第4話「合言葉は三つで足りる」
午前十時。
川沿いのベンチに、私は“点の入ったノート”のURLを貼った付箋を挟んだまま座っていた。風は乾いて、影は短い。Rは五分遅れてやってきて、着くなり指で空を指す。
「雲、注釈だらけ」
「“ここで止まった跡”がいっぱいってこと?」
「そう。午前の空は、だいたい受験生みたいに余白が多い」
よくわからない例えに笑って、私はスマホを取り出す。運営から昨夜、短い告知が出ていた。**“承認は本人端末のみ”**の仕様が、正式に明文化されたらしい。
「世界が一ミリ、優しくなった?」
「ミリは侮れない。千回でメートル」
「千回も恋、更新するつもり?」
「更新の単位は恋じゃなくて、今日」
昼前、ベンチの背で燕が休んで、真横のポールに市の防災スピーカーが付いているのに気づく。12:00になったら、あの音が落ちるのだろう。
「今日の予定は?」
「二つ。合言葉の再点検と、映画祭の下見」
「合言葉、三つで足りる?」
「たぶん足りる。増やしすぎると、**“忘れたときの言い訳”が増える」
「言い訳のためにルールは作らない」
「作らない」
私たちは声に出して、三つの合言葉を確認する。
「23:58」
「注釈のある本」
「第四条は君が決める」
唱和したあと、Rが付け足すように言う。
「“理由を一言添える”**は、名前の前の合言葉でもある」
「前置き呪文」
そこへ、スマホが震えた。知らない番号。
通話ボタンが光る。Rが顎で「出る?」と合図。私はスピーカーに切り替え、短く名乗る。
「n7さんでしょうか。運営の新井と申します」
昨夜の男性と名前が違う。
「昨日は佐伯さんでしたよね」
「あ、はい。佐伯は開発、私はサポートです。本日は“対面でのアンケート”をお願いできればと――」
Rが手のひらを上げる。声を出す前に、指で数字の3を作った。私はうなずく。
「ではひとつ確認。“合言葉は三つで足りますか?”」
受話口の向こうで、わずかな間。
「合言葉……?」
Rが口の前で小さく**×を作った。
「すみません、今日は予定があります。アンケートはオンラインでお願いします」
切ったあと、私の心臓がもう一段階早く打つ。
「偶然か、なりすましか」
「どっちでも、“いまは出ない”の判断、よかった」
Rは腕時計のベルトを指で弾いて、音を一つ作る。
「第七条、正式化しよっか」
「“名前の入口に置くのは一日一画。送信しない”」
「に加えて、“合言葉は三つから増やさない**”。忘れた日は、ゼロに戻す」
「ゼロ?」
「“23:58”だけに戻す。ひとつだけなら、取りこぼさない」
私は息を飲む。三つの鍵束を、一本に戻せる道。緊張と、すこしの安心。
「第七条、いい」
昼、私たちは河川敷の映画祭の会場を下見する。白いスクリーンは組み立て途中で、骨組みが空の色を透かしていた。
「ここ、風が曲がるね」
「曲がる?」
「川面で撥ねた風が、スクリーンの右下に**“たゆみ”を作る。泣く人の喉ぼとけみたいな」
変な比喩に、また笑ってしまう。
会場スタッフに混ざって、社員証を外した佐伯さんが立っていた。昨日の、あの人。目が合うと、彼は深く頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
「世界がミリよくなった件?」
「はい。……それと、今朝“サポートの新井”を名乗る外部からの問い合わせが、二件ありまして。もし何か電話があったら“連絡しました”と伝えてください」
私はRを見る。Rは、うん、と小さく頷くだけ。
「新井さんは実在**?」
「実在します。ただ、本人の発信ではない。番号の表示に気をつけてください。運営からの通話は050の内線で始まります」
「050、覚えた」
佐伯さんは、安堵と少しの罪悪感の混じった顔で笑った。「ドリンク券、また二枚――」
「受け取るけど、飲みすぎてトイレ行ってる間に“承認時間”を逃したら、責任取ってくれる?」
「23:58だけは、どんな喉の渇きより優先で」
私が冗談を返すと、佐伯さんはうれしそうに「それ、社訓にしたい」と言って去った。
午後三時。
会場の端で、私はメモに**“今日を優しくする手順”**を三つ書き足す。
・知らない番号には、まず“三つで足りる?”と返す。
・050以外の運営は、すぐ切る。
・鍵は増やしすぎない。
「チェックリストの恋、着々と面倒くさくなってる」
「面倒くさいは、未来の自分への優しさに変換できる」
「翻訳アプリ?」
「“面倒くさい→守られたい”」
Rの言い方が、やけにうまい。私は“守られたい”の四文字を胸ポケットにしまい込む。
夕方、風向きが変わる。空の注釈が増えて、雲の端がちぎれて流れていく。
「23:30までに“今日の終わり方”、何にする?」
「今日は、“ここで手を振る”」
「ラストが“手を振るだけ”の映画と同じ?」
「同じ。練習」
「じゃあ、手を振る前に一言だけ付ける。“理由”」
「“いま、嬉しすぎるから”」
「採用」
私たちは武骨な骨組みの前で、誰もいない観客席に向かって、小さく手を振る練習をした。
遠くに振る手は、控えめで、なのに胸の奥まで届く。
その帰り道、再びスマホが震えた。今度は050で始まる番号。
「出る?」とR。
「出る。スピーカーで」
通話の向こうは、落ち着いた女性の声。
「運営の新井です。先ほど、“新井を名乗る者”からの連絡があったと伺いました」
「はい。合言葉の話をしたら、引きました」
「ありがとうございます。社内で回覧にします。最後にご本人確認だけ——」
Rが指で合図を送る。“四”。
私は頷きかけて、首を振った。
「確認は不要です。承認は“私の端末だけ”。それだけ守れれば十分」
一拍の静寂。
新井さんは、息を小さく吐いたあとで言った。
「おっしゃるとおりです。三つで足りる、ですね」
通話を切る。
川の風が、少しだけ冷たくなる。
Rが小声で言う。
「いま、誇らしいから」
「なにが?」
「君が、自分の明日を持ってること」
名前の前に添えられた、理由の言い方。言葉の温度が、ゆっくり伝わってくる。
夜。
23:18。
机に向かい、私は“今日の終わり方”を打つ。
・23:30に、ここで手を振る。理由は“いま、嬉しすぎるから”。
・写真は、今日は“見ない”。
・合言葉は三つで足りる。忘れたら、23:58だけに戻す。
打ち終えると、Rから一行。
〈第七条、正式化〉
続けて、もう一行。
〈第八条。“合言葉は三つで足りる。忘れたら23:58だけに戻す”〉
〈採択〉
私はスマホを置き、ベランダの窓を少しだけ開ける。遠くで、練習中のサックスの音。誰かの音階が、一度だけ外れる。
23:30。
私はカメラを自分に向け、小さく手を振る。画面の隅に、Rから同じ動きの小さな動画が届く。
送信ボタンを押す前に、私は一言だけ添えた。
“いま、嬉しすぎるから”。
送る。
静かになる。
23:58になっても、今日は写真を開かない。
合言葉が三つだけ胸に灯って、夜の長さをちょうどよくする。
点のままの“な”は、明日も入口で待っている。
――――
次の24hの条件(宣言):
手は繋ぐ、キスはしない。
“今日の自分”に嘘をつかない。
写真は一枚。23:58にもう一度見る(見なくてもいい)。
承認ボタンは私の端末だけ。
君が泣きそうなとき、理由を一言添えて“名前で呼ぶ”。
23:30までに“今日の終わり方”を決めて共有。
“名前の入口”は一日一画。送信しない。
合言葉は三つで足りる。忘れたら“23:58”だけに戻す。
**★読了ありがとうございます。**評価・ブクマが次話の燃料です。
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