没落令嬢は農業で成り上がる!〜転生教師の魔導農園改革〜

飴あめ

プロローグ:過労死と転生

(とある学校の職員室)




都市の夜景が窓の向こうに広がる。職員室には、蛍光灯の冷たい光だけが灯っていた。杉木大輔(30歳前後、疲れた目をした生物教師)は、コーヒーの空き缶を横に、山積みのレポートと向き合っていた。明日の実験授業の準備も半分終わっていない。




「……はあ」


ため息が自然と零れる。ふと視線が、職員室の隅にある空いたデスクへと向かう。あの席は、同僚の数学教師、中津が使っていたものだ。有能で真面目すぎた中津は、一ヶ月前、過労で倒れ、そのまま休職に追い込まれた。


「中津さん、ついに休職か……。あのままじゃまずいとは思ってたけど」


彼は眉をひそめ、こめかみを揉む。自身の心臓も、ここ数日、たまに嫌な鼓動を打つことがあった。


「僕も気をつけないと、って思いながらも……つい、『あと少し』が積み重なって、こうなるんだよな」


「好きでやってる仕事だけど……この忙しさは異常だ。給料に対する業務量の比率を計算したら、多分泣きたくなるやつだ」




そう呟き、再び赤ペンを握りしめようとした、その時だった。


ズドン。


まるで胸の内側から鈍器で殴られたような、強烈で重苦しい衝撃が走る。


「っ……!?」


視界が一瞬、雪ノイズのように揺らめく。手の力が抜け、握っていた赤ペンが床に転がり、赤いインクを飛び散らせる。


「あ……」


息が苦しい。肺が空気を求めているのに、ろくに吸い込めない。冷や汗が一気に噴き出し、額をつたう。


机にしがみつこうとするが、指先に力が入らない。


(な……んだ……これ……は……)


脳裏に、中津の憔悴しきった顔がちらつく。


(まさか……本当に……後を……追う……ように……なって……しまう……のか……)


(中津……さん……すま……ない……)




彼の体はゆっくりと机の上に崩れ落ちた。コーヒーの空き缶が倒れ、静かな室内に虚しい音を立てる。窓の外の輝く街の光は、冷たく、そして遠く感じられた。意識は深く、暗い海の底へと沈んでいった。




(転生の狭間)




深く、暗く、そして静かな海。


時という概念も、自分という存在も、そこにはない。


ただ、漂うだけ。


ふと、記憶の断片が、暗闇の中でゆらめくイルミネーションのように浮かび上がっては消える。


大学の研究室で、初めて自分の顕微鏡を覗いた時のワクワク。


採用が決まった日、飛び跳ねて喜ったこと。


教え子が「先生の授業、面白いです!」と言ってくれた時の、ちょっとした誇らしさ。


ふと、それらとは明らかに異質な、優しくもどこか悲しげな、女性の囁く声が混ざり合う。


「……お願い……います……」


「どうか……あの……人々……を……領地……を……」


「守って……ください……」


声は切実で、深い愛と諦念に満ちていた。


声に導かれるように、彼の意識は―むしろ、かつて杉木大輔であった何かは―淡い、温かな光の方へと引き寄せられていった。




(オルターナ邸寝室)




ふわり。


まるで水中から浮上するように、意識がゆっくりと戻ってきた。


まず感じたのは、驚くほど柔らかい寝床の感触と、どこからか漂ってくるかすかな古書と花の混ざったような匂いだった。


体がだるい。鉛のように重い。まぶたを開けるのも一苦労だ。


(……ここは……?)


ぼんやりと思考が働く。見知らぬ、高い天井。分厚いカーテン。由緒ありげだが、どこか寂びた趣のある調度品。


(病院……?いや……違う……)


違和感がこみ上げてくる。体の感覚がおかしい。視界の高さが違う。何より、体が軽すぎる……細すぎる。


もぞもぞと動かす自分の指先は、細くて白く、綺麗に手入れされている。ベッドに広がる髪は、見たこともないような長く艶やかなブロンドだ。


(な……に……?)


パニックがじわりと押し寄せる。混乱の中で、無意識に自分の新しい体を確認するように手を動かす。細い腕。なだらかな肩のライン。そして――


胸元に触れた。


……?


……お?


(これは……もしや……)


信じられないという気持ちと、生物教師としての冷静な観察眼が奇妙に混ざり合う。もう一度、慎重に、自分の――明らかに女性の――身体を確認する。


確かにそこにあるのは、かつての自分が密かに理想としていた、可憐で小ぶり、そして主張しすぎない、いわゆる「貧乳」の感触だった。


(あ……貧乳……?)


(いやいやいや!?転生とか、そういう状況で真っ先に確認することか、自分!? って……)


(でもまあ……その……個人的な、ごくごく個人的な趣味としては……これはこれで……悪く……ない……かも……)


(いや、何をぼんやり考えてるんだ!今はそんなことより、これは明らかに異常事態だろ――!)




この少し間の抜けた、ある種の脳の現実逃避とも言える内心の騒ぎは、理解を絶する状況に放り込まれた精神が必死に保とうとするバランスだった。


そして、そのわずかな緩衝時間を経て、圧倒的な現実が彼を直撃する。


見知らぬ部屋。見知らぬ体。全てが未知だ。


「……お目覚めでしょうか、ミレーヌお嬢様」


突然、低く渋く、しかしながらどこか気品を含んだ老年の男性的な声が、寝室の静寂を破った。


振り返れば、いつの間らずっとそこに立っていたように佇む、初老の執事風の男性。その眼差しは厳格そのものながら、深いところにわずかな哀れみのようなものも宿していた。


次の瞬間、杉木大輔としての人生、思考、常識は完全に打ち砕かれ、ミレーヌ・オルターナとしての苛酷な現実が、そのほんの少しばかり「希望の丘」を感じさせる身体と共に、幕を開けるのだった。




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