25話:その問いの答えを、私は聞かないふりをした。


 木の階段を登りきって、最後の坂を踏みしめると、

 ふいに視界が一気に開けた。



 そこが――御岳山の山頂だった。


「わ……着いた……!」


 菜摘が、ほんの少し先に駆け上がって両手を広げる。

 風が彼女の髪をなびかせて、青空の下にシルエットが溶け込んでいく。



 山頂はひらけた広場になっていて、家族連れの笑い声や、年配グループの歓談が風に乗って漂ってくる。

 その中に混ざるように、私たちの目の前には――

 幾重にも重なる山の稜線。青みがかった緑が、奥へ行くほど淡く霞んでいく。

 そのさらに先に、かすかに白い雪を残した峰が、初夏の空に滲んでいた。



 風が、頬をなでていく。

 さっきまでの尾根とは違う、やわらかくて、どこか“迎えてくれる”ような風だった。


「すごいね、秋穂。ここまで全部、自分の足で登ってきたんだよ」

 菜摘が振り返る。

 その目は、空と同じくらい透き通っていた。


「うん……なんか、ちょっと信じられないかも」


 歩いたぶんだけ、心に小さな刻み目ができていて。

 振り返ると、その道がちゃんと、自分の中に残ってる気がするんだ。



 ***



「じゃあ、秋穂。例のアレ、出番じゃない?」

「例のアレって……」


 ザックの中から、部室で見つけたガスバーナーとコッヘルを取り出す。

 金属の表面には細かい傷やくすみがあって、いかにも“使い込まれてます”って感じの道具たち。

 ちゃんと使えるか少しだけ不安だったけど、菜摘はそれを見るなり、ぱっと顔を明るくした。


「うわっ、ほんとに沸かすんだ! ちゃんと準備してるの、なんか部長っぽい〜」


「……見た目だけね。使うの初めてだから、火加減とかわかんないし」

「やってみよ! 山でお湯沸かすなんて、キャンプ女子みたいじゃん」


 言いながら、私たちはふたりでバーナーに点火した。

 小さく青い火が揺れて、金属の底がじわじわと熱を帯びていく。



 コッヘルの中で水が沸騰し始めるころには、すでにふたりとも、しゃがみ込んでじっとそれを見つめていた。


「お湯、きたー!」

「よし……はい、スープ。私がコーン、菜摘はオニオンね」

「部長、仕切り力高い〜」


 お互いの紙コップにそっと注いだ湯気が、風に乗ってゆらゆらと広がる。

 ふたりで同時に「いただきます」と言って、スープを口に運んだ。


「んん~~、あったまるぅ……!」


 菜摘がふーふーしながら、目を細める。

 その顔があまりに幸せそうで、つられて私も、ちょっと笑ってしまった。


 おにぎりは、コンビニで買ったもの。

 でも、ここで食べると、塩気も炊き加減も、全部がちゃんと“おいしい”。

 山の上って、食べものまでちょっと変えるんだな、と思った。


「……やっぱりバスケより山が合ってたかもな〜、わたし」

 菜摘が、おにぎりをかじりながらふと言った。

 軽くて明るい声。まるで空に投げるみたいに。


「……ほんとに?」


 何気ないふうに聞いたつもりだった。

 でも、菜摘の手が一瞬だけ止まる。


 咀嚼のリズムがわずかに遅れ、視線が、遠くの山並みに泳いだ。

 カップを持つ手が、小さく、かすかに揺れる。



 ほんの一瞬。

 でも、それは確かに、目に映った。


「――まあね!」

 間を断ち切るように、菜摘が声を上げた。


「こんな景色見ちゃったらさ、体育館で走り回るのなんて、もうどうでもよくなっちゃうし! 山、最高ー!」

 空に向かって、おにぎりを掲げて笑う。

 それは、いつもの菜摘の笑顔だった。



 だけど――

 ほんのすこしだけ、違って見えた。


 無理して笑ってる。

 何かを隠してる。

 ……そんなふうに思えてしまった。


「……そうだね。山頂で食べるごはんは、美味しい」

 私は、そうだけ答えて、おにぎりにもう一口かじりついた。


「でしょ〜!」

 菜摘は、いつもどおりの声で返す。


 笑い声と一緒に、山頂のざわめきが風に混じっていく。

 さっきまでの沈黙も、いまの違和感も、そのすべてをふわっと包むように。


 私はただ、スープの残りの温度を確かめながら、心のどこかに、あの一瞬をそっとしまった。

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