第1章
第1話 【マヨイビト】
水曜日の2限、文学史。
教授が早口で捲し立てるシェイクスピアの悲劇は脳をすり抜けこぼれ落ちる。
昨日から混乱の坩堝と化している僕の脳内キャパシティはとうに限界を迎え、情報を少しでも整理するために昨夜のことをノートに書き起こしていた。
【スライム(仮)】
>サイズ:60cmくらい?
>形状:流動的
>色:薄い水色
>攻撃手段:飛びかかり
>倒し方:不明
>メモ:窒息注意、周りと違う変な感触
書き綴るのに疲れて顔を上げ、首をグッと伸ばしながら窓の外を眺める。
抜けるような青空が広がっている。
昨日あそこで見た空も、こんな風だった。
──空が青いってことは、一応地球のどこか…なのか……?
地球の空が青いのは、太陽光が大気にぶつかったとき、青色成分が最も拡散されるからだ。
だとすればスライム(仮)も僕が知らないだけで、あんな生き物が居るのだろうか?
クソデカアメーバ、みたいな?
──気になる。
異常に抑揚の効いたテンションの高い教授の話を聞き流しながら、僕は湧き上がる衝動を抑えきれずにいた。
口角が自然に吊り上がる。
久しく忘れていた子供のような好奇心が、恐怖心や警戒心を塗り替えていく。
僕がいつかに分岐を間違えたセーブデータを、力技で書き換えてくれるんじゃないか。そんな予感さえしていた。
◇◆
アパートに帰ったのは16時に差し掛かろうとする頃だった。
バイトも無く、普段ならレポートを終わらせてゲームに興じるのだが今日は違う。
部屋中をひっくりかえし、武器になりそうなものを探す。
だが一般大学生のアパートに剣や盾の様な冒険に気の利いた物があるワケもなく、辛うじて見つけたのは包丁とフライパンだ。
──こう見ると、調理器具って攻撃力
携行食料と水、それに包丁とフライパンを小ぶりなリュックに入れて肩に掛ける。
今日も、あのカビっぽい匂いはしている。
意を決してクローゼットの戸を開くと、昨日の焼き直しみたいにギイッと
少なくとも、疲れすぎて見た幻覚ではなかったらしい。
クローゼットは今日も繋がっていた。
「……元に戻らないと、不便だからね」
誰に言うでもない言い訳をこぼして、一歩踏み出す。
「っと」
足に伝わるヒヤリとした感覚で、靴を履き忘れていることに気付き、苦笑いしながら玄関に向かった。
◇◆
石造りの廃墟は、、昨夜と変わらぬ様子でそこにあった。
ふと、足に妙な感触を感じて足元に目を
手に取ってみると妙に冷たく、スベスベしていた。
昨夜のスライムの一部か何かだろうか。
「ん?」
謎の物体をビニール袋に入れてリュックの中に詰め込み顔を上げると、遠くに立ち上る灰色の煙が見えた。
──火事か、人か。
ザワつく心に従って、僕は煙の見えた方角へ歩くことにした。
◇◆
雑草を踏みしめ周囲を警戒しながら歩くこと数十分、周囲には木が増えて草原と言うより森といった様子だ。
その木々の隙間に、古びた木造の小屋が見えてくる。
どうやら煙の出どころは、その小屋の煙突だったらしい。
周囲には鋭く研がれた木の柵が張り巡らされ、野生動物の侵入を防ぐバリケードのようになっている。
その柵の間を通り、小屋の扉の前に立って深呼吸をする。
意を決してノックしようとした、その時だった。
「誰だ」
背後から、低い声が響いた。
「おわぁ!?」
不意の出来事に、情けない声が漏れてしまう。
「変わった身なりだな。異国の者か?」
ゆっくりと振り向くと、そこには
歳は50前後だろうか。
日本語を喋ってはいるが、彫りの深い顔立ちも相まって、どうも日本人には見えない。
麻の荒い服の上に、使い込まれているのだろうレザーアーマーを纏っている。
左手には手斧と、腰には大振りのナイフがそれぞれ存在感を放っている。
「異国と言うか、そうですね、説明は難しいのですが……」
あまりの威圧感に口ごもってしまう。
男はそんな僕の全身を上から下までジロリと値踏みするように見て、フッと息を吐いた。
「ふぅん、言葉は分かるようだな。……武器は?」
「あ、えっと包丁と、フライパンくらいしか」
隠すほうが状況が悪化しそうだと判断して、リュックから2つを取り出す。
「ほぅ。変わったナイフだな」
男は包丁を見てそう言い、目を細めた。
「オレはゴレフ、木こりのゴレフだ。立ち話も何だ、
すっかり警戒が解かれたのか、僕へ向けられる目線は
──悪い人では、なさそうかな。
何の根拠もないが、そう感じた。
◇◆
ゴレフと名乗った男は小屋に入ると、硬いパンと温かいスープを出してくれた。
グゥゥ……
と腹が鳴った僕の腹にゴレフがガハハと豪快に笑う。
「で、ニィちゃん何モンだ?盗賊崩れってワケでも無さそうだが……」
ひとしきり笑ってから、そんな問いを投げかけてくる。
自分が何者か、という哲学を問われているのでは無いだろうし答えはシンプルだ。
「
僕の答えに納得が行かなかったのか、ゴレフは首を
「学生?貴族にゃぁ見えねぇが……嘘を吐いてるって顔でもねぇな」
怪訝な顔をしつつも刃物を置きレザーアーマーを脱いでドッカリと椅子に腰掛けた。
学生から連想されるのが貴族。
少なくとも現代日本の価値観ではない。
「すみません、僕からも1つ」
硬いパンを手でちぎりながらゴレフの方を見る。
「おうよ」
彼は慣れた手つきでナイフの刃を革で擦りながら、僕の方を見てニヤリと笑う。
「なんでも来い」といった様子だ。
見た目こそ厳ついが、見知らぬ僕に食事を出してくれていることと言い、優しい人なのだろう。
「……ここは、どこですか?」
日本語は通じる。
だが、価値観にはズレがある。
薄ぼんやりと僕の頭の中に浮かんでいた予感が1つ、輪郭を形作りつつあった。
「ん?あぁ、ニィちゃんマヨイビトか。ここはヤポナ大陸にあるエウセッカ王国の端も端、ナカン村の外れよ」
知らない大陸の知らない国の知らない村の外れということが分かった。
つまり、何も分からないって事だ。
でも、だからこそ気付いたことがある。
──ここは、地球上のどこでもない。
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