4章_御岳山。…ただの石と、ただの水と、涙が出そうになったわけ。

21話:私にとってはまだ、地図の上の等高線と、誰かの手書き文字。


 部室の窓を開けると、湿った風がひとすじ、埃を巻き上げて通り抜けていった。


 どこか重たいその空気が肌にまとわりついて、私はすぐに窓を閉める。

 でも、ほんの数秒だけでも、部室が外と繋がっていることを思い出せた気がして、少しだけ心が落ち着いた。



 机の上には、古びた山岳部の部誌と、開きかけた地形図、メモ帳、スマホ。

 昨日の夜から、何度も眺めては戻ってきたページをまた、私は開く。


「御岳山――標高929m、東京・奥多摩。初心者向け。ケーブルカーあり」


 かつての山岳部員たちが残した記録には、山のルートだけでなく、天気、装備、かかった時間、感想まで、びっしりと書かれていた。

 その手書きの記録と、ネットで見つけたルート情報、バスの時刻表を照らし合わせる。



「晴れ。風はやや強い。山頂からの眺望は良好。ケーブルカー利用で行程が楽だったが、山頂から先のロックガーデンに行ったのが正解。沢の音が癒しだった――M.K」


 ……誰だかはわからないけど、この「癒しだった」って書き方、ちょっと好きだ。


 手元の地形図に新しいルートを赤ペンでなぞり、分岐点にふせんを貼る。

 いつものノートに「沢の音が癒しだった」と書き写し、「ロックガーデン、気になる」と添えた。


 調べれば調べるほど、少しずつ登山というものが“自分の言葉”になっていく気がした。

 ノートのページが、自分の足跡で少しずつ埋まっていく。

 それがなんとなく、うれしかった。



「おっ、やってるねぇー!」

 突然、背後から元気な声。


 驚いて振り向くと、いつものようにノックもなく、菜摘がひょいっと顔をのぞかせていた。


「真面目に部活してる! めっちゃ山岳部員っぽいじゃん」


「……山岳部員ですけど」

「そうだった。わたし副部長だった」


 そう言って、彼女は荷物を放り出して私の隣に座る。

 そして、無遠慮に私の広げた地図をのぞきこむ。


「なになに? 今度はどこ登るの?」


「……御岳山。標高900メートルくらい。初級者向けで、ルートも整ってる。ケーブルカーもあるから、体力的にも楽」

「へぇ〜、秋穂が調べたの?」


「……うん。なんか、今度はちゃんと『自分で選んで登る』ってしたかった」


 その言葉を聞いた菜摘は、ふっと目を細めた。

 少しだけ、笑顔が優しくなる。


「そっか。……えらいえらい、秋穂成長中」

「別に褒めてほしいわけじゃ」

「いや、褒めるでしょこれは。だって最初、山って何?って顔してたのに、今や山岳部マネージャーばりの計画力」

「部長だけど」

「おっと失礼、部長様」


 菜摘はおどけながらも、手元のメモにちらりと目をやった。

「行きたい」と思って選んだ道が、こうして誰かと共有される。

 それだけで、少しだけ世界が広くなる気がした。



 菜摘が、期待に満ちた目で私を見る。

「……じゃあさ、次の土曜、空いてる?」


「うん、たぶん大丈夫」

「よし、御岳山。登ろっか」


 彼女の手が、私のノートの横にそっと伸びる。

 菜摘の文字で書かれた、くるくるした「みたけさん」という文字が、紙の隅に増えた。



 部室の外から、チャイムが鳴る。

 私はその音にかき消されそうになりながら、小さくつぶやいた。


「……うん、登ろ」

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