第16話 買い物わんこと、首輪とお手
そこまで遠くないとはいえ、せっかく出向いたスーパーで買う物がサーモンの切り身を一パックだけというのはあまりにも無駄である。今日のメインが決まったところで、愛犬を引き連れて改めて入り口付近から店内を回る。
これから食材の消費量は、二倍とまでは言わなくとも確実に増える。昨日買ったのは俺一人の一週間分だし、平日に学校終わりの疲れた身体で買い物に来るのは面倒だ。となれば、ここで済ませてしまう方が得策なのだ。
なんとなく大雑把にメニューを考えつつ、野菜に肉類、パンや牛乳などをカゴに放り込んでいく。沙霧はほぼ無言で、俺が食材を選ぶのをじっと見つめていた。
そうして店内を巡っていると、やがてペット用品が並べられた一角にたどり着いた。これまでは用もないので素通りしてきたが──
「あっ! 首輪がありますよっ!」
なぜか声を弾ませて、沙霧が俺の手を引いた。沙霧が向かおうとする先には、ドッグフードやおやつ、トイレシートなどの横に、首輪やリードが並べられていた。
いや、うん。あるよね。
あるんだけどさ……。
それでこんなにテンション上がる女子高生風わんこってどうなん?
沙霧はいったい、どこまでわんことして生きるつもりなのだろうか。
……あれ?
わんこ風女子高生だっけ?
まぁ……どっちでもいいか。
捻り切れそうなくらい首をひねっていた俺をよそに、沙霧はそのうちの一つを手に取った。
「樹くん、見てください! この首輪、可愛くないです?」
「可愛いといえば、可愛いけど……?」
沙霧が俺の目の前に突き出したのは、フリフリのレースがあしらわれた赤い首輪だった。もうどんな反応をすればいいのかわからなくなってきた。
しかし、俺の暴走わんこは止まらない。
「これ、私も着けられるでしょうか?」
「ちょっ、そんなの買わないよ?! っていうか、試着しようとしないでっ!」
沙霧が首輪を自らの首に巻きつけようとして、俺は慌てて止めに入る。どうにか首輪を奪い取ると、沙霧はくすりと笑みをこぼした。
「冗談に決まってるじゃないですか。樹くんは面白いですね」
「わかりにくい冗談はやめなさいっ!」
「もう、そんなに怒らないでほしいわん。ちょっとしたご主人様とのコミュニケーションじゃないですか」
沙霧は人に聞かれなければセーフだと判断したのか、俺の耳元でぽそりと囁いた。
「もっと普通にコミュニケーション取ってほしいんだけどっ?!」
「きゃんっ♡」
ちくしょう……また喜ばせてしまった。
人のものとも犬のものとも取れるような、でもどちらにしても嬉しそうな悲鳴を上げた沙霧に、俺はがっくりと肩を落とした。
一方の沙霧は、どこかツヤツヤとした顔で、うっとりと吐息をもらす。
「はぅ……やはりツッコミが素敵です。でも、樹くんが悪いんですからね。せっかくのお散歩ですのに、買い物にばかり集中してほったらかしにするんですから……私、寂しかったですわん」
「う……それは、ごめん。だからといって、首輪で遊ばないでほしかったけど……」
そう言いつつも、俺も笑っていた。手はずっと繋いだままだというのに、なんていじらしくて甘えん坊なわんこなのだろう。
どうしようもなく手はかかるが、こうして一緒にいる時間は決して悪くない。それに、愛犬とコミュニケーションを取る時間が重要なのもわかる。
俺は手早く買い物を済ませ、沙霧の手を引いて急ぎ足で帰宅した。
家に帰ってきたということはつまり──
「わんわんっ。ご主人様とのお散歩、楽しかったですわんっ!」
わんこモードが解禁されるということである。
玄関のドアが閉まった途端、沙霧は尻尾をフリフリさせながら、嬉々として俺にじゃれついてきた。まだ、靴も脱いでいないというのに。
それでも、このために早めに帰ってきたのだ。俺は沙霧の猛攻に耐えきれず、その頭をわしゃわしゃと撫で回す。
「よしよし。初めてのお散歩にしては上手に歩けてたぞ」
本音を言えば、もう少しわんわんを控えてほしかったところだが、それは今後の課題だ。今くらいは目一杯褒めてやっても問題はないだろう。
躾は厳しくすればいいってもんじゃない。褒めることと叱ること──そのバランスが大事なはず。それは人もわんこも同じだ。褒めて伸びる子だって、世の中にはたくさんいるのだから。
「くぅ〜ん、嬉しいですわんっ!」
「はいはい。沙霧はいい子だね。でも、いい子なら帰ったらまずは手を洗おうな。ほら、洗面所行くよ」
「わんっ!」
買ってきた物が詰まったエコバッグはひとまずダイニングテーブルに置き、俺達は洗面所へと向かう。沙霧の後ろに立ち、小振りで愛らしい手を水で濡らし、泡立てたハンドソープで包みこんだ。
洗い残しがないように丹念に、それでいて、この繊細そうな手を傷つけないように優しく。わんこにとって肉球は、わりとデリケートな部分だったはずだから。
絶妙な力加減を意識して洗っていると、沙霧は顔を上げて俺を見つめてくる。
「……あ、あの、ご主人様? 手くらい……自分で洗えます、わん……」
さっきまでの元気っぷりが嘘のように、沙霧の声がかすかに震えた。
だけど──
「だーめっ!」
「はぅっ……」
沙霧が小さな声をもらし俯いても、俺は洗うのをやめなかった。
後ろ足は靴を履いていたから問題ないが、剥き出しの前足はそうもいかない。外で拾ってきた雑菌は、綺麗に洗い流すべきだ。愛犬の衛生及び健康管理も、ご主人様としての役目なのだから。
隅々までしっかりと洗い、泡を流しながら手を包んでいると、沙霧の指先が俺の指に絡まった。
「……ご主人様ぁ」
なにかを訴えるように見上げてくる瞳が恥ずかしげに揺れているのを見て、ようやく俺も我に返る。
おいおい……なにしてんだよ、俺。
子供じゃあるまいし、手くらい洗えるだろうに。
あぁもう……。
子供でもわんこでも女の子でも、なんでもいいけどさぁ──本当、扱いが難しすぎるって……。
かといって、ここまで来て途中で放り投げるのも不自然な気がして、タオルで水気を拭き取るところまで完璧にやり遂げてやった。
そこで俺は謎に吹っ切れた。
えぇい、ままよ!
こうなりゃ、とことんまでわんこ扱いしてやらぁっ!
「沙霧、お手っ」
「わふっ!」
すかさず右手を差し出す沙霧に、思わず頬が緩む。まだ教えてもいなかったのに、なんて賢いわんこなんだ。
「お散歩で疲れたでしょ。食材を冷蔵庫にしまったら、少しだけのんびりしようか。夕飯の準備はその後にしてさ」
「くぅん……♡」
沙霧は、照れ隠しと喜びの狭間のような声で鳴いて──その声が、ほんのりと薄暗くなりつつある静かな部屋に、やけに長く響いた気がした。
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