異世界地面師 ~契約一枚で魔王城を奪う~
六堂ひろ
第1話 契約の始まり
昨夜、東方の要である要塞都市エルヴァーンは陥落した。
人類の盾とまで呼ばれた城壁は、六邪神の一角――破滅のレイズの前では土くれにすぎなかった。
漆黒の甲冑に包まれた巨躯、握るは灼熱の大剣。
振り下ろされるたび、街は裂け、塔は崩れ、兵も民も血煙に変わった。
その姿は災厄そのものであり、誰も抗う術を持たなかった。
夜が明けても炎は消えず、広場は絶望と沈黙に覆われていた。
そこに、一人の人間が歩み出る。
黒い外套に身を包み、手にしているのは剣でも杖でもなく――紙束と羽ペン。
その異様な姿に、民衆は息を呑む。
まともな兵ですら逃げ出した怪物に、紙切れで立ち向かおうというのか。
だが、男――サイラスは崩れた長机に羊皮紙を広げ、冷ややかな瞳を城主へと向けた。
「……城主殿。」
呼ばれた城主は煤にまみれ、剣を握る手を震わせながらも、背筋を伸ばしたまま立っていた。
背後には泣き崩れる兵と市民。
前方には大地を焦がす破滅のレイズ。
それでも城主は民を見捨てぬ勇を湛えていた。
「ここに署名をしていただきたい。」
サイラスは柔らかく、まるで夜会で恋文を差し出すかのように紙を差し出す。
声は甘美で、優しく、絶望に沈む者には抗いがたい響きを持っていた。
城主は剣を握り直し、目を細める。
「どういうことだ? それで一体、何が変わるというのだ?」
サイラスは首を傾げ、静かに微笑む。
「あなたに代わり、私がこの城と民を守ります。目の前の魔族の将軍も退けましょう。信じるかどうかは、あなた次第です。だが――名を刻まなければ、この都市は灰になる。」
城主は息を整え、低く答えた。
「勇敢なる旅人よ。見たところ、君は戦士でも魔法使いでもない。あの魔族は、魔王直属の六邪神――破滅のレイズ。歴戦の騎士団ですら屍となり、エルフの大賢者でさえ彼の刃を退けられなかった。剣も魔法も持たぬ君に、一体何ができる?」
サイラスは羊皮紙を撫で、声を潜めて告げた。
「魔族を退ける手段が、力だけだと思っているのなら、それは思い込みにすぎません。剣にも魔法にも劣らぬ、もうひとつの力――契約がある。」
城主の眼差しが揺らいだ。
彼は愚かではない。だからこそ、虚妄にも似たその言葉が、逆に真実味を帯びて胸を打った。
「……本当に、この署名で都市が救われるのか?」
「ええ。」
サイラスは甘く頷いた。
「ただし――選ぶのはあなた自身です。私は強制しない。」
広場に沈黙が落ちる。
やがて城主は剣を落とし、震える指で羽ペンを取った。
羊皮紙には、端正な文字でこう記されていた。
―〈この要塞都市エルヴァーンの所有権は、以下に記す者へ帰属する〉
城主は迷いながらも、最後には民のすすり泣きを背にして署名した。
その瞬間。
空気がざわめき、広場に重い圧力が走った。
見えぬ鎖が街を覆い、赤黒い炎が掻き消え、崩れかけた塔が震えながら立ち直る。
「……人間どもが、何か謀を弄しているようだな。」
地鳴りのような声と共に、破滅のレイズが姿を現した。
漆黒の甲冑が月光を吸い込み、灼熱の大剣が空気を焦がす。
「だが、この破滅のレイズの前では、謀など無力!」
地を砕きながら巨体が躍り出る。
大剣が振り下ろされ、兵を薙ぎ、城主とサイラスを両断しようと迫った。
だが――刃は空を切った。
レイズの巨体が見えぬ鎖に絡め取られ、動きが封じられる。
黒い瘴気が迸り、彼の叫びが響き渡った。
「ば、馬鹿な……! 我は六邪神の一角……!人間の紙束ごときに、縛られるなど……!」
鎖は甲冑を軋ませ、巨躯を押し潰し、灼熱の剣ごと彼を打ち倒す。
やがて轟音と共に闇へ吹き飛ばされ、その姿は掻き消えた。
静寂。
次の瞬間、広場に歓声が爆発する。
「救世主だ!」
「神が遣わした人だ!」
城主は膝をつき、署名した羊皮紙を見て青ざめた。
―〈所有者:サイラス〉
「……私は、自らの手で……」
都市を明け渡してしまったのだ。
サイラスは紙を掲げ、冷ややかに告げる。
「契約は絶対だ。あなた自身が望んで署名したのだから。」
歓喜と絶望が交錯する広場で、サイラスの口元だけが愉悦にわずかに歪んでいた。
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