本論3:不存在の方程式
前までは短い黒髪の中性的な容貌だった。本当にどちらの性別かわからなくなるぐらいに中性。見た目だけで言うならば、僕にとってそれは何の違和感のない人間の姿だった。町中ですれ違っても全く記憶に残らない、そんなインパクトのない自然体。
だが、今見えている姿は違う。僕はこの姿を見て振り向かずにはいられないだろう。艶やかな長い黒髪、泣き黒子が大人っぽさを見せる大人びた顔、白衣の胸元を押し上げる縦縞セーターの大きな胸、タイトなスカートからはみ出ている肉厚な太もも。
ぶっちゃけ言うと性癖ドストライク。気をしっかりと保たないと魅了を飛び越して発情してしまいかねない。異性に耐性のない僕にとっては抗いがたい誘惑だ。
どうしてこう見えているのかは分からない。この人に別れを告げ、もう二度と会わないと決心してからこうなった気がする。
「さぁて、お待たせしたねぇアンジくん! 君が意地を張っている間寂しくて仕方がなかったよ! 君はどうだい? 私に会えなくって辛かったんじゃないかい?」
身振り手振りを加え、教授はこちらに熱烈なラブコールを掛けてくる。
「……」
(えー……この人こんなテンションだったっけ……)
テンションもさることながら、僕への好感度もそうだ。僕は基本的に教授に対して生意気に反抗して逆張りばかりしていた気がするのだが……どこでこんな好感度上げのフラグを踏んでいた?
「さぁ、語り合おう! 君も私も長く離れていたわけではないが話すべきことがたくさん溜まっているはずだ!」
(ていうか、キツイ。この年で年上のお姉さんからベッタベタの好意を受けるのはものすごく……こそばゆいっ!)
理想の女の人が僕に好意的なのは、それはそれは嬉しいことなのだが、素直な愛というものを長らく受け取っていなかった僕にとっては劇薬になりうる行為だ。
危うく好きになってしまいそうになるからやめてほしい。中身が教授だと、性別不明の邪神だとわかっていても、心がぐわんぐわんと音を立てて揺さぶられる。
「……なぁ、あのエキセントリックなお方は?」
「信じられないかもしれないですけども、教授です」
この人にはどう見えているのだろうか。どう見えていようが、あの大げさな話し方はかなりシュールに思えて仕方がないはずだ。少なくとも教授職の人には見えないだろう。
最悪の場合、変質者として逮捕されてしまうかもしれない。
「あぁ、教授か……」
だが、彼女はあっさり受け入れて——立ち上がって禁地教授の方へと向かった。
「まだそんな姿で生徒を誑かしているのだな……先生」
「おおっと、アカネくん。君は無事警察に入れたんだねぇ……それにいい地位にいると見た。教え子の成長は教育者にとって最上の喜びだよ」
並々ならぬ空気と感情の波が漂ってくる。警部はただでさえ鋭い目を細めながら教授を睨みつけている。教授の方は……いつものように薄ら笑いだ。
だが、警部が放っているのは決して憎しみ一辺倒ではなかった。そこには確かに感謝と親しみが込められている。
あぁ、なんだか察せるなぁこの二人の関係……
「さて、私は強烈なキャラ付けのために早めの到着をしたのだが、実はあまり事情は把握できていなんだ。だから本来なら人に教えるべき立場であるこの無知な教授に教えてくれたまえ。現『私の生徒』を刑事で囲ってまでしたい調査がある——この事件はそうするに足る何かがあるというわけなんだな?」
「……」
警部は動じない。だが、周りの刑事たちはざわざわと落ち着きを失い始める。
『私の生徒に不当な捜査をしていたのなら……わかるな』。言外にそう圧をかけていた。軽薄な表情を浮かべながらよくもまぁここまでのプレッシャーを放てるものだ。
さすがに可哀そうだと思った僕は助け舟を出した。
「いや、教授。僕が悪いんです。ちょっと、僕がなかなか白状しなかったせいで……」
「ほう! 君が口籠るなんて……あぁ、知らない人に囲まれて緊張してしまったんだねぇ」
目にも止まらぬ速さで、教授はいつの間にか僕の席の前まで迫っていた。警部も目で追いきれずに大層驚いていたようだ。
「はぁ……可哀そうに、こんなに震えてしまって。信じていた飼い主に裏切られて洗われ、悔しさと寒さでぷるぷると震える子猫の様だ……よしよし」
頭を撫でられ、本当に小動物に接するように両の掌で頬を包まれる。
めちゃくちゃいい匂いがする……普段暮らしていて絶対に嗅ぐことのない、香しい香り……悔しいが堕ちそうだ。
「……って教授、諸々わかっててやってますよね。今の状況とか、自分がどう見えているのかとか」
「ん~お姉さん、何の変哲もない悩殺ボンバーお姉さんだからなぁ~よくわかんな~い」
「っ……」
この弄ばれている感が嫌いじゃない僕が心のどこかにいるのが腹立たしい。
「というわけでこの一件は私持ちということでよろしくお願いしまぁす。では失礼」
僕の手を無理やり引いてここを去ろうとする。向こうが軟禁の条件を満たしていたとしたら、こちらは拉致・誘拐だ。
「……」
「おっとアカネくん」
しかし、警部はそれを許さない。教室のドアの前で腕を組み、立ちふさがった。そして何も言わずじとっとこちらを睨みつけてくる。
「なに、心配することはない。実はこうなることを見越して既に君の上司に伝達はしてある。恙なく引継ぎできる」
「……はぁ、相も変わらず」
呆れて警部は横に移動してしまった。もう少し粘って欲しかったが、この人の前では無理か。
この人の言葉を正面から受け止めたくはない。ぬりかべだって慌てて道を譲るはずだ。
「……少年」
「?」
「頑張れよ」
それは単なる激励ではないのは、感情を読まなくたって分かることだった。
■■
「ふむ。ではのっぺらぼうを見て気を失い、その時に私が電車で君に夢に関する注意を促す夢を見た。そしたら実際に原典に近い『猿夢』を見てしまい、巻き添えで一人死んでしまったと……」
僕は業田・憐華さんペアの相談から今に至るまでを研究室で簡潔に話した。ようやくこの一連のはちゃめちゃな怪奇現象に解説がつくのかと思うと胸のつかえがとれたような爽やかな気持ちになる。
「このアホみたいに行列汲んでやってきた怪奇現象たちは一体何なのでしょうか」
「……うーん」
おや。またいつものように意気揚々と講義を始めるかと思ったのだが、本気で悩み始めてしまった。
「らしくないですね、教授」
らしくない、と言っても見た目が大幅に変わっているくらいだし、禁地花太郎教授らしさとは一体何なのだと聞かれたら困るのだが。
ひょっとしたら見た目が変わったことによって教授の中身にも何らかの変化があるのだろうか。
「う~ん……とりあえず、前半部分は忘れてくれたまえ」
「前半部分? どこまでです?」
「『のっぺらぼう』と出くわして気絶する辺りまではカット。今回の相談では取り扱わない」
「え……ええぇぇっ! 『のっぺらぼう』とか『テケテケ』とか『怪電波』とか謎の人形とか、僕はそっちの方が本筋だと思っていたんですけども!」
「あぁ、すまない。本当にすまない。これはもう終わっている事案だ。だから非常に優先度が低いんだ……これについて話すのは後」
晴れない、もやもやが。今回、前言を撤回して教授に頼ろうと思ったのはこの事件があったからだ。『猿夢』の事件は後から割って入ってきた乱入者でしかない。
それにしても、解決しているだと? 誰が、どうやって? 教授がやったのか?
「解決しているのなら教えてくださいよ。パパっと」
「いいや。あの事案について話している間に眠られては困る——もちろん、そんな退屈な語りにはしないつもりだがね、しかし念には念を入れて、だ」
「えー」
「えー、じゃない。『猿夢』はしつこいだろ? 一回逃れてももう一回やってきて、その時に逃げても『次で最後だ』と脅してくるぐらいだからな。見たら最後、死ぬまで付きまとってくるし対処法はない。故にかなり強力な怪異だ」
「でも、一回目と二回目ってかなりラグがあるはずじゃないですか?」
「そうかもしれないな。だが君はかなり乱暴なやり方で突破している。イレギュラーな後回しをしているのにイレギュラーなしっぺ返しがないとは言えないだろう? それに私も今回の『猿夢』はイレギュラーすぎてよくわかっていないんだ。本来ならその者の単位が危うくなることを予告する程度の、危険度なんてまったくない都市伝説だったはずなんだ」
「でも教授。夢の中で会った教授は今回の事件について何もかも知っている風でしたけども」
「それも分からない。私は君の夢に侵入した憶えはないぞ」
「え? 僕はてっきり、何かしらの妖術で僕の夢にやってきたんだとばかり……」
それがあったからこそ、あの早めのタイミングで登場したのだとばかり思っていたのだが。
「違う。ただ、妙なことがあったから予知できただけだ」
「妙なことって何ですか」
この世に教授が妙に感じるようなことがあるのか……教授が世界で一番妙な存在で、それと比べるとこの世の全ての不思議ごとは茶飯事になってしまうと思っていたのだが。
教授はあのポインターを取り出した。僕が夢の中で受け取ったものだ。
「『
「ほら、って言われても僕には理解できない図形が理解できない動きをしているだけなんですが」
シューティングゲームの最高難易度の弾幕だと言われた方がまだ納得できる。燐光に浮かび上がるホログラムの立体映像はそれほどまでに理解不能なものだった。
「これによると、数十分前——大体事件が起こった辺りだな——君が『指差し確認』を使ったことになっている。私は一度も手放していないのにだ。しかも座標がこの世にない所だと言われたら妙に思うのも仕方のないことだろう。それを受けてとりあえずあの時間君が受けているであろう授業を調べて向かっていたんだ」
「はぁ。そうなると、教授と『指差し確認』が分裂して僕の夢の中に現れたことに……しかも教授の意思とは無関係で」
「君に利があるように動いてくれたからよかったが、かなりの異常事態だ。それで現場についてみると、生徒はざわついていて教室は封鎖、さらには警官が配備されている。あの時はやばいと思ったね、君が死んだかと思ったよ。そしたら君からメッセージが届いていたんでつい歓喜を抑えきれずに突入してしまったんだ」
だからあんなテンションだったのか。
「さて、偽私のことはおいておこう。その者が敵か味方かは分からないが、まずは『猿夢』の対処だ」
「……そもそもどうして『猿夢』は凶暴化したんですか?」
「分からない。本来なら人々の認識が変わることなく怪異の形が変わることなどありえないのだから」
「え? はい? え? 人々の認識って……『噂』ってことですか?」
唐突に高度な話に突入してしまった。僕は困惑して考え込んでしまう。
「……あーそうか、前回は『コトリバコ』だったな。いいか、前回のは『怪異』じゃないと思ってくれ。あれは拳銃を使ったテロみたいなものだ。実際の技術が用いられ行われたかなり実際的な事案だった。だがな、『猿夢』もそうだが、本物の『怪異』っていうのはもっと不確かなものなんだよ」
と、ここで教授はまた何かを取り出した。それは紙で作られた箱——いつか講義で使っていた箱だ。
「君はこの箱の中に何が入っていると思う?」
指先で摘ままれた箱は振られる。何の音もしない。だから多分何も入っていない。
「いつか言っていたブラックボックスってやつですか? 僕は何も入っていないと思いますけども」
「正解。何も入っていない。振っても音はしないし、重さはない、何よりも私自身が何も入れていないと知っているからね——ではこっちは?」
次に取り出したのは、あの寄木細工の箱。確か小指と言っていたか。今度は壁が厚くなったせいか中に何があるか想像がしにくくなった。
だけれどもあれには確か呪いが吸い込まれていったはず。ブラックホールのような何かによって。
「……あれ? 何も見えない」
今の僕にはあの呪いが中に入っていればそれを感じ取れるはずであった。しかし、それを感じ取ることはできない。あの箱の中からは何も感じ取れなかった。
箱が厚いのか、それとももう何も入っていないのか。
「——とまあ、この世には誰も知覚できない箇所が存在する。この箱の中身は今の私にも分からない。開けることも容易にできない。この箱の中身は世界から断絶されてしまっている」
「本物のブラックボックス……っていうことですか?」
「そう。しかし、中を想像することはできる。前に呪いを吸い込んだのだから呪いが入っているはずだ、とかね」
「僕もそう思っていました」
「だが、君はこの中から何も感じられないから何もないのだと結論を出した。それがなければ呪いはこの中に入っていたかもしれないな」
「……?」
「この世にはそんな不可知な領域が存在する。いや、この世のほとんどは不可知な領域なのだ! 誰も見ていない空間があちらこちらに存在する。我々は今向こうの九号館で何が行われているかを知ってはいないし、隣の研究室がどうなっているかも分からない。だが、大体想像できるだろう、空の部屋がそこに在るか、もしくは授業が行われているか」
頭の中で想像してみる。向こうの九号館では普通に授業が行われているだろうし、行われていない教室も電気が消えたまま静かにそこに在るだけだろう。
「じゃあ、夜の九号館はどうだろうか」
「ん。それは……」
廊下の蛍光灯は点いているが、教室は暗く、響くのは自分の足音のみだというくらいに空っぽな空間だ……
「だけども、もしかしたら……いるかもしれない」
脳内のシミュレーションは途中まで正常に行われていた——だが、突然ノイズが入り、廊下に誰かが立っていた。
それは人。だが、シルエットはそうであっても、顔の表面には何もない——『のっぺらぼう』だ。
「そうだ。人は不可知の領域を埋めようとするが、時たま雑念が入る。夜の恐ろしさだとか静寂の心細さ、それらがそこに何かいるのではないかという予測を立てる。恐怖という結果が記されたブラックボックスに何故恐ろしいのかという理由を探るための方程式が埋め込まれる」
「それが——怪異」
「そして案外世界とは人の感覚を基盤にしている不確かなものでね、多くの人がそう予測立てると、それは真実になってしまうのだよ。不可知の領域という混沌めいた空間に型がはめ込まれ、現出する。だから『怪異』とは『噂』から生まれるんだ。『怪異』から『噂』が生まれるわけではないんだよ」
およそ信じられない話だった。そんな馬鹿な話があるだろうか。
世界は確かにそこに在る。あらかじめそこに在って、見ていようが見ていなかろうがもう決まった通りに動いている。そのはずだ。
「そりゃあ、大抵の人はそう思っているからね。普通に思っていれば普通なんだよこの世界は。ただ、この大学は『噂』が多く広まり信じられている。混沌の領域から『怪異』が生まれやすいんだ」
「……でも、じゃあ、『猿夢』は……」
「そう、今現在、というかさっきまで『猿夢』に人に実害を与える『噂』なんてなかった。本来なら皆が思っている通りに『怪異』は存在するはずだった——だが、何故か世界の歪みがさらによくわからない方向に歪み始めてしまっているんだ。多くの人は何も思っていないというのに」
「じゃあ、なんであんなことになってしまったんですか!?」
「何者か——恐らく少し多めの人数が所属している組織が、『噂』以上に大きな信念をもって『猿夢』を召喚しようとしている。今の所そうとしか考えられない」
どうしてわざわざ『猿夢』なんていう危険な『怪異』を召喚する団体が出てくるんだ。
そんなの……
「そんなの、狂っていますよ」
「あぁ、そうだ。だが君も知っているはずだ、人なんて簡単に狂えるんだ」
「……」
右手が疼く。あの日の思い出したくない感覚が蘇ってくる。
「……さて、そんな話は置いておこう。これが『怪異』の基礎知識だ」
そう言って教授はまた『指差し確認』を取り出す。
「……教授、何をするつもりですか?」
「『猿夢』に殺されないための対策だ。最終的にしなければならないのはその謎の組織の根絶なのだが、応急処置として君の『猿夢』のタイムリミットを延ばさねばならないんだ。君の命もそうだが、後に続く者の命も助けねばなるまい」
もう一人の犠牲者は出てしまっている。そしてそれが前の車両にいて次のターゲットが僕だというなら、その次のターゲットは必然的に僕の後ろの車両にいることになる。
この『怪異』は連続している。どうにか食い止めなければならないのだ。
「でも、どうやってですか。『猿夢』の対策なんてないですよね?」
「まぁ、ないんだが。しかし、要するに猿に殺されなければいいんだろう? 君がそうしたように」
「確かに退治してまた『指差し確認』使えば時間は稼げそうですけども」
「ならしよう。確実な駆除を」
そう言って教授は『指差し確認』を僕に向けた。
「……で、何をするつもりなんですか?」
「君になら通じると思うんだが……「精神と時の部屋」って知ってる?」
「え、ちょ! 待っ——」
無慈悲にもスイッチが押され、燐光が僕に向けて放たれる。
意識が遠のく中、「あぁ修行パートの始まりなのだな」と絶望的な気分で夢の中へと沈んでいくのだった。
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