♡ ご、ご主人様ぁっ?!」
「沙霧は……ずっと俺のものだ」
「嬉しい、ですわん♡ でしたら……一つだけ、誓いをさせてください。まだ、目は開けてません、よね……?」
珍しく、沙霧の声が震えていた。たぶん、俺の心も。沙霧がなにをしようとしているのかは、わからない。それでも受け入れる準備だけはできていた。
「うん、開けてないよ。沙霧の顔が見えなくて、ちょっと寂しいけど」
「あぅ……♡ それは……もう少しだけ、お待ちくださいね。そのままじっとして、動かないで──」
その直後──
唇に、ちょん、となにかが触れた。柔らかくて、温かいなにかが。
触れたのはほんの一瞬。でも、俺の心臓は大きく跳ね上がった。
「……もう、目を開けてくださって、いいですわんよ♡」
「う、うん……」
ゆっくりと目を開くと、沙霧は右頬に手を当てて、恥ずかしそうに笑っていた。暗闇でもわかるくらい、顔を赤くして。それだけで、沙霧がなにをしたのか、なんとなく理解できてしまった。
……強制的に、ほっぺにキス、させられた?
沙霧は、これを誓いだと言った。つまり、俺のものであるという証を、自らその身に刻んだわけだ。
ずるくて、可愛くて、愛おしい俺のわんこ。
言ってくれれば、俺からしてあげたのに。
むしろ、俺からするべきだったのに──
……なら、もう一度。
そう思って顔を寄せると、沙霧は俺の視線から逃れるようにくるりと背を向けてしまった。鼻先に突き付けられた柔らかな髪から甘い香りが広がって、遅きに失したことを告げていた。
「……さ、もう寝ましょう。できれば……寝ている間、ぎゅってしていてほしいですわん♡」
「……わがままは、さっきので最後、だったんじゃないの?」
「最後、でしたよ。もう、魔法は解けてしまいましたからね。ですから、これはただのお願いです。もし、お嫌でしたら……してくれなくても──」
「……するに決まってるだろ」
言いながら、沙霧の華奢な身体を引き寄せ、腕の中に抱きしめた。今度は、タイミングを逃すことなく。
「っ……♡♡♡ 嬉しいですわん♡ これで、安心して眠れます」
「うん……おやすみ、沙霧」
「おやすみなさい、ご主人様ぁ♡」
お互いの体温が混ざり合い、少し速い二つの鼓動が重なった。それ以上の会話はなく、俺達の吐息だけが夜の闇に溶けていく。
いつしか意識は、幸福な微睡みの中に沈んでいった。
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