悲劇

 強い思いが届いたのか、視界に光が差しこんだ。

とたん、鮮やかな彩りに包まれる。まるで夢のような壮麗な世界が目の前に広がった。


 ああ、思い出した。

 この光景はシルクス家の別邸――迎賓げいひんのためにあつらえたお屋敷の、豪奢ごうしゃな大広間である。


 彩色の施されたアーチ状の格天井ごうてんじょうに、雨垂れ水晶のシャンデリアが光を散らす。磨かれた大理石の床は鏡のようで、広い空間をまるごと幻想的な逆さ絵に閉じこめていた。


 大勢の人々が集まっていた。誰もが晴れやかな衣装で身を飾り、微笑みをたたえている。

 みなの視線は、広間の中央へ向けられていた。そこには純白の礼服をまとう、二人の男女の姿があった。


 彼とわたし。

 エリオール・シルクスと、フィオナ・ベルベット嬢である。


 そう、これはわたしたちの婚約祝いの饗宴きょうえん


 婚約祝いとは、家同士の縁談が正式に決まったことを祝福する宴である。結婚式が身内だけで厳かに行われるのに対し、こちらは大勢の客を招いて盛大に華やぐのだ。


 温かな視線を受け止めながら、エリオールはグラスを片手に語った。愛する伴侶はんりょとともに歩む、幸福に満ちた未来の話を。


 強く、まばゆい瞳だ。隣に立つわたしは彼の腕を強く抱きしめ、このうえない満面の笑みを返すのであった。


 ……ああ、胸がドキドキして苦しい。

 心臓の鼓動は早まるばかり。いまにも喉奥から飛び出してしまいそう。


 だが、ときめく気持ちとは少しちがう。

 拭えぬ不安の影が染みた、胸騒ぎに近かった。


 大勢の客人の手には、細身のグラスが握られていた。透明な蜜酒――それはエリオールの片手にもあり、わたしの手にもしかと握られていた。


 彼がグラスを高く掲げる。

 張りのある声で、「乾杯!」と祝いの合図を口にした。


 ――ダメよ。ここから先はダメ。


 誰もが「乾杯!」と高らかに声を上げ、グラスが交わされる。大広間に喝采が湧いた瞬間であった。「おめでとう」という声が幾重にも響くなか、わたしの胸騒ぎも高まっていく。


 ――ダメ、ぜったいにダメ……!

 

 声の出ない訴えとは裏腹に、純白のわたしはグラスを口元に運ぶ。唇を透明な曲線に寄せて、底をくいっと持ち上げた。


 飲んだ。

 飲んでしまった。


 喉がゆっくり上下する。

 縁から唇を離した瞬間――異変はすぐに訪れた。


 一拍遅れて突き刺さる喉の痛み。焼けつくような刺激に、眼球の奥までが熱にんだ。

 夕闇がせまるように、視界がゆっくり浸食されていく。指先は冷たく、小刻みに震えはじめた。


 華やぐ声が遠のいて聞こえる。

 一生とない晴れの場だ。気を保とうと、わたしは無理に表情を繕って大広間を見渡した。そのなかに父の姿を見つけた。並び立つように義母のアマンダ、義妹のリリアの姿もあった。


 すでに視界は狭まりはじめ、彼らの顔色まではよくわからない。もっとよく見ようと、わたしは半歩ばかり足を進めた。その拍子に、手元からなにかがするりと抜け落ちる……。


 ガシャン。

 甲高い音が響いたのはわかった。音と同時に、世界が逆さまに反転したことも。


 祝いが悲鳴へと変わる。

 次に目に飛びこんできたのは、エリオールの顔であった。彼がわたしを抱き留め、顔を覗きこんでいる。


 大好きな彼の顔。

 でも、暗くてよく見えない。

 きっとそこには優しい笑顔があるはずなのに、どんどん……どんどん、黒く塗り潰されていく。


 待って、イヤ……置いていかないで。

 強くしがみつきたくとも、手に感触がない。血潮の通わない、氷の彫像にでもなってしまったかのようだ。


 誰かが、こんなことを叫ぶ。


 毒だ。

 グラスに、毒が仕込まれていたのだ……と。


 その言葉を別れに、わたしの視界は完全に閉ざされてしまった。

 


 もうなにも見えない。

 聞こえない。

 感じ取れない……。



 ……ようやく、すべてを思い出した。


 どうしてこんな大事なことを忘れていたのか。 

 いや、むしろ忘れたかったのだ。


 わたし――侯爵令嬢のフィオナ・ベルベットは死んだ。


 愛しのエリオール・シルクスとの婚約祝いの饗宴で、人生で最も輝かしく幸福に満ちていた頂点で――。


 誰かに毒を盛られて、華を散らしたのだ。

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