第2話 愛ゆゑに人は奪ふ
教室に入ってきたのはクラスメイトの森裕子だった。彼女は窓際の僕の席までやって来ると、夕日を背に満面の笑みを浮かべて言った。
「一人じゃないよっ!」
そう言って親指をグッと立ててみせた。
一人じゃないって一体何が?
まさか僕を同士とでも言いたいのだろうか。そうだ。それに間違いない。確かに彼女もクラスで孤立していた。そして僕も明日から孤立するであろうことは明確だ。だが待てよ。きっとそれだけではないはずだ。あの満面の笑みの謎がまだ解けていない。何が彼女に僕を同士と思わせた?
森裕子。十七歳。腐女子。ミニコミ部副部長。髪型は三つ編み。グリグリ眼鏡着用。主な出没場所は池袋駅東口周辺。趣味は漫画・同人誌鑑賞、古本屋での立ち読みなど。部内では『薔薇騎士』と称され恐れられる。
そうだ。すっかり忘れていた。彼女は学内の反体制組織ミニコミ部の部員だったのだ。しかし僕はオタク趣味も革命的思想も持ち合わせてはいないぞ。それなのに何故?
しかし彼女は何処かの怖い神父の如く眼鏡を光らせながら続けた。
「彷徨える罪無き若人よ。ここで出会ったのも何かの縁、いえ、神の導きに間違いありません。私はあなたを歓迎します。是非ミニコミ部にいらっしゃいな。同士たちがあなたを待っています」
えっ、これってまさか新手のカルト宗教の勧誘?
変わった人だとは聞いていたけどまさかここまで電波な人だったとは。関わるとなんか面倒なことになりそうだ。ここでなんとか誤解を解かないと。
「ちょっと待って下さい。森さん。あなたは何か誤解している。僕はオタクでも革命の闘士でもないんです。ただの平凡な高校生なんです。あなたもクラスメイトなんだからそれは知っているはずだ」
僕は真摯かつ誠実に訴えた。しかし彼女は全く動じる様子も無い。
「本当にそうだと言い切れるのかな?」
「ど、どういうことだ」
そう言うと彼女はやれやれと言わんばかりに肩をすくめ、たっぷりと溜めを利かせてから言った。
「佐藤千秋君のことが好きなくせに」
そこか? そこなのか?
ぬは。止めろ。止めてくれ。
「男の子が好きなくせに」
お願いだ。もう聞きたくない。僕は死ぬんだ。今日家に帰ったら物置から練炭等を取り出して部屋中をガムテープで目張りしてから最後の宴を執り行うんだ。明日にはもう学校には来なくてもよくなるんだ。森さん。君が学校に来た時にはもう僕の机には適当な花が飾られているのだ。もうさよならなんだ。だから頼む。もうこれ以上傷口を抉らないでくれ。
「止めろッッッッッッォォォォォォォアァァァァァァ」
僕が耳を塞ぎうずくまりながら叫び散らしても彼女は止めようとしない。
「そんな人間を普通とは呼ばんッ!」
そうか。僕は普通じゃないのか。一般ピープルじゃないのか。
じゃあ僕は一体何なんだ?
僕自身の存在は、僕の進むべき道は一体――
「ですが案ずる必要はないのです」
先程までの修羅の如き形相からうって変わって、まるで女神のような微笑を湛えて彼女は言った。
「私も、いえ、私たちもそうなのです。世間からの言われの無い差別や迫害、蔑視などに苦しんでいる者たちなのです。一人では耐え切れない痛みでも――、同士がいれば――、信頼できる同好の士がいればこそ戦うことが出来る。私はあなたにもそれを知って頂きたいのです。あなたは男でありながら少年を愛し、そして我々は女でありながら少年同士の愛を愛した。そこには僅かな違いこそは存在すれど目指す楽園は同じようなものなのです。多分」
そして彼女は右手を差し伸べてきた。
「さぁこの手をお取りなさい。共に行きましょう楽園への航海へ」
信じてもよいのだろうか。
この手を握り返してもよいのだろうか。
恐らく、いや、間違いなくこの手を握り返してしまえばもう元の世界には戻って来れないだろう。
だがその『元の世界』には一体何がある?
単なる侮蔑と嘲笑に満ちた世界に何の未練がある?
奴らは僕の千秋のへの気持ちを、そして(多分)プラトニックな愛を踏みにじった。蟻を踏み潰すかのように、容易く、何の罪悪感も無しに!
そんな連中とこれからも生きていかなければならないのか? 全く考えるだけで反吐が出る。
もう僕は決めた。
目の前にある扉、新世界への扉を僕は開く。
そして僕は彼女の手を取った。
「森さん。僕はもう決めたよ。僕もどうやらそっち側の人間らしい。仲間に入れてくれないか」
彼女は満足そうに頷きながら応えた。
「あなたならそう言ってくれると思っていました」
こうして僕は新たな世界へと踏み出した。この出会いが偶然なのか必然なのかはわからない。この選択が正しいのかもわからない。
だが僕はもう振り返らない。たとえ茨の道であっても僕は進んでいく。
硬い握手を交わした後、僕は例のミニコミ部の部室へと案内されることになった。是非とも同士たちに僕を会わせておきたいという彼女の強い希望によるものである。しかし先を進む彼女の様子がどうもおかしい。数分前までの宗教狂人じみた気配は彼方へと消え去り、まるで(比較的)普通の(オタクの)女の子に戻っていた。スキップに鼻歌というコンボを決めながら彼女は愉快そうに言った。
「いやー、最高にハイってやつね。歌の一つでも歌いたいような気分だわ」
と、こんな調子である。まさか彼女は多重人格か躁鬱病か何かなのかと勘繰ってしまうほどだ。ここいらでちょっとその辺をはっきりさせておかないといけないかもしれない。とりあえず僕は彼女を呼び止めた。
「ちょっと森さん」
「なーに?」
「いや、何と言うか…、その…、上手く言えないんだけどさ」
「はっきり言ってくれて全然構わないよ」
「じゃあ言うよ。さっきとキャラ変わってない?」
思い切って言ってみた。しかし彼女は造作も無く、
「なんだ、そんなこと? あ、でもそうだね。初めての人は戸惑うかな」
「どういうこと?」
「私は演技的人間なのよ。キャラを作っていると言えばわかりやすいかしら。普段の私では所謂『陽の者』に立ち向かうのは非常に困難なの。どうしてもニート予備軍であるということや、マイノリティーであるという精神的な負い目が原因となって上手く喋れなくなってしまうの。だから大一番の時というか、スイッチが入った時はどうしても芝居がかった口調になってしまうのよ」
はい。この説明で納得出来る人は挙手をお願いします。誰もいませんね。正直よくわかりません。『陽の者』って何? 僕もそれなのかな。でももう言及するのは止めておこう。面倒だしね。僕はとりあえず、
「あ、そうなんだ」
と、ただそれだけの返事をしておいた。それからは黙って彼女の後をついて行った。
渡り廊下を通って文化棟の中へ入る。ここには特別教室や文科系のクラブの部室が軒を連ねている所だ。ミニコミ部の部室は三階の一番奥にあった。
「ここが私たちのアジトよ」
そう言って彼女がドアを開けた。軽く異様な光景が目に飛び込んできた。入った部室の中はとにかく汚かった。机の上には読み散らかされた本や紙コップが散乱し、所狭しと積まれたダンボールや本の山が幾つもそびえ立っている。窓はカーテンやポスターによって塞がれ室内はやけに薄暗い。本当に秘密結社のアジトのようだ。そんな穴倉のような部室に六人の女子生徒たちが待っていた。
「皆、新たな同士を紹介するわ! 彼が本山田武君よ」
じろり。全員の視線が僕に集中する。あれ、歓迎されるんじゃなかったのか? 僕をそんな目で見ないでくれ。観察者の眼差しで見るのは止めてくれたまえ。
「この人が…」
「八番目の『薔薇』だと言うの…」
「ちょっとイメージと違うけど…」
「これはこれで…」
「ありかな…」
「ありでしょ!!!」
彼女たちはそれぞれ勝手に囁きあっていたが、その一言がきっかけとなって質問の洪水が起こった。
「先輩が『攻め』だって本当ですか?」
「お相手はどんなタイプなんですか?」
「美少年系ですか? それとも筋肉系?」
「同性への恋を自覚したのは何時頃ですか?」
「正直どこまで発展したんですか?」
「さっさと白状してくださいよこの野郎」
ココハドコ。ワタシハダレ。コノコタチハナニヲイッテイルノ。リカイフノウ。リカイフノウ。僕の脳がオーバーヒートを起こしかけた時、森さんが大声を上げた。
「お止めなさい! 何時から本山田君は聖徳太子になったのよ。それに彼はこっちの世界に来てからまだ日が浅いの。あんまり踏み入った質問は慎みなさい」
六者六様の返事が返ってきてようやく少しは静かになった。それでもまだ僕をチラチラ見ながら何事かを囁きあっている。
「まったく困った娘たちね。本当に自重しないんだから」
「あのー、彼女たちは一体…」
「あら、いけない。紹介が遅れたわ」
そう言うとまたスイッチが入ったのか、ポケットから白手袋を出して身に付けると、大げさに両手を広げポーズを決めてから言った。
「ここに集ったのは選ばれし者、そして自ら選びし者たち。人は我らを『薔薇騎士』と呼ぶ。さぁ本山田君。君も今日からその一人となったのです。共にジャスティスのために戦いましょう」
「それじゃ全くわからないよ! 頼むからもっと僕にも理解出来るように言ってくれないかな、ホント」
そう強く要望すると、彼女はまたもやれやれと言わんばかりの呆れ顔で言った。
「全く本山田君はニブチンだわね。つまりここにいる全員で君の恋を成就させようってことよ」
ああ。そっか。『薔薇』ってそういうことね。そういう趣味の娘たちの集まりなのね。なるほど。だから同士か。ってちょっと待て! 確定なのか? もう僕はガチホモ確定なのか? まだ心の準備が――、しかし森さんは僕の心を読んだかのように言った。
「本山田君。今更裏切ろうとでも言うの?」
ざわ……ざわ……
そんな効果音がどこからか聞こえてきたと思ったら、どうやら他の六人が口で言っているようだ。奇妙なまでに抜群のチームワークを発揮していやがる。くそ、ここからが本当の地獄か。それにしても森さんの目がヤバい。何かが憑いたような、とにかく常人の目じゃない。
「わかってるでしょ?」
そう言って一歩、また一歩僕の方に歩み寄って来る。瞬く間に壁際まで追い詰められてしまった。外野の『ざわ……ざわ……』が一層うるさくなった。
「か、隠し事ってな、なんだよ。僕はなにも」
「嘘だッ!」
「ひぃ」
森さんが完全に違う人になっていた。演技がどうとかそういうチャチな話じゃない。きっと多重人格だ。間違いない。彼女の中には他にもたくさんの人格が潜んでいるに違いない。まぁそれはいい。とにかく誰か、本当に誰でもいいから助けてくれ。ここは、いや、こここそが地獄だ。煮えたぎる魔女の鍋の底の方がよっぽどマシだ。
「誤魔化しても無駄だよ? みーんな知ってるんだから。ってかそのつもりで来たんでしょ? じゃなきゃ私みたいなのにホイホイついて来るわけないしね。本山田君はもっと自分の欲望に素直にならなきゃ駄目よ。正直な話佐藤君のことを押し倒して滅茶苦茶にしたいでしょ? 縛って弄って辱めたりしたいんでしょ? 私たちはいろんな意味でその気持ちが痛いほどよくわかるわ」
いろんな意味ってどんな意味だよ。そこんとこを詳しく問い詰めたいのは山々だけど、進んで地雷は踏みたくはない。僕は何も言わず続く言葉を待った。
「もう我慢する必要なんてないわ。だってここは薔薇たちが咲き誇る場所なんですもの。ロマンを追い求める旅人たちの楽園――それこそがこの場所なのよ。本山田君。最初から諦めてちゃ駄目。まだ試合は始まってさえいないわ。ここからよ。全てはここからなの」
彼女の目は何時の間にか元の、いや、一人の戦士の目になっていた。確かに彼女たちの気持ちは有難い。しかし僕は本当に彼女たちの同士になれるのだろうか。その資格が僕にはあるのか? 様々な偏見や障害を乗り越え、それでも立ち向かう勇気が僕にはあるのか? でも、
――――僕は千秋のことが好きだ
この気持ちに偽りはない。僕は彼を愛してしまった。だがその相手は同じ男だ。それも時々話すくらいのクラスメイト。あまりにも距離がある。それもいろんな意味で。正直その気持ちを認めたくはなかった。
――――でも、好きだ
関係あるのか、性別なんて。好きになった人が一番に決まってるだろ。わかってる。千秋じゃなきゃ駄目だ。思い込みだと笑いたくば笑え。現実を見ろと言いたくば言え。何もしないってのは嫌だ。砕け散る覚悟はもうしたはずだ。支えてくれる仲間にも出会えた。
「一人じゃない」
そう言ってくれた戦友がいる。新しい自分がここにいる。
やらなきゃ。
言わなきゃ。
好きだってことを。
もう僕は扉を開いたんだッ!
「信じていいのかい? その…君たちのことを」
「愚問よ」
またあの時、教室で見せたあの満面の笑みで彼女は言った。
「そのために私たちがいる。本山田君と佐藤君の幸せのために」
そして僕らは一つになった。
その後は『第一回佐藤千秋攻略会議』なるものが行われ、より一層連帯感は強まった――、でいいのだろうか。いや、すいません。今のは大分誇張表現でした。実際は大変カオスを極めた雑談が行われただけでした。もう僕には何が何だかわからなくなってきました。おまけに明日からは放課後毎日部室に来るようにも命じられてしまったのです。
「明日学校休んじゃ嫌だよ?」
とか狩人の目で言われて御覧なさい。ノーと言えるはずがありません。結局解放されたのは六時過ぎで、もはや身体と心は疲労困憊の極み。今日は早めに寝よう。じゃないと明日からのハードな生活に耐えられないだろうし。またしても僕の人生設計は大きく狂ってしまった。だが、それでいい。今はそれでいい。戦いはこれからなのだから。そう思える自分が既にいた。僕はここで生まれ変わるのだと。
なんだか内容について言及したくない夢を見ていた気がする。だけど肝心の内容を思い出せない。多分思い出すことを身体と心が拒んでいるような気がする。目覚めは最悪だったがそれでも結局はいつも通りの時間に家を出た。
正直学校には行きたくない。例の『薔薇』の娘たちはそんなに問題じゃない。というかむしろ有難い。クラスでの僕の居場所が問題なのだ。恐らくこれからは迫害と差別に苦しむ日々が始まるのかと思うと足取りは重くなるばかりだ。すれ違う全ての人が僕を嘲笑っているようにさえ思える。
しかし気が付くといつの間にか校門の前にまで来てしまっていた。もう駄目だ。このままではヒポコンデリアになってしまいそうだ。ようよう辿り着いた下駄箱の前で苦悶していると後ろから声をかけられた。
「おはよう、本山田君。朝から死相が出てるけどどうかしたの?」
森さんだった。この時間に会うのは珍しい。彼女は毎朝大体遅刻ギリギリに来ていたはずだ。
「おはよう。今日は早いんだね」
「そりゃそうよ。いよいよ今日から作戦開始なんだから。いつまでも寝てられないわ」
作戦ねぇ。確かにそれは必要だろうな。今の僕と千秋との距離は相当なものになってしまっている。まずはそれを縮めなければならない。僕は靴を履き替えながら聞いてみた。
「勝算はあると思う?」
「大アリよ」
どこからそれだけの自信が湧いてくるのやら。だが森さんは本気のようだ。彼女の目には寸分の曇りも翳りもない。僕はこの場では深く言及はせず、とりあえず二人で教室に急いだ。
教室の前まで来ると突如森さんが立ち止まった。
「どうしたの?」
「いや、一緒に登校したと思われると色々とマズイんじゃないかと思って」
「何でさ?」
そう聞き返すと森さんは真剣な顔で、そしてあくまで静かに言った。
「本山田君。私たちが避けなければいけないことの一つは目立つことよ。そして変化と言うのは目に付きやすいものだわ。それまで全く関係の無かった者同士、それも男女が一緒に登校してくるなんてもってのほかよ。そうだ。クラスでは今まで通り互いに素知らぬ顔をしていましょう。その方がきっと都合がいいわ。それではまた放課後に」
そう言うとさっさと一人で教室に入って行った。僕らはスパイかなんかですか。いささか大げさなような気はするけど、まぁ森さん相手じゃ仕方が無いか。結局言われたとおり僕は数テンポ遅れてから教室に入った。
驚くべきことが起きた。なんと放課後まで何も起きなかったのである。僕の場合『何も起きない』ということが大事件なのだ。てっきり残虐な迫害が始まるものとばかり思っていたからかえって拍子抜けした。クラスメイトからは完全に無視されるようになってしまったのは少し寂しいけれど、それぐらいならまだ耐えられる。森さんとも教室では一言も口を利いてはいないが、それは出会う以前と同じだ。というかクラスでの森さんは別人かと思うほどおとなしい。誰とも口を利かないし、昼休みはどっかに消えてしまっていたな。僕も元々友達は多いほうじゃないし、一人でいるのも結構好きだから問題はない。
唯一気がかりなのは千秋のことだ。授業中にやけに視線を感じたので、その主を探してみると、なんと千秋が僕の方を注視していたのだ。僕と目が合うと恥ずかしそうに視線を逸らすということが七回もあった。これは一体何を意味するのか。
しかしたまらん。その眼が、その瞳が僕を引き付ける。ぱっちりとした可愛らしい瞳だ。あんなのに見つめられたら確実に死ぬ。昇天間違いなし。保証したっていいくらいだ。
が、それだけが妙に引っ掛かる。まぁあんまり考えても仕方ないことだろう。しでかしてしまったことを悔やむのは時間の無駄だ。うん。ポジティブ。僕はポジティブ。森さんは掃除当番のようだったので、僕は先に一人で部室に向かうことにした。
昨日来た道だから迷うことなく到着した。でもなんとなく入りづらい。ええい、ままよ。ここまで来て怖気づいてどうする。僕はもう同士のはずじゃないか。そうだ、そうだよ。しかし一応ノックをしてから入ることにした。
「失礼します」
少し堅苦しすぎたかな。でもまぁ昨日の今日だしこれくらいの礼儀は必要だろう。中に入ると室内の様子は昨日とほとんど変わっていなかったが、決定的に違う点が一つあった。見知らぬ一人の女子生徒が座って本を読んでいたのだ。上履きを見るとどうやら一年生らしい。長い黒髪が印象的な、凛とした美人という感じの娘だが、なんだかきつそうな眼つきをしている。
「――――――?」
「どうも」
とりあえず声をかけてみた。反応はあるが返事は無い。黙ったままこちらを見つめている。昨日の『薔薇』の同士の娘ではないのはわかるがどうしたものだろう。ここは一応名乗ったりした方がいいのかなぁ。彼女が僕のことを知らなかった場合、突如部室に現れた不審者と見なされる恐れもあるしな。なんて切り出そうか思案していると彼女が口を開いた。
「本山田さん」
「へ?」
「本山田武さんですね?」
「あ、いえ、その…、まぁそうだけど。どうして僕の名を?」
そう聞き返すと彼女は心底うんざりそうに言った。
「あれだけ森先輩たちが馬鹿騒ぎしていれば嫌でも覚えます」
そう言ってからため息をついた。態度からもわかるが言葉にも明らかな敵意が込められている。しかしどうもその理由が僕にはわからない。なんだか森さんとは仲が悪そうだけど、ミニコミ部はそういう趣味の娘たちの集まりじゃなかったのか。しかし僕の疑問を他所に彼女は言った。
「まったく『薔薇騎士』にも困ったものです。許可も取らずに勝手な真似ばかりをして。正直なところうんざりしてるんですよ」
「君は一体何者なんだ?」
彼女は本を置いて椅子から立ち上がると、真っ直ぐに僕を見据えて言った。
「私は坂本冬美。『百合』に仕えし者です」
待て。今何て言った。僕の耳には確かにこう聞こえたぞ。
――――百合に仕えし者
どうやらまたまた僕の理解の範疇を軽く飛び超える存在が現れたようだ。こんな娘がいるなんて森さんからは聞いてないぞ。困惑している僕を無視して彼女は続けた。
「本山田さん。あなたはここにいていい存在じゃない。あなたはこの場所にはふさわしくない」
「ちょっと待ってくれよ。こっちは事情が全く飲み込めてないんだ。もっとわかるように言ってくれないか」
「『薔薇騎士』から聞いてないんですか? 困ったものですね…、まぁいいでしょう。私がこの際説明しておきます。ミニコミ部の真実をね」
「真実?」
「そうです。ここは本来なら由利恵様を頂点とする『少女の王国』が築かれるはずだったのです。なのに『薔薇騎士』の奴めが…」
「タイム。由利恵様って誰?」
「あなた由利恵様を知らないんですか!」
「う、うん。申し訳ないけど」
「……正気を疑いますね。校外だったら殺しているところですよ。まさかそこから説明が必要だとは…」
なんだか雲行きが怪しくなってきたぞ。しかもさりげなく物騒なこと平気で言ってるし。森さんたちより変な人たちがまだまだこの部にはいるようだ。魔窟のような所だとは聞いていたけど、まさかここまでの人外魔境だったとは。しかし『百合』――そういうのもあるのか。
まぁ『薔薇』があるんだからあってもおかしな話ではないけど…、でもなぁ、僕にだけは言われたくはないだろうけど、なんかイケナイ響きだな。だって女の子同士だよ? それってやっぱり…、なんというか…、かなりアレな気がするんだよなぁ。ロマンはたっぷりあるような気はするんだけど…、でもこんなしょぼい共学校じゃなくてハイ・ソサエティーなお嬢様校でやった方が気分でるんじゃないのかな、「タイが曲がっていてよ?」みたいな感じでさぁ。
「ちょっと人の話聞いてますか?」
は、いかん。ちょっと違う世界にワープしていたようだ。僕は本当に駄目なヤツだ。かなりいけない妄想世界にあろうことか女の子前で耽溺してしまうなんて。もう駄目だ。どっか大事な所がもう壊れてしまって――
「だから人の話を聞いてるんですかって言ってるんです。頭大丈夫ですか?」
「ゴメン、多分駄目だ。でも大丈夫だよ。もう戻ってきたから」
「……噂どおり精神分裂症気味っていうのは本当みたいですね。まぁとりあえず座ってください。しっかり聞いて貰わないと意味がないですから」
そう言うと隅に積んであったパイプ椅子を一つ出してくれた。有難く座らせてもらって、僕らはテーブル越しに向かい合った。
「どうぞ」
厳しい口調と眼つきとは裏腹に、なんとお茶まで淹れてくれた。多分だけど坂本さんていい娘だ。キャラは大分作ってる感じがするけども。何故だかそんな気がした。そんな詮無きことを考えていると、
「言っておきますが、私があなたの味方になるということはまずありませんよ」
じろりと一睨みしてから釘を刺された。油断ならない娘だ。気を引き締めないといけないかも知れない。
「では始めましょう。本山田さん」
「は、はい」
「まずお聞きしたいんですが、あなたはどこまでご存知なんです? このミニコミ部について」
別に隠したってしょうがないので、僕は知っている限りのことを洗いざらい白状することにした。とは言っても森さんからの伝聞情報がほとんどで、僕があらかじめ得ていた情報はかなり少ないものだ。一通り話し終えると、坂本さんが独り言のように呟いた。
「計画の実行は遠そうね…」
計画? 一体何の話だ? ここは一応質問しておくか。多分誤魔化されるだろうけど。
「計画って何のことだい?」
「いえ、こっちの話です。あなたが気にする話ではありません」
「君たち相手だと何か心配なんだけどな」
そんな風に言ってみると彼女の眼つきが変化した。単に鋭いだけじゃなく、より冷淡かつ残忍なものへとなるのがわかった。
「ふあっ」
あっという間の出来事だった。正直何が起きたのかすぐには理解出来なかった。
ただ一瞬――、
ほんの一瞬での――、抜刀
目で動作を追う暇も無かった。気付けば僕の首筋にアーミー・ナイフが突きつけられていた。身動きがとれない。驚愕と恐怖で体が固まってしまっている。そんな僕を尻目に極めて冷静な調子で彼女は言った。
「余計な詮索はしない方が身のためですよ。死にたいって言うなら話は別ですけど」
そう言ってナイフを腿のホルスターに収めた。そんな所にナイフを隠していたのか。しかしこの娘は一体何者だ? これじゃ暗殺者か何かの類じゃないか。なんだか向かい合っているだけで体温が奪われていくような気がする。さっきまでの彼女とは違う。何か狂信的な、異常なものに裏打ちされた凄みがある。
「ではお話しましょう。まずは」
「ちょっと待ってよ!」
――――バン!
僕が言葉を紡ごうとする前に彼女が机を叩いて遮った。
「質問は一切受け付けません。あなたはただ黙って私の話を聞けばいいんです。まずは由利恵様についてお話します。立花由利恵。彼女こそがミニコミ部の部長であり、我ら『百合』の指導者です。本来ならば由利恵様を中心としてミニコミ部は『少女の王国』つまりは『百合』たちの理想郷となるはずでした。私をはじめ多くの者たちがそれを望んでいたのです。ですが『薔薇騎士』、あなたには森先輩と言った方がわかり易いですか? 彼女だけが由利恵様を拒絶したのです。一部の未熟な『百合』たちをたぶらかし、堕落させ自らの仲間へと引き入れていきました。そしてせっかく完成しかけていた『百合』の花園を踏み荒らそうとする始末。それに対して…(以下略)」
その後三十分程延々とトンデモ話を聞かされて、たった一つはっきりとわかったことがある。
狂ってる。この娘は完全に狂ってる。狂信者だ。それもどっかの原理主義者たちと同レベルの。恐らくその『由利恵様』のためなら殺人だってためらわないタイプに違いない。
逃げなきゃ。一刻も早くこの部屋から脱出しなければ。僕は椅子から立ち上がると一目散にドアを目指した。しかし僕としては最大限・全力で高速移動を試みたつもりだったのだが、彼女はそれを嘲笑うかのように一瞬にして眼前に現れ、ドアの前に立ちふさがった。
「何処へ行こうというのです? まだ話は終わっていませんが」
えー、まだ話すことあんの? どれだけ喋れば気が済むんだって、あー、もう、違う! そこツッコんでる場合じゃない。何をしたんだ? まさか座ったままの姿勢から跳躍したのか? いや、そんなことはこの際どうでもいい。重要なのはこの状況を如何にして打破するかということだ。
もう戦うしかないか。考えたってしょうがない。どうやら腹を決めるしかないようだ。
「ホアチャー!」
僕は一声上げてから昔見たカンフー映画の構えをとってみた。多分意味は全く無い。けど少しは抵抗の意思を見せておかないと。黙って殺されるのはどうも嫌だ。
「やる気になりましたか。いいですね。その方が殺し甲斐があります」
狭い部室の中で戦いの火蓋は切って落とされようとしていた。
その時だった。突如としてドアが開かれようとしたのだ。ガチャリという音に気を取られ、僕は眼前の彼女から注意を逸らしてしまった。
「なーに余所見してるんですかッ!」
雄叫びと共に先程と同様ナイフを抜いて飛び掛ってきたのだった。万事休す。南無。しかし死を覚悟したその瞬間、何者かによってドアが完全に開け放たれた。
「あら」
なんと部室に入ってきたのは森さんだった。まさに地獄に仏とはこのことだ。僕はとにかく力いっぱいに叫んだ。
「森さん! 助けて!」
「――なッ、『薔薇騎士』だとッ」
森さんの名を耳にした途端、何故だか彼女は身を翻して攻撃を中止したのだった。
「本山田くん! 大丈夫? 怪我は無い?」
森さんが駆け寄ってきてくれた。それと同時に全身の力が抜け落ちた。
助かった。安堵すると同時にその場にへたり込んでしまった。
「冬美、これはどういうこと?」
その声は僕の知っている森さんのものではなかった。極めて激しい怒りが込められた鋼のような響きだった。
「別に。大したことではありませんよ」
「なーにが『大したことではない』よ。ナイフ持って飛び掛るのが普通だって言うの?」
しかし彼女は森さんの剣幕に押されることもなく、平然とナイフを収め、部屋から出て行こうという様子だ。
「今日のところはこれで失礼します」
そう言って背を向けるとさっさと行ってしまった。さすがの森さんも呆気に取られている。そして結局僕たち二人だけが取り残された。
何と言うか…、もう僕のボキャブラリーにこの事態を表現できる語彙はないや。などと森さんの腕の中でぼんやり考えていると、
「よかった! 本当に無事でよかった…」
よっぽど心配だったのか、森さんにぎゅうっと抱きしめられてしまった。
「く、苦しいよ…、それに…、その」
体の密着度がちょっと…、ね。いくらホモセクシャルの気がある僕でもここまで女の子と密着するのはちと刺激が強い。この体勢では森さんの体温をダイレクトに感じてしまうではないか。でもちょっといいかも…? 森さんって案外『大きい』? くっはー、駄目だ、駄目だ、駄目だダメダメダメメ! ダメメって何だよ、全く。僕は何を考えているんだ! 彼女は同士だ! 共にこれから戦火を潜り抜けていく予定の戦友なんだ! そんな彼女に対して好色・淫猥なことを考えてはいけないんだ。
僕よ、自重しろ。クールになるんだ。だがしかし、しかし、僕は今なんだかときめいてしまっている。ついさっき殺されかけたというのに! あんな目に遭っておきながらも! この胸の高鳴りは一体何だ?
――――まさか恋?
いや、そんなことはないはず。僕が、この僕が女の子に心揺さぶられるなどということはあってはならないはずだ! もう僕は迷わないと誓ったはずだ。それなのに何故?
だが今までの人生を振り返ってみて、僕は同性とも異性とも親密になったことはなかった。精神的にも肉体的にもだ。正直言って僕は男の子についても女の子についてもよく知らない、そんな中途半端な人間なのだ。
千秋には『男』を意識させられた。でもそれはそれでいい。
問題なのはッ、今僕は森さんにッ、『女』を意識させられてしまっているッ! それが大問題なのだッッッッッ!
こんな妄想癖に加えて精神分裂気味のどうしようもない僕を同士と呼んでくれた彼女に――窮地に立たされた僕に救いの手を差し伸べてくれた彼女に――
――――恋に、落ちた
のか? いや、違うよ。あはははははははは、僕は何を考えて…、妄想だよ。全ては僕の空虚な妄想だ。身勝手な妄想に過ぎないんだ…。
チガウチガウチガウチガウチガウチガウ、コレハボクノホントウノキモチナンカジャナイ…。
――――ソレナノニ
「本山田くん? どうしたの? どっか痛いの?」
そう言って僕を抱きしめてくれる森さんの体は温かかった。
僕は――
今この瞬間だけは――
このままでいたいと心の底から思った。
そしてこのまま死ねたらいいと思ったのだった。
戦友の温もりの中で僕は幸せだった。思い残すことは多々あれど、正直もう死んでもよかった。最高の同士に看取られて死ねるなら文句のつけようは、ない。
森さん。
君の名前を呼ぶのもこれが多分最後かも知れない。
さよなら。そしてありがとう。君に出会えて僕は本当によかった…。
この状態があと数十秒でも続けば多分ここで僕は死に、第二部完ということになっていただろう。
しかし思わぬ闖入者が現れたのである。ドアの開く音をここまで耳障りに思ったことはなかった。止めてくれないか。こんな気持ちになったのは初めてなんだ。頼むからそっとしておいてくれ…、って!!! まさか!と思ったその時既にドアは開かれていた。
「失礼しまーすって…、あれ…」
最悪の展開だった。
その闖入者とは何を隠そう佐藤千秋だったのだ。
ドアを開けた状態のままで固まっている。
千秋の顔がどんどん赤くなっていくのがわかる。なぜなら僕たちの体勢は誰がどう見ても抱き合っているようにしか見えないからだ。
「……えーっと…、その、何て言うか…、お邪魔しましたァー!」
そう言って走り去ってしまったのだった。マズい。誤解されたというかそんなレベルの話じゃない。現行犯だ。不純異性交遊の現場を押さえられたも同然の話だ。でも何故千秋がここに? 彼は確か帰宅部だったから文化棟に用があるわけがない。
「やば」
森さんが呟いた。
「どうしたの? まさかこの事態に関連することかい? というか彼は何故にこげなところさ来たんだ?」
いかん、衝撃のあまり口調がおかしくなってしまっている。うろたえるな。日本男児はうろたえない。
短いの沈黙の後に搾り出すように森さんは答えた。
「……ゴメン。佐藤君に部室に来てくれるように言ってたことすっかり忘れてた」
貴様かッ!
終わった! もう無理だ! 第二部完!
「何故? ホワイ? なしてそげなことを」
「本当にゴメン! だってだって部室に入ったら本山田君が冬美に襲われてるし、気が動転してて……やっちゃったぜ、てへ☆」
「可愛く言って済む話か! いや、待って。ということは森さんは彼と交流があるのかい? そしてこの距離は近すぎるから離れよう」
その僕の言葉に森さんの目は輝きを取り戻した。彼女のテンションが一気に跳ね上がる。やっぱこの娘おかしいよ。
「そうよ、大事なのはそこなのよ! 過ぎたことを何時までもグチグチ言っていても何も始まらないわ。本当なら今日ここで二人にお見合いをしてもらうつもりだったんだけどね、こうなった以上は計画変更だわ。本山田君、明日の五時限目の授業は何か言ってみなさい」
「体育だけど、それがどうしたっていうのさ。そして近いよ」
僕の度重なる警告の末、再び僕らは机越しに向かい合う形で話し合いを始めた。僕が口火を切るべきかどうか考えていると、ずい、と森さんは身を乗り出してきて言った。
「それはね……、大事な大事なアタック・チャーンスに決まってるじゃない! いいこと、その時に一気に挽回するのよ。ここでしくじれば後はないと思って間違いないわ」
「アタック・チャンスと言ったってどうするの? あんなところを見られちゃってるってのに。そんなことより僕が知りたいのは森さんと佐藤君はどういう関係なのかってことだよ」
ちっちっと指を振りながら諭すように森さんは言う。
「そう焦るもんじゃないわよ、本山田君。こうなってしまった以上は大事なことをありのままに話すわ。実はね…」
武と裕子が回想モードに入っている一方で、部室を飛び出した千秋は当ても無く校舎を彷徨っていた。正直これまで出番の少なかった彼にも実は重大な秘密があったのだ。
佐藤千秋はゲイなのである。
そのことを本人が自覚するようになったのは高校に入ったばかりの時期である。それまでの千秋は自らは性同一性障害なのではないかと思い悩んでいたのであった。その男らしからぬ容姿に加え、どうにも男に目がいきがちな自分は本来女として生まれてくるべきだったのではないかと思っていたのだった。
だがそれも違うことに気付いた。自分は女として男が好きなのではなく、男として男が好きだということを理解した。そしてそれは誰にも言えない秘密だった。たとえ可愛いと言われようともあくまで男として生きていこうと決めた。自らの『男』を証明するため、告白されれば女の子と付き合ったりもした。そんな努力を続けていたある日、彼に運命的な出会いが訪れる。
ある日の放課後。階段の踊り場にて千秋は一人の眼鏡少女とぶつかった。所謂出会い頭の衝突というやつで、その衝撃で少女が荷物をぶちまけるという極めてよくありがちな展開であった。
「ゴメンなさい! 急いでたもんで」
千秋は苦笑しつつ、
「いや、大丈夫だよ。それより怪我はない? ほら眼鏡」
そう言って吹っ飛んだ眼鏡を少女に渡し、散らばった薄い冊子のようなものを拾い集めようとした。
「あ、ありがとう御座いますって…うわー! ちょ、見ないで! 見ちゃらめー!!!」
「へ? う、うわっ、こ、これは…」
その眼鏡少女こそが森裕子だったのである。裕子がぶちまけたのは後輩洗脳用に持ってきたBL系の同人誌だった。美少年同士が抱き合ったり、唇を重ねあっているページがタイミングよく開かれていた。
「ダメダメダメ! 見ちゃダメ! 嗚呼、神よ…、私が何をしたっていうのよ…」
裕子がショックを受けている一方で、千秋は驚きと興奮を隠せなかった。
(まさかこの娘もこういうのが好きなのだろうか?)
同好の士との思わぬ出会いに千秋は驚喜すると同時に、散らばった同人誌に魅入っていた。そして興奮していたのである。
(うあぁ…、こんなのっていいかも)
それは冷徹かつ強気な美少年が、か弱げな美少年を責め立てている場面だった。
(僕もこんな風にされたら……、は、いけない)
頭を振って煩悩を断ち切ろうとしていると、半泣き状態の裕子が極めて恨みがましい口調で言った。
「見たわね」
「いや、その…、これは不可抗力というか」
「見たなッ! それだけで十分だ! ウンザリだぁ! そーだよ、どーせ私は腐女子ですよーだ。こういうのを見てハアハアしている変態予備軍の一人ですが何か? それの何が悪いっていうのよ。いいじゃない。全然いいじゃない。所詮この世はフリーダムよ? ホモが好きで何が悪いって言うのよ!」
そう叫び散らしながら訳のわからない逆ギレを始めた裕子を宥めようと千秋は言った。
「落ちついてってば! その、実は僕もそういうのに興味があるんだ!」
「は?」
なんたる偶然。
ゲイ(それも受け)の少年。
そしてBLを愛好する少女。
出会ってしまってはいけない二人が出会ってしまった。こうして二人のトンチキな交流が始まったのである。
二人は互いの趣味についてしばしば語り合い、理想について議論を重ねあった。そして在る時、裕子は千秋と一つの約束を交わした。
天然総受け体質な千秋にぴったりの男子を見つけること。
それがたった一つの約束だった。
「……てなことがあってね。実は私と佐藤君は同士だったのだよ! ってあんまり驚いてないみたいね」
「だって話が上手すぎるだろ…、常識的に考えて…」
薄々感じてはいたのだ。何か裏があるんじゃないかって。だってそうだろう。普通男に迫られて嬉しいやつなんかそんなに簡単に見つかるはずがない。
「それはそれでいいけどさ、これから一体僕はどうすれば」
「襲うのよ」
森さんの驚くべき言葉に僕の時が止まった。僕にはこの人が何を考えているのかわからない!この人本当におかしいよ!
「体育の時間に何処かに呼び出して襲うしかないわね。そうだ、体育館脇のトイレにでも連れ込んで犯っちまうのがいいと思うわ」
「ちょ、森さんあなた正気かい? そんなの犯罪じゃないか! 僕は強姦魔になんかなりたくないよ!」
だが僕の必死の抗弁も今の森さんには届かない。森さんは突如雄叫びとともに目の前の長机を引っくり返し叫んだ。
「黙らっしゃい! もうこれしか手段は無いのだわ。純愛ルートのフラグが折られてしまった以上は鬼畜・調教ルートにかけるしかないのよ! 多少強引でも構わないわ、佐藤君の体に『男』というものを刻み付けて上げなさい!」
なんだよフラグとかルートって。駄目だ。森さんが壊れた。
「本山田君。冷静に考えて見なさい。男が女を襲うのはNGよね。でも同性同士ってことになれば最悪『じゃれてただけです』って言い訳が出来るじゃない! 完璧よ、マーベラスかつブリリアントな作戦だわ」
お願いだから森さんに冷静になって欲しい。確かに魅力的な話ではある…、でも何だかそれは卑怯な気がするんだよなぁ。僕が欲しいのは千秋の体だけじゃない。身も心も、それもちゃんと段階を経た上で欲しいのであって。そんな乱暴なことは出来ればしたくはない。常識的に考えればそれで決まりだろう。
しかしもう僕に残されたチャンスは皆無…、ここから逆転など極めて無謀…、あまりに楽観的観測過ぎる…、起こり得ない! 奇跡を期待するなどとは愚の骨頂…、敗者の思考だ。だったらどうする?
手に入れることが出来ないとわかっているのなら、
シナリオが既に破綻してしまっているのなら、
――――イッソ壊シテシマエバイイ
そう、極めてシンプルな思想だ。結局辿り着くのはそこなんだ。
望んだ終焉を迎えられないのならば壊す。
僕は千秋を壊す。とても簡単な理屈だ。
そして彼女も壊す。
目の前で熱弁を振るう彼女も。
僕はもう千秋だけじゃ我慢出来なくなってしまっている。『男』だけじゃたりない。
僕は森さんが欲しい。勘違いとかそんなのじゃない。僕の奥にある何か確かなものがそう告げたのだ。彼女は僕の同士だ。そして彼女がホモに興味があるということも間違いない。
だけど彼女は『女』だ。どんな理屈をこねてもその事実が引っくり返ることはない。
どこまでいっても彼女は『女』だ。彼女は永遠に『男』にはなれない。どれほど憧れても一生傍観者の立場にあることは変わらない。
だから壊す。理解(わか)ってもらうために。
今も彼女は興奮気味に何事かを話している。だけど僕には何一つ言葉として聞こえてこない。まるでサイレント映画の中に入ってしまったような気分だ。彼女が何を話しているかなんてもうそんなに問題じゃない。僕が今何を想ったか、そっちの方がよっぽど重要だ。
僕の中で、
悪魔が、生まれる。
無邪気なその笑みを僕が凍りつかせてあげよう。
君はきっと二度とそんな風には笑えなくなる。
同士としての君はもういらない。
僕は『女』としての君が欲しいのだ。
壊すことによって君を手に入れてみせる。そう、僕はきっと君が好きなんだ。勘違いも甚だしいと君は言うかも知れない。それでも別に僕は構わない。君がどれだけ拒絶しようとも、僕を憎悪することになってしまっても構わない。
好きだから、
恋をしたからこそ奪う。
それはもう少しだけ先の話ではあるけれど。
気付けば僕も既に壊れていた。
しばしの沈黙の後、僕は再び口を開いた。
「決めたよ。力ずくでも千秋を手に入れてみせる」
僕の意外な決断に彼女は少し驚いたようだった。
「え? ホントに?」
「だってそうするしかないんだろ? だったらやるしかないよ。男は度胸。なんでもやってみるもんさ」
「あ…そうよね! それでこそ我が同士よ! ちょっと待ってて」
そう言ってから彼女は奥のスチール・ロッカーを漁り始めた。
「どーこやったっけか…、確かここに閉まっといたはずなのよね……、あった! これよ、これ」
手渡された雑誌には『月刊薔薇乙女 強気攻め大特集号!』と書かれていた。こういうのまであるのか。世間というのは僕が思ったよりも歪んでいる。よくもまぁこんな本を部室に置いておけるものだ。
「その本を読破すれば知識の方はバッチリだわ」
「実技の方は?」
「へ?」
すっ、と僕は彼女との間合いを詰めた。つま先同士がぶつかり、その時僕らの距離は数センチもなくなった。お互いの息遣いまではっきりとわかる。彼女は驚愕の表情を浮かべたままだった。
「君が教えてくれるのかな?」
「え、ちょ…本山田君、な、な、何を」
身を捩って逃げ出そうとするのを壁に右手をついて遮り、もう一方の左手で彼女の眼鏡を外した。そして一言。
「こんなゴツい眼鏡してたら可愛い顔が台無しじゃないか」
「ま、ま、ちょっと待って!」
逃げ場を失い困惑しきった瞳を真っ直ぐに見つめて囁くように僕は言う。
「目を逸らすなよ。僕は君の目の前にいるんだぜ?」
「!!!」
森さんの顔が真っ赤になっていく。漫画とかだったら頭が爆発したりする場面なんだろう。
森さんは必死に何かを伝えようと口をぱくぱくさせているが言葉にはなっていない。ちょっとやりすぎたかな。それでも僕にしては上出来か。今日はこんなものにしておこう。不審がられてもよくないしな。
「ジョーダンだよ、ジョーダン」
そう言って僕は彼女から身を離し、眼鏡を元通りにして差し上げた。そしてあくまでも今の行為はポーズだったことを強調する。
「……ほへ?」
呆気にとられている彼女にさらに駄目押しをしておく。
「強気攻めってこんな感じでいいのかな? それじゃ本は借りてくね。あ、もう遅いから森さんも気をつけて。じゃね」
そう言って鞄に本を放り込むと、僕はくるりと背を向け歩き出した。これで完璧だ。
「え、え、え…どういうことよこれって! ちょっと本山田君ってば、待って!」
叫ぶ彼女を残して僕は部室を後にした。待てと言われてもこっちはスタコラサッサだ。決心がついたからか体も心も軽くなった気がする。
僕は今までの僕じゃない。もっとクールで、それでいて大胆かつ己の欲望に忠実な男に生まれ変わったのだ。
気分は最高にハイだった。今の僕ならどんなことでも出来そうな気がする。それは予感ではなく確信だった。薄暗い校舎を抜け、僕は深まりゆく闇の中へと駆け出していった。
一人部室に取り残された裕子はかつて体験したことの無い胸の高鳴りを感じていた。
一方彷徨う千秋はある女子生徒に出会った。
文化棟と普通校舎との渡り廊下を歩いている際に彼は誰かと擦れ違った。傷心の千秋は気にも留めず顔を上げようともしない。しばらく歩いてからその誰かは振り返り、千秋に声をかけた。
「泣いているのね」
「え?」
そう、その女子生徒こそが『百合』の女王立花由利恵だった。腰にまでかかる長い黒髪を靡かせて千秋に歩み寄った。そして自らのハンカチを差し出した。千秋がちらりと上履きを見ると、どうやら同級生のようであることがわかった。
「これで涙を拭きなさい。美しい顔に涙は似合わなくてよ」
「あ、有難う御座います」
見上げた彼女に思わず千秋は見とれてしまった。かつてこれほどに美しい少女を見たことはなかったからだ。同年代の少女たちとは佇まいからして何かが違う。
まさしく『百合』。
彼女は清く、そして気高く咲き誇る百合の花の様だった。そして独り言のように彼女は呟いた。
「男の子にしておくのは惜しい逸材だわ」
「え?」
思わず千秋は聞き返さずにはいられなかったが、その反応を見て由利恵は慌てて打ち消すように言った。
「いいえ、何でもないの。大分個人的な話だから。あ、そうだ。よろしければあなたの名前をお聞かせ願えないかしら? これもあくまで個人的な話なのだけれど」
「い、いや、そんな名乗る程の者じゃないですからっ」
そう言ってハンカチを返して立ち去ろうとした。しかし由利恵はすかさず千秋の手を取って言った。
「あなたに興味が湧いてしまったのよ。私はミニコミ部長の立花由利恵。あなたは?」
「さ、佐藤千秋です」
(佐藤千秋? 確か昔裕子が言っていた『薔薇』の彼だったはず…、ふふ、これは思わぬ拾い物かも知れないわね)
「佐藤君、よかったら私と少しお話しませんか? まだ部室も開けたままだから場所には不自由しないわ。場合によってはあなたの力になってあげられるかもしれないし、ね?」
そう言って極上の笑みを浮かべた由利恵に抗える男子がこの世の中にいるだろうか? たとえゲイであっても心揺るがされる少女、それが立花由利恵である。千秋もまたその魔性に魅入られてしまった。そして言われるがままにその後について行った。
その頃空は暗雲に包まれようとしていた。それは彼らの行く末を暗示しているかのようだった。
機は熟そうとしていた。
ようやく運命の歯車は廻り始め、
そして宿命の朝が来る。
その日は朝からひどい雨だった。でもおかげで男子の体育が屋内で自習になったのは幸いだったと言えよう。昼休みの内に森さんとの十分な打ち合わせは済ませてある。後は計画を実行に移すだけだ。
僕たち男子は体育館で自由に競技を選んでやっていていいと言われていた。森さんの話によると女子は柔道場で組体操の練習をやるそうだ。
大半の男子たちはちょうどネットが張ってあったことから、バレーボールに興じ、一部の面倒臭がりたちは隅で寝転がったり、雑談に興じていたりした。
珍しいことに千秋もバレーに参加せず、隅でぼんやりと試合を眺めていた。これは助かる。どうやって連れ出そうかというのが簡単にクリア出来る。僕は何気に無い調子で話しかけた。
「佐藤君、ちょっといいかな」
「ふえっ」
いや、そんなに驚かなくても。別に取って喰おうってわけじゃ…、あ、それは駄目だ。だってこれから喰うしな。
うん、でも可愛いリアクションだ。やっぱり僕の好みだということがよくわかったよ。
ジャージ姿もいい。体操服の胸の所に縫い付けられた『2―1 佐藤(千)』というゼッケンがまたその魅力を引き立てるのに一役買っている。これは楽しめそうだ。まぁそれは後のお楽しみにしておこう。
「昨日のことで話したいことがあるんだけど、ここじゃなんだからちょっと来てくれないかな?」
「あ、うん。いいよ」
よし。いい調子だ。思ったよりもスムーズに事は進んでいる。
僕らは体育館を出て少し行ったところにある男子トイレに向かった。歩いている最中、僕らは一言も言葉を交わさなかった。
到着して中に入ると千秋が口を開いた。
「ここで話すの?」
「うん。でもこれじゃまだ足りないんだ」
そう言い終えるよりも早く、僕は動き出していた。
タックルに近い形で千秋を奥の個室へと押し込み、それと同時に鍵をかけた。あまりに急な事態に千秋は抵抗することも出来なかったようだ。
「え、ちょ、ちょっと何、何してるの!」
大声を上げようとする千秋に対して、僕は何も言わずにその唇を奪った。
「!!!」
壁際にぐいぐいと千秋の体を押し付けながら、それと同時に無理やり舌を捻じ込んでいく。
「むむう、むむ!」
千秋は苦しそうな声を出しながら僕を振りほどこうとしてくるので、逆にすっと身を離してやった。
「っはぁ! ど、ど、ど、どういう」
その言葉を遮って、極めてサディスティックな響きになるように注意して僕は言った。
「こうされたかったんだろ?」
僕の言葉に千秋は慄然としたようだった。
「え? そ、そんな違うよ! 僕は、僕は…」
必死に反論してはいるが、その顔はすでに上気がかっていた。
「わかるんだよ。興奮してるんだよな? 僕もだよ」
そう言って千秋の手を取ると、自分の股間にぐりぐりと押し当てた。
「あ、あ、あ…」
「な、わかるだろ。僕は君に欲情しているんだよ。もうこんなになっちゃってるんだ」
耳元で囁くように、ねっとりと溜めを聞かせて言う。千秋の顔はもう真っ赤になっていた。息も荒くなってきている。さぁ次のステップに移るかな。言葉責めはこんなものでいいだろう。
僕は体勢を変えて千秋の体に後ろから組み付くようにした。
そして抱きしめる。華奢な体に指を這わせていく。こっちの方が色々と都合がいい上、互いに息遣いや体温を感じることが出来る。
泣きそうな声で千秋は言う。
「お願い…、もう止めてよう…」
だがそんな嘆願の言葉は、今の僕には火にガソリンを注ぐようなものだ。
可愛い。
千秋、君は可愛い。
たっぷりと愛してあげるから。
僕しか見えないようにしてあげるから。
もう君は僕のものだ。僕の愛玩具になったのだ。
「お楽しみはこれからだよ、ねぇ千秋」
初めて名前で呼べた。
僕の妄想は、現実をも飲み込むことに成功したようだった。
僕の中で何かが滾るのがわかる。
熱いものがこみ上げてくるのがわかる。
だがまだだ。それを爆発させるのは――
この学校では女子の体育の授業は、着替えの時間を考慮してか、早めに終わるのが常である。
体育館の地下にある柔道場から授業を終えて出てくる女子生徒たちの中に裕子がいた。
(本山田君…大丈夫かな)
正直上手くいくかどうかはわからなかった。そして昨日の一件もあってか何か複雑な気分を裕子は感じていたのだった。
だが、その憂鬱も一瞬にして消し飛ばされた。外に出た瞬間裕子が目にしたものは、
「虹だ!」
裕子は思わず声を上げていた。
なんとあれだけの雨が上がり、晴天が広がりつつあったのである。
さらには校舎と体育館をまたぐ様に虹が架かっていたのだった。
裕子は直感した。
この虹が示すものを、
この空が何を伝えようとしているのかということを、
(大丈夫。あの二人ならきっと…)
裕子は駆け出していた。
その瞳には何の曇りも迷いもなかった。つんのめりそうになりながらもその勢いが止まることはなかった。
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