第23話

風の聖域を後にして、私たちはシルフィードで南西の海を目指していました。

次なる目的地は、第四の聖地である「月の神殿」です。

ヘスティアさんの情報では、神殿は孤島にあるそうです。その島は、広大な海の真ん中に浮かんでいます。


空の旅は、私たちにとってすっかり日常になりました。

シルフィードの船内は、まるで自分の家みたいで快適です。

窓の外には、青い空がどこまでも続いています。足元には、真っ白な雲の絨毯が広がっていました。

時々、雲の切れ間から大陸が見えます。豊かな緑が、太陽の光を浴びて輝いていました。

この美しい景色を眺めていると、世界を守りたい気持ちが強くなります。


「ナナさん、次の聖地はどんな場所ですか。」


私は、いつも通り隣にいるナナさんに話しかけました。

彼の存在は、私に大きな安心感を与えてくれます。


『はいマスター、データベースで確認します。月の神殿は、夜と幻を司る聖地です。そこには、強力な古代魔法が眠っています。人の心に、直接働きかける魔法だと記録されていました。』


「心に働きかける、魔法ですか。」


『はい、その力は使い方を間違えなければ人々を癒やします。しかし、使い方を誤ると人々を狂わせる、とても危険なものです。そのため神殿には、強力な防衛システムがあります。これまでの聖地とは、比べものにならないほど複雑です。』


ナナさんの説明を聞いて、私は少し緊張しました。

これまでの聖地にも、手強い番人がいたからです。

しかし月の神殿は、さらに警戒が必要みたいです。

物理的な攻撃だけではなく、私たちの心を攻撃してくるかもしれません。


船で過ごす時間は、私にとって貴重な研究の時間でした。

ヘパイストスの鍛冶場では、新しい技術を見つけました。物質を、原子のレベルで組み替える技術です。

そして古代図書館では、膨大な知識を手に入れました。

これらを組み合わせれば、私のスキルはもっと進化するはずです。


(ただ直すだけじゃない、ただ創るだけでもない。二つが合わされば、きっと……)


私は、自分の指先に魔力を少しだけ集めました。

そして目の前の空間に、光の粒子を思い浮かべます。

それが、物質の元になる原子でした。

心の中にある設計図通りに、原子を組み立てていきます。


すると、私の指先に一輪の花が生まれました。

それは、本物の花と見分けがつかないほど精巧です。甘い香りさえ、ふんわりと漂っていました。

何もない空間から、物質が生まれます。

私は、ついにその領域に足を踏み入れました。

これは、まさに神様だけができる奇跡のようでした。


「すごい、本当にできてしまいました。」


私は、自分の手のひらに咲く小さな奇跡をしばらく見つめていました。

この力を使えば、資源がない場所でも大丈夫です。必要なものは、何でも作り出せます。

食料や水も、作れるかもしれません。強力な武器だって、作り出すことが可能です。

これからの戦いにおいて、この力は大きな助けになるでしょう。


その頃、アレス様たちの絶望はとても深くなっていました。

雨風をしのいだ洞窟を出ましたが、彼らにはもう力がありません。飢えと疲れで、まともに歩くことすらできないのです。

彼らの心は、完全に折れていました。


「もうだめです、一歩も歩けません。」


リナリアさんが、泥だらけの地面に座り込みました。

その目からは、涙も出てこないようです。


「俺の聖なる力も、完全に消えてしまった。ただの役立たずだ。」


ゲオルグさんも、自分を笑うように言いました。

そんな彼らの前に、巨大なモンスターが現れます。

森の主と呼ばれている、凶暴なグリズリーでした。

その目は、飢えた獣の光を宿しています。獲物を見つけて、喜んでいるようでした。


「ひっ。」


リナリアさんが、短い悲鳴を上げます。

今の彼らには、モンスターと戦う力がありません。

死が、すぐそこまで迫っていました。


(ああ、これが俺たちの結末か。シエラ、本当にすまなかった……)


アレス様は、静かに目を閉じました。

自分の犯した過ちの大きさを、彼は死を前にして感じています。

しかし、どれだけ後悔してももう遅いのです。運命の歯車は、もう戻りません。


グリズリーが、鋭い爪を振り上げて襲いかかろうとしました。

その時です。

森の奥から、一本の矢が風を切って飛んできました。

矢は、グリズリーの眉間を正確に射抜きます。

大きな体は、悲鳴を上げる間もなくその場に崩れ落ちました。


「な、なんだ一体。」


アレス様たちが驚いて、矢の方向を見ました。そこには、一人の狩人が立っています。

その背中には、大きな弓がありました。


「あんたたち、こんな場所で何をしている。死にたいのか。」


男のぶっきらぼうな声に、彼らは何も答えられません。

男は、そんな彼らの様子を見て呆れたようにため息をつきました。


「まあいい、とにかく俺のキャンプに来い。温かいスープくらいは、ご馳走してやる。」


男の思いがけない言葉に、彼らは黙って頷くことしかできません。

それは、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のようでした。か細いけれど、確かな救いの手に見えたのです。


シルフィードは、数日間航海を続けました。そして、ついに目的の海域へ到着します。

眼下に広がるのは、どこまでも続く紺碧の海でした。

太陽の光を反射して、水面がキラキラと輝いています。

水平線の向こうに、小さな島の影が見えました。


「あそこが、月の神殿ですね。」


『はいマスター、ヘスティアの情報と一致します。島全体が、強力な幻術の結界で覆われているようです。普通の船では、決して辿り着けないでしょう。』


シルフィードは、ゆっくりと島へ近づいていきました。

島に近づくにつれて、周りの景色が奇妙に揺らぎ始めます。

空の色が、突然七色に変わりました。海の向こうに、巨大な都市の幻が見えます。

これが、幻術の結界が持つ力なのでしょう。


『ヴァルキリー部隊、結界の解析を開始してください。幻術の発生源を特定して、無力化します。』


ナナさんの指示で、ヴァルキリーたちが一斉に行動を開始しました。

彼女たちは、幻に惑わされることなく結界を分析していきます。

その瞳は、どんな嘘も見破る真実の鏡のようでした。


やがて、島の中心部にある巨大な水晶が原因だと判明します。

ヴァルキリーの一体が、水晶に向かって特殊なエネルギー波を放ちました。

すると、今まで私たちを惑わせていた幻が砕け散ります。ガラスが、バラバラに割れるようでした。

島の本当の姿が、私たちの目の前に現れます。


そこは、黒い岩肌が剥き出しになった荒涼とした島でした。

植物は、一本も生えていません。

そして島の中心には、巨大な神殿がそびえ立っていました。黒曜石でできた、美しい神殿です。

月光を吸収して、静かに輝いていました。

神殿の入り口は、固く閉ざされています。

そして扉の前には、二体の巨大なゴーレムが立っていました。まるで、門番のようです。


一体は、漆黒の鎧をまとった騎士の姿をしています。

その手には、巨大な剣が握られていました。闇そのものを、固めたような剣です。

もう一体は、純白のローブをまとった魔術師の姿でした。

その手には、三日月をかたどった美しい杖が握られています。


黒と白、そして光と闇。

二体は、完全な対照をなしていました。

二体から放たれる圧力は、とても静かです。しかし、底知れない深さを持っていました。

これまでの番人たちとは、比べものになりません。

彼らこそが、第四の聖地「月の神殿」の最後の守護者なのでしょう。

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