湖畔の人魚姫
@Marimo0924
序章
昔々あるところに――というのが日本における童話の典型的な書き出しだとするのなら、西洋の童話に見られる書き出しの定型文は何だろう。書き出しの形は物語の数だけ姿があれども、やはり、そこには誰がその物語の中心となるかが書かれているものだ。
例えば、こんな風に――
あるところに〈天使〉と呼ばれる歌姫がいました。
彼女の歌声はまさに天上の響き。彼女がその喉で音を奏でれば、声に乗せられた想いが聴く者の胸の内へと届き、否応なしに心へ響き渡るのです。
例えば、演目『人魚姫』でのこと、
人魚のお姫様が未だ知らない海の外へ抱く羨望を〈天使〉が歌えば――
聴く者の心には、クリスマスにサンタクロースの登場を待ち侘びる幼子のような、期待を想起させました。
人魚のお姫様が船頭に立つ王子様に寄せた初恋を〈天使〉が歌えば――
聴く者の心には、ジュリエットがロミオに抱いていたような、甘くそれでいて険しい恋慕の情を湧き起こしました。
人魚のお姫様が人間になれる秘薬を知った希望を〈天使〉が歌えば――
聴く者の心には、長らく暗雲の垂れこめた梅雨空に切れ間が入り晴天が顔を覗かせたような、一条の光を差し込ませました。
人間になったお姫様が王子様と共に過ごす幸福を〈天使〉が歌えば――
聴く者の心には、オリンピックで金メダルを獲得したアスリートのような、何物にも代え難い至上の充足感を奮起させました。
人間になったお姫様が王子様に選ばれない絶望を〈天使〉が歌えば――
聴く者の心には、震災で伸び上がった海原が津波となって住み慣れた街を飲み込む様を眺めるような、日常の崩落を出現させました。
人間になったお姫様がそれでも愛を貫いた決意を〈天使〉が歌えば――
聴く者の心には、未来を想いながら自らが爆弾となって敵艦に突撃する特攻隊のような、自分のいない明日を信じる覚悟を生み出しました。
〈天使〉の歌声で語られる『人魚姫』。この公演を最後まで見終えたものは皆、人魚のお姫様が最期に得た祝福をまるで自分が神から賜ったかのように感じることができました。
このように〈天使〉の歌声は、人々に、自分ではない誰かの想いを追想させ、その人生を自分が過ごしてきたかのように錯覚させるのでした。
そうした後、舞台に幕が降ろされると、聴衆は陶然とした余韻に包まれ、拍手を返すことも忘れて暗幕に消えたはずの〈天使〉の姿を見出そうとするのです。聴く者に栄光も挫折も、希望も絶望も与えることのできる〈天使〉の歌声は、地上の人々にとってまさに託宣と呼べるものでした。
このような経緯からも彼女は〈天使〉と呼ばれるようになったのです。歌唱の技術もさることながら、人の心、その意志に至るまでも染め上げる歌声をもつ彼女の存在は、預言者の再臨とまで称えられました。それこそ彼女が神であるかのように崇める者までいたほどです。
〈天使〉の存在とその歌声が持つ力は、瞬く間に世界中へと喧伝され、彼女の歌を聴きたいと望む者は後を絶たなくなりました。そうなると強欲な人間のことです、彼女の存在を私利私欲のために活用しようと近寄る者も出て来ましたが、そういった甘い呼び水に〈天使〉は一度たりとも喉を鳴らすことはありませんでした。
ただ歌う。地上の人々に自分の歌声を届けるために。
その気高い在り様に、人々は更に陶酔していくのでした。
けれど、ある時を境にして〈天使〉の歌はぱたりとやんでしまいます。
それまでいくつも執り行われていた公演が一切なくなり、人前に姿を現さなくなってしまったのです。
彼女の素性を知るものは誰もいません。ドイツを主な活動拠点としていることと、長い黒髪のまだ幼さの抜けきっていない女性であることは確かなのですが、それ以外には、人前では常にオペラマスクで顔を隠していることからその素顔を知る者すらいませんでした。
するともう、〈天使〉の居場所は誰にもわかりません。
幾千、幾万もの人が、〈天使〉を探しました。しかし、天岩戸に隠れた天照大御神とは違い、素性も素顔も知られていない彼女の居場所を探り当てることなど、幾十億もの藁の中から一本の針を見つけるようなものでした。
〈天使〉が消息を絶って早二ヶ月。未だに彼女の手掛かりを掴んだ者すらおりません。
今ではもう、存在だけでなく、あの歌声すらも幻だったのではないかと言い出す者もいます。
〈天使〉は一体どこへ行ったのか、それを知るのは姿をくらました本人だけなのでした。
――と、このように、物語めいた経緯で〈天使〉と呼ばれた少女は姿を消した。
だが知る者は指摘する。この冒頭は正しくない、と。
だって片手の指で数えられる程には舞台関係者の中に〈天使〉の素性を知る者は確かにいたのだ、誰もそれを口にはしなかっただけで。
だからこの冒頭の本当の末尾はこう結ばれる。
――〈天使〉は何故歌わなくなったのか、それを知るのは〈天使〉であるわたしだけでした。
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