ピュアレス -銀髪のゴーストと、偽りの太陽-
はらぺこ僧侶
第1話『机の「U」と、計算された視線』
五月の朝。路線バスの硬いシートに身を沈め、窓ガラスにそっと頬を寄せる。自分の体温でじんわりと曇ったガラスに、意味もなく指で円を描いては消していく。泡のように生まれ、儚く消えていくその模様は、まるで私の人生そのものだ。何度もリセットを繰り返してきた転校生活そのもののようで、胸の奥が小さく軋んだ。
外の空気はまだ肌寒く、車窓の向こうでは淡いピンクの桜が最後の力を振り絞るように春風に揺れている。真新しい制服の硬い襟が首筋に馴染まない。「五度目だ」と心の中で小さく数える。小学校で二回、中学で二回、そして今日、高校に入学してたった一ヶ月での、五度目の「初めまして」。指を折って数えても、この胸のざわめきは消えない。むしろ鋭利な現実味を帯びて、じわじわと私を追い詰めてくる。
「高校入って一ヶ月で転校ってさ、よっぽどだよね」
「なんかワケありなのかな」
好奇心と無邪気な残酷さが混じった囁き声が、鼓膜を薄く刺す。きっと私のことだ。でも、私は平気なふりをする。感情を殺し、窓の外へ視線を逃がすのが、この五年で身につけた唯一の特技だった。
坂道を一歩ずつ登る。アスファルトに散った花びらが、ローファーの縁をカサリと滑っていく感触だけが生々しい。ここには、私を知る人は一人もいない。それは息苦しいほどの解放感であり、同時に足元が崩れ落ちるような不安でもあった。誰にも見つからずに風景に溶け込めたらいいと願う気持ちと、誰か一人でいいから「ここにいるよ」と気づいてほしいと願う矛盾。その間で心が引き裂かれるような、もう慣れたはずの痛み。
昇降口で新しい上履きに足を入れる。人に期待しない。心を分厚い壁で閉ざす。傷つかないための術は、とうに学んだはずだ。それでも「もしかしたら、今度こそは」と、心の隅で懲りない期待が小さな芽を出すのを、どうしても止められない。
一年一組。木の扉の蝶番がキイッと軋む音を立てて開いた瞬間、張り詰めていた糸がわずかに緩んだ。教室のドアの前で一度、浅く息を吸い込む。覚悟を決めて、足を踏み入れた。
割り当てられたのは、窓際最後列。まぶしいほどの光が射し込む、まるで舞台の隅のような席だった。クラス全員の視線が、値踏みするように、あるいは異物を観察するように、一斉に私に突き刺さる。その視線の網をくぐり抜け、自分の席へと歩く。硬直した指先で、そっと鞄を机の横にかけた。その時だった。
机の木目の隅。そこに、小さく、しかし確かな意志をもって彫られたアルファベットが息づいていた。
「U」
何度も、何度もなぞられたのだろう。微かに歪みながらも、その線には奇妙なほどの執念が宿っている。ただの落書きにしては、あまりに整っていて、まるで誰かの魂の一部がここに刻みつけられているかのようだった。なぜか、その一文字だけが私の心に鋭く引っかかった。
「えっと……今日、転校してきました、…です。昔から“ぺこ”って呼ばれてます。よろしくお願いします」
練習した通りに口にした自己紹介は、自分でも分かるくらい上ずっていた。一瞬の沈黙の後、教室に数人のくすくすという笑いが漏れる。その笑いは思っていたよりも優しくて、私の心の壁にほんの少しだけ、小さなヒビが入った気がした。
最初の休み時間。ノートに意味のない線を引くふりをしながら、息を潜めて周りの様子をうかがう。誰も私には話しかけてこない。楽しそうな声の輪が、いくつもできている。私はその輪の外側にいる、透明な存在だ。寂しさに慣れているはずなのに、胸がちくりと痛んだ。
その時だった。前の席の男子が、椅子ごとこちらを振り向いたのは。
「転校生……ぺこ? 珍しいあだ名だね。オレ、高瀬優。ユウって呼んで。よろしく」
ふわっとした黒髪。少し着崩した学ラン。逆光の中に立つ彼の輪郭だけが、やけにまぶしく目に映る。机の「U」の文字が、頭の中で強くフラッシュバックした。ユウ(YUU)。まさか、彼のイニシャル? 運命なんて陳腐な言葉は信じないようにしてきたのに、こんな偶然に溺れてしまいそうになる自分がいる。
「あ……うん。よろしく」
頭が真っ白で、気の利いたことなんて一つも出てこない。でも、ユウ君はそんな私を気にするでもなく、人懐っこい笑みを浮かべた。「困ったことあったら、適当に聞いて」。太陽みたいな笑顔。その声は、私の心の奥の凍てついた部分を、優しく溶かしていくようだった。
彼はそう言って、また前を向いた。たったそれだけの会話。それだけで、誰かに“ここにいる私”をちゃんと見つけてもらえたような気がして、信じられないくらい心が温かくなった。
——だけど、その時の私は気づくことができなかった。
彼が私に笑いかけるほんの一瞬前。彼の視線が、まず私の机の隅の「U」を捉え、それから値踏みするように、私の顔へと移っていたことを。そして、その太陽のような笑顔の裏側で、彼の瞳の奥に、獲物を見定める狩人のような、冷たく鋭い光が一瞬だけ宿っていたことを。彼の優しさが、全て計算されたものである可能性を、この時の私はまだ、知る由もなかった。
放課後。みんなが帰った後、誰もいなくなった教室で、私はもう一度机の「U」の文字をじっと見つめていた。指先でそっとなぞってみる。思ったよりも深く、しっかりと刻まれたその線。ユウ君の笑顔を思い出すと、この傷跡が、彼との運命的な繋がりを示す特別なサインのように思えてきて、頬が熱くなる。
ふと、その下に、目を凝らさないと見えないほど小さな星(☆)のマークが添えられていることに気づいた。まるで誰かの“願い”が、この場所に封じ込められているかのようだ。
帰り道のバスが坂を下るころ、窓の外に夕日に真っ赤に染まった校舎が見えた。
その屋根の上に、人影が立っている。
逆光で見えにくい。けれど、風に揺れる髪が、夕日を反射して淡い銀色に光っているのが分かった。ヒナタ——教室で誰かが噂していた、数年前にいたという伝説の先輩。屋上は立ち入り禁止のはずなのに。なぜ、あんな場所に?
バスが大きく揺れ、視界が途切れた。次に窓の外に目をやった時、その影は夕雲に溶けたかのように、跡形もなく消え去っていた。
今日、一つの謎が、私の中で淡い「希望」に変わった。
そして、もう一つの謎が、静かに私という獲物を狙い始めていた。
登場人物一覧
▼ぺこ
物語の語り手。転校を繰り返してきた高校生。人に期待しないよう努めているが、心の奥には小さな希望を抱えている。あだ名の「ぺこ」で自己紹介する。
▼高瀬 優(ユウ)
ぺこの前の席に座る男子生徒。人懐っこい笑顔と優しい言葉でぺこに話しかけるが、その裏には計算された視線が潜んでいる。机に刻まれた「U」の文字との関係が示唆される。
▼ヒナタ
夕暮れの校舎の屋上に現れた謎の人物。銀髪が特徴で、かつて噂されていた伝説の先輩。屋上は立ち入り禁止のはずだが、なぜかそこに現れる。
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