第1章-2:リスクと利益の損益計算

優理の住むマンションは、海斗のそれと路線は違えど、通勤に便利な都心に近い場所だった。

エントランスから部屋に至るまで、無機質なほど整然としている。


「どうぞ、上がってください。狭いですが」


優理の部屋は、彼女の仕事ぶりをそのまま映したかのようだった。

モノが極端に少なく、家具は機能的なものばかり。

生活感がなく、まるでショールームか、あるいはビジネスホテルの上層階のようだ。余計な装飾を排し、生活の効率を追求した空間。


テーブルの上には、テイクアウトした高級なクラフトビールと、乾き物だけが置かれていた。

これもまた、無駄な手間を嫌う優理らしい。


「ありがとう。しかし、本当にすごい部屋だね。生活のノイズが一切ない」


海斗が感想を述べると、優理はビールを注ぎながら淡々と答えた。


「無駄なものは、ノイズになります。ノイズは、思考の効率を下げます。さて、本題に入りましょう。先日お渡しした『疑似恋人契約書』のドラフト、目を通していただけましたか?」


優理は、ファイルから契約書のコピーを取り出し、テーブルの中央に置いた。

海斗は、冷たいビールを一気に飲み干し、決意を固めるようにファイルを手に取った。


「ああ、読んだ。いくつか確認したい点がある。特に、第3条の独占関係と第4条の性的関係だ」


海斗がそう切り出すと、優理の表情筋は一切動かなかった。

まるで、想定内の質問であるかのように。


究極の防御線としての独占関係

「まず第3条。契約期間中、他者との性的関係、あるいはそれに準ずる関係を持たない、とある。違反した場合は、50万円のペナルティ。これは、本当に必要か?

愛がないのに、そこまで厳格な独占にこだわる理由がわからない」


海斗の質問は、人間としての自然な戸惑いだった。


「必要不可欠です、海斗さん」


優理は断言した。

「この契約の最大の目的は、恋愛という感情的なリスクから、私たちを守ることです。もし、私たちが契約外の人間と関係を持てば、どうなりますか?」


優理は、まるでプレゼンテーションをするように続けた。


「第一に、嫉妬という非合理的な感情が生まれます。嫉妬は、論理的な思考を完全に破壊し、キャリアや仕事のパフォーマンスに悪影響を及ぼします。第二に、外部との関係が深まれば、この契約の存在そのものが露呈するリスクが高まる。つまり、この『独占関係』は、感情的なコストの削減と、契約の秘密保持という、二重の防御線なのです。ペナルティは、その防御線を侵犯するリスクに対する、保険料だと考えてください」


優理のロジックは、完璧だった。

海斗が以前、年収で負けて破局した時、経験したあの「感情の津波」と、その後の仕事のパフォーマンス低下を、彼女は正確に言語化していた。


性的関係の「可視化」

「わかった。そのリスクは理解できる。次に、第4条だ。『性的関係の取り扱い』の条項は、正直、度を越していると感じる。『互いの性的欲求を尊重し、定期的なコミュニケーションを通じてそのニーズを共有する』。愛がないのに、こんなにも赤裸々に、そして義務的に、行為について取り決めをする必要があるのか?」


海斗は、少し顔を赤くした。

優理は、そんな海斗を見ても微動だにしない。


「あります。これは、私たちにとって、最も重要な『相互利益』の一つだからです」


優理は、ファイルを指で叩いた。


「私たちは、恋愛市場で『ゼロ』と評価された。その結果、性的な欲求不満も抱えている。従来の恋愛では、この欲求不満は『愛がないから』という曖昧な感情論で処理され、解消されずに関係が悪化します。しかし、この契約では、それを『互いに提供すべきサービス』として定義する」


「『サービス』…」


「はい。そして、コミュニケーションを義務化するのは、相互の満足度を最大化するためです。愛という感情を排除したからこそ、私たちは論理的なフィードバックに基づき、互いのニーズを完璧に満たす努力をする義務がある。これは、感情に頼る曖昧な関係よりも、はるかに高いQoE(クオリティ・オブ・エクスペリエンス)を提供します」


海斗は、優理の徹底した合理性に、ついに抵抗することをやめた。

彼の心の中で、過去の挫折の記憶と、目の前の優理が提示する「予測可能な安心」が結びついた。


契約という名の安全地帯

「…分かった。君のロジックは理解できる。僕の抱えていた感情的な戸惑いは、すべて『非効率なノイズ』だった。君が提示するこの契約は、僕が最も恐れる『不確実性』を、完全に排除してくれる」


海斗はそう言って、優理にペンを渡すよう促した。


優理は、静かに頷き、黒いボールペンを海斗に差し出した。

そのペンは、まるで、彼の過去と未来を断ち切るためのメスのように見えた。


「ただし、海斗さん。この契約書は、私たちの防御策です。もし、契約を遂行する中で、非合理な『感情』が芽生えることがあれば、それは最も重大なリスクとなる。その時は、すぐに定例会議で報告し、対処しなければなりません」


「ああ。分かっている。これは、愛のない、究極のビジネスパートナーシップだ」


海斗は、優理から受け取ったペンで、ドラフトの甲の欄に、自分の名前を力強く書き込んだ。優理もまた、その隣に、一切の迷いなくサインをした。


二人の恋愛市場からの撤退が、正式に決定した瞬間だった。

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