第27話 擬態わんこと、手繋ぎ登校

 朝食をぺろりと平らげた沙霧は、食べる前と同じようにきちんと手を合わせた。


「ごちそうさまでした」


「うん、お粗末様でした」


「とっても美味しかったですわんっ。お礼といってはなんですが、洗い物は私が──」


「いやっ、いいから着替えてきなって! 今日は学校行くんでしょ?」


 沙霧の言葉を遮ると、首を傾げたきょとんとした顔が返ってきた。その頭の上にはぴょこんと犬耳が立ち、はてなマークまで浮かんでいるようだった。


「わんちゃんは、学校になんて行きませんよ? わんわんっ!」


「バカなこと言ってないで、早く準備してきなさいっ!」


「きゃんっ……♡ はぁい……まったく、冗談の通じないご主人様ですわん。でも、そんなところも素敵ですわん♡」


 ぱちりとウインクをしてきた沙霧にドキリとしつつ、テーブルの上の食器をまとめてシンクに運ぶ。


「それでは、華麗に変身してきますわんっ!」


「はいはい、行っといで」


 適当に返事をして洗い物を始めると、ようやく沙霧はリビングに置きっぱなしだったキャリーケースを手に取り、階段を上がっていった。


 まったくはどっちだよ、まったく……。


 俺は深くため息をついた。


 しかし、これで俺の理性耐久レースも終わりを迎えたわけだ。このままいつまでもベビードール姿でいられたら、本当に危ないところだった。


 中身は無邪気なわんこのくせに、見た目は色っぽくて。しかも無遠慮にじゃれついてくるのだ。ここまで耐え抜いた俺はきっと、称賛されてしかるべきだ。


 洗い物の音だけが、静かなキッチンにカチャカチャと響く。今だけは、普段通りの朝に戻ったような気がして──冷たい水に触れ、俺の頭も少しずつ冷えていった。


 作業を終え、タオルで手を拭いていると、ぱたぱたと足音が近付いてくる。静寂は束の間。どうやら、騒がしわんこが戻ってきたようだ。


「ご主人様ぁっ! お着替え、完了しましたわんっ!」


 ドアを開け、ぴょんっと飛び込んできた沙霧は、元気いっぱいの笑顔だった。


 白いブラウスに赤いリボンタイ、紺色のプリーツスカート。その姿を見た瞬間、胸の奥がほっと緩んだ。


 そこにいるのはわんこではなく、学校で見慣れた可憐な女の子──月島沙霧そのものだった。


 沙霧はトテトテと俺の前に来ると、スカートの裾をふわりと広げ、その場で一回転する。まるで、初めての服装をお披露目するように。


「ご主人様、どうですわん? 私、ちゃんと女子高生に擬態できてますか?」


「えぇっ?! 擬態ってそっちがっ?!」


 俺は、膝から崩れ落ちた。


 まさか、とっくに沙霧の本性がわんこの方に置き換わってしまっていたとは。戦慄しながら改めて沙霧を見ると、はっきりと犬耳と尻尾が幻視できてしまった。


 そっかぁ……こっちが本性だったかぁ……。


 がっくりとうなだれた俺に、沙霧は不思議そうに首を傾げる。そして、俺の前にしゃがみ込み、顔を覗き込んできた。


「私はご主人様のわんちゃんですわん♡ ですから、これは世を忍ぶ仮の姿なのですわんっ!」


 よくわからないことを言い始めた沙霧を見つめ返すと、その顔がぽっと赤く染まる。制服姿でも、沙霧はしっかりわんこモードを維持していた。


「わふん……♡ そんなに見つめられると、照れちゃいますわん♡ ダメですよ。擬態、解けちゃいますわん!」


「あ、うん……ごめん」


 頬に手を当て、恥ずかしそうに身体をくねらせる沙霧に、つい謝ってしまう。


 っていうか、なんで俺が謝ってんだろ……?

 あぁもう、なんでもいいや……。

 外で擬態を解かれても大変だし。


 俺は頭を押さえて立ち上がり、時計に目を向ける。時間はすでに八時を回っていた。そろそろ出ないと、本格的にまずいことになる。


「んじゃ、準備できたなら行こうか」


「わんっ! ご主人様と朝のお散歩ですわんっ♡」


「あの……登校をお散歩って言うの、やめてくれない?」


 そもそも散歩云々は俺が言い始めたことなのだが、こんなにも嬉しそうに言われると変な気分になってくる。


「わふ? ご主人様とお出かけするなら、それは立派なお散歩ですわんよ?」


「……左様ですか」


 だめだこりゃ。沙霧のペースに合わせていたら、いつまで経っても家を出られない。


 いや、むしろ合わせた方がいいのか……?


 瞬時に考えを改め、行動に移す。自分の鞄に弁当を突っ込み、もう一つを沙霧に差し出した。


「ほら、沙霧も弁当持って。今日のお散歩は長くなるから、忘れたら大変だよ」


「……さすがに学校はお散歩の範囲外ですわん」


 そう言って、沙霧はくすりと笑った。そのお尻の辺りで、ふさふさ尻尾が楽しげに揺れる。


「どっちなんだよっ?!」


 思わずまた叫んでいた。けれどこんなもの、沙霧には全く効果はない。弁当を受け取り、大事そうに鞄にしまうと、がっちりと俺の腕を掴んだ。


「さぁ、行きますよっ。焦って転んだら一大事ですわん」


 朝からすでにぐったりな俺は、力なく沙霧に玄関へと引っ張られていく。どうにか靴を履くと、沙霧は立ち止まり、じっと見上げてくる。


「ご主人様、忘れ物はないですわん?」


「うん、俺は大丈夫。でも……沙霧は忘れてるよ」


「なにをですわん?」


 沙霧は目をくりんとさせ、愛らしく小首を傾げた。なにを言われているのか、さっぱりわかっていなさそうな顔で。


「昨日約束したでしょ。わんわんとご主人様呼びは、家に置いていかないと」


「まだ家の中ですわんっ!」


「いや……そうだけど……」


「ご主人様は心配性ですわんね。ちゃんと覚えてますから、安心してほしいですわん」


 全然安心できないんだよなぁ……。


 散々ポンコツっぷりを見たせいか、むしろ不安だけが募る。だが、得意気に胸を張る沙霧を見ると、それ以上は言えなくなってしまう。どうやら俺は、かなり愛犬に甘いご主人様らしい。


 やれやれと肩を竦めると、沙霧は俺の前に手を突き出した。


「えっと……それは、なに?」


「……ご主人様とのお散歩は、こうするのでしょ? 昨日もしたじゃないですわん」


「手繋いで行くってこと?」


「わんっ♡ わんちゃんのお散歩にリードは必須です。また迷い犬になりたくないので、しっかり捕まえててほしいですわん♡」


 沙霧と手を繋いで登校なんてしたら、どんな騒ぎになるか。想像するだけで頭痛がする。


 なのに、逆らえない。


 これは、沙霧のご主人様としての責任感なのか。

 はたまた──好きな女の子と手を繋ぐことへの、どうしようもない嬉しさなのか。


 熱くなった顔を誤魔化すように、俺はそっと、その小さく温かい手を握った。


「あおーーーんっ♡ では、出発ですわんっ♡」


 短く遠吠えた沙霧は、迷うことなく玄関のドアを開く。そこから差し込む朝の陽射しが、眩しいほどに俺達を照らした。


 ──今日は、昨日よりも波乱に満ちた一日になる予感しかしない。


「ご主人様ぁっ、いい朝ですわんねっ!」


 ほら……外に出たのにまだわんわん言ってるし。

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