社畜、魔王城で定時退社を目指す

猫太郎

第1話 プロローグ ‐目覚め‐

――深夜二時を過ぎた頃。

闇が支配する世界を照らすのは心もとない街灯と、とある建物の一室から漏れる光のみ。


明かりが灯っているのは二階のオフィスルームのような部屋。広さはそれほどでもない、デスクの数は二十もあるかどうかといったところだ。そして、今現在埋まっているデスクの数はひとつのみ。

ひとりの青年がそこに座っていた。


「……」


カタカタとキーボードを叩く音、そして数分程度の間隔でコピー機が作動する音だけが響く。


彼の名前は水瀬環。

この、地域密着型の中小建設会社の社員だ。棚に広辞苑のような分厚いファイルホルダーがずらりと並んでいることから、とてつもない書類作業量なのであろうことが窺える。


ふと、キーボードの音が止んだ。


安っぽいチェアの上で大きく伸びをする環は、それから緩慢な動きで席を立つ。

右手で逆の肩を揉みほぐしながら部屋を出ると階段を下りていく。


「……ふぁ、くぅ……っ!」


あくびを噛み殺しながら一段ずつ下りていく。


「……今日は泊まりだな」


階段を下り切ったところには自販機があった。

どうやら飲み物を買いに来たらしい。


ラインナップはエナジードリンク、ブラックコーヒー、炭酸飲料、スポーツドリンクなどなど。一見普通に見えるが、エナジードリンクとブラックコーヒーだけやけに種類が豊富だ。


環はポケットから取り出した千円札を投入し、迷うことなくエナジードリンクを選んだ。催促するように釣り銭のレバーを何度も押し、ようやく出てきた小銭とエナジードリンクを手に再び階段を上がっていく。

覚束ない足取りのまま、釣り銭を握った手をポケットに捻じ込む。


――チャリン。


しかしこぼれ落ちた数枚の小銭が階段を下りていってしまう。


「っと……」


反射的に振り返って小銭の行く先を目で追う。




――と、首筋に何かが吹きかけられるような感覚が走った。




「っ……!?」


勢いよく正面に向き直る。


そこには、妙な仮面をした謎の人物が立っていた。


「なっ、んだお前!! どっから――」


無意識だろう。

環は一歩後ろに下がろうとした、しかしここは階段の途中。下げた足は、環が想定したタイミングでリノリウムの床に着くことはなかった。


「――……は?」


伸びきった足は、階段の角に触れた。

ゆっくりと景色が回転していく。


視界に映るのはジプトーンの天井と、仮面についている角だけ。


浮遊感が支配する。


「くっ……そ!」


環は即座に仮面の人物に視点を合わせ、手の中のエナジードリンクを投げつけた。


「残業の邪魔してんじゃねえよッ!!」


それはわずかに、だが確かに放物線を描きながら飛ぶ。そして間もなく謎の人物の仮面に直撃した。


勢いよくぶつかったせいか仮面が割れる。

ゆっくりと顔から剥がれ、素顔が露わになろうというところで――。




意識が、呑まれた。




△ ▼ △ ▼ △




「――……ま……すか……?」


何だ。

遠くで何かが聞こえるような気がする。


……だめだ、意識がはっきりしない。最近ちゃんと寝れてなかったせいか。

今はこの微睡みが心地よくて、それ以外何も考えたくない。


「……いて……ますか……?」


さっきまでより近くで聞こえる。


いいや、気にしなくていい。

疲れてるんだ、放っておいてくれ。


「……お……様……!」


待て、様? 今様って言ったのか?


……いやいや、そんな持ち上げられたってこの誘惑には勝てそうにない。

お前にもわかるはずだ、お布団には誰も抗うことのできない魔性の魅力があるということを。


というか、さっきよりさらに近づいていないか?




「――聞いていらっしゃいますか!?」




不意の大声に眠気は吹き飛んだ。

代わりにやって来るのは怒り。


俺の安息を邪魔しようとはいい度胸じゃないか。今日だけで九時間は残業してるんだぞ。

有給だって一日も取ってないっていうのに。


「……あぁ、もう……さっきからうるさ――」


目の前にとてつもない美女がいた。

そしてその先には信じられないほど豪華な装飾が施された巨大な広間。


「――……うん?」


怒りなんてものは消し飛んだ。

俺の脳内はクエスチョンマークで埋め尽くされている。


目の前に広がるのは、ゲームの中でしか見たことのないような城内の光景に他ならなかった。

ただし、装飾のひとつひとつが若干禍々しいという相違点はあるが。


「全く、居眠りしてらしたんですか?」


絶世の美女が言う。

視線は明らかに俺に向いている。


「え? いや、そういうわけじゃ……ないのか? わからん」


そもそも俺って何してたっけ。

確か残業してて……自販機で……あれ?


「いや、これ夢か」


いわゆる明晰夢というやつだ。


「何をブツブツ言ってらっしゃるんです?」


そうだよな、夢じゃなきゃこんな美女が俺に話しかけてくるわけがない。

日頃頑張ってるご褒美だと思うことにしよう。


俺は両手を合わせて、それから目の前にいる美女の尻に手を伸ばした。


「――」


何か危機感のようなものを覚えて視線を上げると、神秘的な光を帯びた魔法陣と平手が飛んできていた。


バチィンッ!!


「ふべっ!?」


とてつもない威力に、俺は吹き飛び床を転がる。

そこで初めて俺は座っていたのだということを理解する。立ち上がろうと顔を上げると豪奢な玉座のようなものが見えた。


「い、ってえ……あ、あれ? 痛い?」


いや、そもそも前提が合ってるかどうかというのも甚だ疑問ではあるが、通常夢の中では痛みを感じないとされているはず。


「当たり前です、しっかり魔力を込めてぶっ飛ばしましたから」


「魔力?」


……待て、待てよ。

今自分が異常に混乱してるのは理解してる。だが、それでもとんでもない発言を聞き逃すことはなかった。


そして思い返すのはあの平手打ちだ。

一瞬しか見えなかったが、確かにそこに魔法陣のようなものが見えた。


「……なあ、鏡、あるか?」


理性はそれを言いたがらなかった。

だが、得体のしれない胸騒ぎをどうしても抑えたかった。


「ありますけど……はい、こちらです」


手渡された手鏡。


心臓の音がいやにうるさい。

まるで最前列で花火を見ているように、心臓の音が全身に響いている。


「……ふぅー」


深呼吸を繰り返すが、それで落ち着くようなことはない。

うるさい音を無視しながら、手鏡の中をそっと覗き込む。


「今日はなんだか様子がおかしいですね――」


そこに映っていたのは、角のような装飾が施された仮面だった。


「は……はは……え、まじで?」


「――

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