第7話「学術の広がり——塔からの若手と“共有の手順”」
塔からの馬車は、昼の鐘の少し前に着いた。
御者が手綱を引き、荷台の幌が持ち上がる。若い男女が三人、積み上げた木箱の間から顔を出した。服は地味な灰色の作業着。袖口は補強糸で縫い、懐から出ているのは羽根ペンではなく、鉛筆と紐で綴じられた薄い板紙だ。
「塔の若手班、着任しました!」
先に跳び下りた短髪の青年が、滑りそうになって慌てて体勢を立て直した。足元を見たリオンは、とっさに声をかける。
「踵、待て。結び直す」
膝をつき、紐の通しを八の字に換え、つま先の遊びを調整する。青年が目を丸くした。
「軽い……なるほど、噂通りだ」
「噂ではない。三分で覚えられる」
青年の名はラース。気っ風がよく、手は荒れている。女の一人はシェル。眼鏡の奥で、視線が常に図形を探している。もう一人の小柄な男はトーノ。質問が多く、手際が遅いが、手を止めない種類の遅さだ。
宮廷魔術師レイナが一歩前に出た。
「この三人は私の推薦。紙は描けるが、紙の前で固まらない子たちよ。現場で叩いていい。ただし——」
「恩は返せるサイズで、な」
リオンが笑うと、レイナも口角をわずかに上げた。
*
工房の奥、空いていた壁面を掃除し、板を渡す。上から麻紐で紙を吊す横長の枠をいくつもつくった。
「ここが《共有の手順板》だ」
掲げられた紙には太字で、短い文と大きな図。昨日、レイナとまとめた「荷車の傾き復旧」が一番上にくる。赤い線が危険を囲み、矢印が流れを示す。文字は少ない。絵が語る。
ラースが手を挙げた。
「隊列の混雑をさばく図を追加していいですか。三本線の“相談・預かり・その場”のやつ」
「描け。だが、“読む人の目線”で」
「現場の高さで書け、という意味ですね」
「そうだ。紙に向けて書くな。人の手に向けて書け」
シェルは黙って、列の最後尾に回った。並びながら、人の肩越しに工房の内部を覗く。
「……看板が遠い。背の低い人は読めない位置にある」
彼女は戻ると、釘を二本、打つ位置を変えた。看板は少し斜めになり、通りからでも文字が読み取りやすくなった。
「良い」リオンが頷く。「手順板も同じだ。視線を拾う角度がある」
トーノはミロの横に座り、木剣の柄巻きを手伝いながら、途切れなく質問を投げる。
「三分で十回。どうして十回?」
「人の数え癖は両手で収まる単位が最初に体に馴染む。九九を覚える前の単位は、十が楽だ」
「十を越えたメニューは?」
「一日のどこかが削れる。削れたものは“返せない恩”になる」
トーノは首を傾げ、すぐに紙に大きな十の字を書いた。
「“返せる”の目印に、丸を付けておきます」
「付けろ。丸の大きさは、この工房のその日の余力に合わせろ」
*
昼前、村の通りに妙な緊張が走った。
背筋に棒を入れたような歩き方の男たちが三人、工房へ斜めに近づいて来る。身なりは旅人だが、靴と手の甲に残る薄い刃の傷が、彼らの素性を語っている。
ベルクが戸口から外を見やり、気づかれない角度で顎を引いた。
「勇者隊の残り香だ。偵察か、あるいは……」
「あるいは、捨て鉢の仕掛け」
レイナがローブの袖を押さえ、声を低く保つ。
男の一人が工房に入るなり、看板を指差した。
「この“手順”は誰のものだ。王都の商会が買い取る。値も付ける。以後、勝手に貼るな」
ラースの瞳が怒りで揺れたが、リオンが軽く手を上げて制した。
「三分だけ、時間をくれ」
「またそれか」
「三分で、ここにある誰のものでもないという前提を、あなたの今日の得に変える」
リオンは人垣の前に立った。
「聞いてくれ。——手順は、誰かが独占すると、滞る。滞りは、今日を苦しくする。だから、ここでは“読める者は誰でも読む”“配れる者は誰でも配る”。それを壊すなら、あなたは今日の敵になる。だが——」
彼は視線を男の胸に落とし、布の綻びを指先で摘んだ。
「あなたは今日、敵でいるより、儲けたいはずだ」
「……どういう意味だ」
「配達の袋の縫い目が粗い。そこから砂が漏れて、他所の村で揉める。揉めれば、取引は減る。手順を共有してくれ。『縫い目は二本返し』の紙を、次の村で貼れ。あなたの名で」
群衆がざわめく。男は戸惑い、喉を鳴らした。
「俺の名で、貼る?」
「“貼った人”が恩をもらう。恩は返せるサイズだ。あなたの明日の商いは、今日より滑らかになる」
ラースが紙束から一枚抜き、太字で「縫い目は二本返し」と書き、図を描き、最後に余白を残した。
「ここにあなたの名を書いてください。配布者の名は大きく」
男はためらい、やがて震える手で名を書いた。
工房の外で見ていた二人の連れが、互いに顔を見合わせる。
「おい、どうする」
「……名が残るのは悪くない」
「悪いのは、滞ることだ」
男たちは紙束を抱えて出ていった。ベルクは肩の力を抜き、苦笑った。
「戦わずに剣を鞘に戻す術、か」
「戦うときもある。でも、滞りを取るだけで済むなら、それがいちばん早い」
*
午後、塔の若手は初めての“現場単独運用”に出た。
対象は旧街道の石橋。雪解け水で片側の欄干が傾ぎ、人と荷が流れを阻害している。
「手順板の縮小版、持った?」
「持った。危険赤囲み、太字、図大」
「恩の配り先、確認」
「橋番。橋番の判断を褒める」
ラースが先頭に立ち、シェルが視線の高さを確かめ、トーノが丸めた紙を抱えて走る。ミロは工房に残り、「三分の帯」を回し続けた。
石橋では、案の定、怒号が渦巻いていた。行列は蛇のように曲がり、荷車の車輪は欄干に擦れて木片を散らしている。
ラースは橋番に近づき、張り詰めた顔を真正面から受け止めた。
「あなたが列を止めた判断、正しいです。——三分だけください。『対向一台→こちら三台→対向一台』の帯を回す。あなたの号令で」
橋番の頬の緊張がわずかに緩む。「俺の、号令で?」
「そう。あなたの橋だ」
ラースは紙を広げ、太い矢印と数字を書いた。
「号令はこれで。三、本当に三です。四はやらない。ねじれが出る」
橋番が深く息を吸い、叫んだ。「対向一台——こちら三!」
流れが生まれた。三台通り、対向が一台渡る。シェルが欄干の欠けを布で巻き、トーノが“立ち止まる位置”の石に白粉で印を付ける。
やがて列は短くなり、怒号は薄れ、通り抜けた者が「助かった」と笑っていった。
橋番は肩を落とし、汗を拭った。
「お前ら、王都の書生かと思ったが——」
「書くが、動く書生です」
ラースが笑い、紙の余白に橋番の名を書いた。
「この手順は、あなたの橋の手順として貼ってください」
*
工房に戻ると、レイナが新しい紙を掲げていた。
——《読む自由/配る自由/改める自由》。
太字の三行。その下に小さく、「※出典を示してくれたら助かる」と書いてある。
「手順の許し方を明文化した。塔の規程ではない。工房の取り決め」
「それでいい。紙は、読む人のものだ」
そのとき、戸口に影が立った。
濡れた外套、荒い息。フードの内側から覗く瞳は、冷え切った湖面のように静かで、底に深い疲労が沈んでいる。
レイナが息を呑んだ。「……サラ?」
フードが外れ、金糸の髪が落ちた。聖女サラ。行方不明と聞かされていた彼女が、ひとりで立っていた。
サラはよろめき、手探りで看板に触れた。
「今日を……楽にする、工房」
笑うように、泣くように、言葉がこぼれ、次の瞬間には膝が折れた。
リオンは走り寄り、抱きとめる。冷え切った体が腕に沈む。呼吸は浅いが、脈はある。
「布、温い湯、塩、砂糖。ミロ」
「はい!」
ミロが駆け、トーノが扉を閉じ、シェルが窓を半分だけ開けて空気を入れ替える。
サラは湯を少し口に含み、こくりと飲んだ。瞼が震え、焦点が戻ってくる。
「リオン……」
「ここだ」
「……ごめん、遅くなって。お祈りより先に、今日を楽にするべきだったのに」
「祈りは、明日を楽にする。今日を楽にする手と、並べればいい」
サラは、唇を噛んで頷いた。
「勇者隊は……もう、隊じゃない。アルドは……間違いを、正しい言葉で飾ろうとしてる。王都は、それを王命に変えようとしてる。わたしは、間違った“恩”の配り方を、何度も見た」
レイナが低く問う。「どうやって逃げたの」
「逃げたんじゃない。来たの。楽にしてほしくて。村の子が、王都の救護所より元気に笑っているって聞いたから」
「ここへ来る道で、滞りはなかった?」
「たくさん。橋も、坂も、心も……でも、途中で“手順”が貼ってあった。見知らぬ字で『三台の帯』『二本返し』。助かった」
工房の空気がわずかに震え、手順板の紙が微かに擦れ合った。
レイナがリオンに目を向ける。
「もう、始まっている。王都の中より先に、王都へ届いている」
ベルクが鞘の口金を親指で弾く。鳴らない。
「届いた先が俺の隊ならいいが、誰かの剣に届いたら、面倒だ」
リオンは頷き、手順板の一番上の余白に、新しい紙を足した。
——《人の取り扱い:第一項 罵倒しない。役割で呼ぶ。 第二項 恩は返せるサイズで渡す。第三項 判断を褒める。第四項 疲れたら止まる》
紙の角に赤い線で囲いを引き、太い字で「救護」と書く。
「王都の救護に、これを送る。誰のものでもいい。読める人のものだ」
ラースが鉛筆を握り直し、シェルが図の枠を整え、トーノが余白に“水の温度”を書き添えた。
ミロは湯を替え、サラは薄い粥を一匙ずつ口に運ぶ。
フィオが戸口に立ち、外を見た。遠くの空に、粉雪がちらついている。
「明日の行列、きっといつもより多い。王都からも、来る」
「来ればいい。紙は足りる。手も足りる」
リオンは言い、扉の閂の滑りを指先で確かめた。油を、一滴。
*
日暮れ前、塔の若手が再び出ていった。橋番の名を冒頭に添えた「三台の帯」の紙を、小さな祠と茶屋の壁にも貼るためだ。
帰り際、ラースが振り返る。
「リオンさん。手順に“署名欄”を付けるの、やっぱり良かった。貼る人の顔が少し明るかった」
「恩が返せるサイズで、顔が見える。それだけで、滞りは減る」
レイナが肩をすくめる。「学問書、書きにくくなるわ。出典が多すぎる」
「書け。多いなら多いままでいい。多いこと自体が構造だ」
ベルクは外に目をやり、声を低くした。
「夜になる。王都の密使がまた動く。勇者アルドも、近い」
リオンは頷いた。
「三分で、片をつける準備をしておく」
「どうやって?」
「明日を重くしないやり方で」
窓の隙間から冷たい風が入る。サラは寝台で眠りに落ち、呼吸は安定している。
リオンは看板を撫で、《今日を楽にする工房》の文字の上に手を置いた。
手のひらの温度が、木の温度に移る。
段取りは、いつも通りだ。
第7話ハイライト
塔から若手三名が合流。**手順板(共有の手順板)**を設置し、図と太字中心の“読ませない図”で現場配備
商会+勇者隊の残り香が「手順の買い取り」を迫るが、配布者署名と自由三原則で“滞りを取る”交渉に切り替え
若手が初の単独運用で石橋の混雑を三分帯で解決、橋番の名での手順として定着
聖女サラが工房へ生還。道中で貼られた手順に救われたと証言。救護版手順を緊急作成
「読む自由/配る自由/改める自由」を工房の原則に採用。王都より先に王都へ届き始める
次回は第8話「王城前の三分——勇者アルドの土下座は届くのか」。
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