3.5章__黄色いホールド。掴んで、登って、…それだけ。
特:放課後の魔法は、駅の改札で解ける。
「秋穂、放課後ひま?」
そう声をかけられたのは、昼休みが終わる直前のことだった。
教室の後ろの窓際で、私はぼんやりと外を見ていた。
手元には開きかけの物理の教科書。
思考は半分、空に逃げていた。
「……なに?」
振り向くと、菜摘が机の上に腕を乗せて、にやにやと笑っている。
「ジム、行かない? ボルダリングの」
「ボルダリング……?」
「そう! ほら、山の基本ってさ、登ることじゃん? なんか、基礎体力とか、握力とか、大事っぽいから」
「『っぽい』で誘ってくるのやめて」
「いいじゃん!運動になるし! ……あと、たまにはさ、ふたりで放課後っぽいことしよ?」
放課後っぽいこと。
それはちょっと、妙に響いた。部室じゃない、山でもない。
だけど、たぶん、同じくらい意味のある何か。
「……いいけど。初心者でもできるの?」
「もちろん! あとで靴とかレンタル予約しとくね!」
菜摘がうれしそうにスケジュールアプリを開いているのを見て、私は少しだけ息を吐いた。
まぁ、たまには、登山じゃない登り方も――悪くないかもしれない。
***
駅の改札で待ち合わせた菜摘は、登山の時とはまた違った雰囲気だった。
スポーティなジャージにスニーカー、そして髪は前髪をふわりと上げたポンパドール。
ふだんよりちょっとだけキリッとして見える。というか、なんか――キメてる?
「じゃーん、ジムスタイル。どーよ?」
「……まあ、それっぽい」
「それっぽいってなに、それっぽいって!」
「そのまんまの意味だけど」
「ちぇっ、秋穂はもうちょい褒め上手でもいいと思う」
軽く口を尖らせながら、菜摘はそれでも楽しそうに笑っている。
くるくる変わる表情と、光の中で揺れる前髪に、少しだけ目を奪われた。
「てかそのTシャツ、秋穂にしては可愛くない? なんか新鮮」
「家にあったやつ、適当に持ってきただけだし」
「そういうのが似合うの、ちょっとずるいんだよねぇ〜」
「……意味がわからない」
「ふふ、いいの。合格、ってことで」
菜摘がにこっと笑って、私の肩を軽く叩いた。
それだけで、少し強ばっていた気持ちがふわっとほぐれる気がした。
ジムに行くのは初めてだったけど、「菜摘と一緒」ってだけで、少しだけ、平気な気がした。
***
駅から歩いて数分。
こぢんまりとしたボルダリングジムのドアを開けると、黒板のような匂いと、わずかに乾いた空気が出迎えてくれた。
思っていたより静かで、でも中の壁は――迫力があった。
壁一面に貼り付けられたカラフルなホールドが、まるでおもちゃ箱をひっくり返したみたいで。
山とはまったく違う景色だった。
「うわ、すご……なんか遊園地みたいじゃない?」
「うん、ちょっとワクワクする」
「えっ、秋穂がワクワクって言った!? ちょーレアじゃん!」
そんなことでいちいち驚かなくていいと思う。
でもちょっとだけ、笑い返してしまう自分がいた。
受付でレンタルのシューズとチョークバッグを借り、ふたりで更衣室へ向かう。
小さなロッカーの前で並んで着替えていると、菜摘がふとこちらを見て言った。
「……あ、秋穂、ちょっと静電気。前髪、ぴょこんってなってる」
「え、うそ」
慌てて手で直そうとすると、菜摘が笑いながら手を伸ばしてきた。
「動かないで。ほら――」
そっと、私の前髪に彼女の指が伸びてくる。
ふわり、と。軽い、けれど明確な感触。
その指先が触れた一点だけに、全身の神経が集まっていくようだった。
ジムの中の喧騒も、チョークの匂いも、一瞬だけ遠くなる。
時間が、ほんの少しだけ引き伸ばされた気がした。
「……よし、これで完璧!」
いつもの調子で笑う菜摘に、私は「ありがとう」とだけ返した。
それだけしか言えなかった。
というか、それ以上を言葉にしたら、たぶん顔に出る。
髪のことなんて、もう気にならないくらい、
その指の温度だけが、ずっと残っていた。
***
クライミングエリアに出ると、ぐっと空気が変わる。
実際に目の前にすると、想像していたよりずっと高くて、ちょっと怖かった。
「……これ、ほんとに初心者向け?」
「大丈夫大丈夫。色別で難易度違うから、まずは黄色のホールドだけね」
スタッフさんが優しくルールを教えてくれて、まずは菜摘がチャレンジすることになった。
「いきまーす!」
意外と軽やかに、菜摘は壁に取りついた。
足をホールドにかけ、腕を大きく伸ばすと、全身を使って一歩ずつ丁寧に登っていく。
「おお〜! 登ってるじゃん!」
私は少し感心しながら、その姿を見上げた。
菜摘はふだん通りの調子で、「よっしゃー!」と元気に声を上げる。
「ここまできたら、もう勝ちでしょ!」
上から手を振る菜摘は、いつもの強気な感じじゃなくて、
まるで「見て見て!」って言ってるみたいに無邪気で。
どこか――はしゃいだ子どもみたいだった。
その余裕そうな姿に、私は少しだけ呆れながらも、でも目が離せなかった。
次のホールドに手を伸ばそうと、彼女がぐっと体を持ち上げた、その瞬間。
「あっ、うそっ、ちょっと……!」
その声がしたかと思う間もなく、菜摘の足が滑った。
ズルッ、と小さく音がして、
彼女の体が一瞬、宙に浮いたように見えた。
「わっ!?」
ドスンッ。
次の瞬間、菜摘は着地マットの上に尻もちをついていた。
足を投げ出して、すこし呆然とした顔。
私は反射的に駆け寄っていた。
「だ、大丈夫……!?」
菜摘は一瞬だけ目をぱちくりさせたあと、
「うん……!」と笑った。
「プライドがちょっとだけ、ズタズタだけどね!」
手で尻をさすりながら、彼女はくしゃっと笑った。
その笑顔を見た瞬間、なんだか、胸の奥の強ばりがふっとほどけた。
「……笑いごとじゃないってば」
無事でよかった――とか、そんな大げさな気持ちじゃない。
ただ、「ああ、また笑ってる」って思って、それだけで、息がしやすくなった気がした。
「じゃ、次、秋穂の番ね?」
「えっ、私?」
「当たり前じゃん! さっき見てたでしょ? あれの反面教師として!」
ちょっとむくれて言う菜摘に背中を押されて、私は壁の前に立った。
言われたとおり、黄色のホールドだけを見て、足をかけてみる。
……意外と、登れるかもしれない。
「……じゃあ、登るよ」
ホールドに手をかけると、少しだけ汗ばんだ感触が伝わってきた。
その感覚さえ、今は妙にリアルで、呼吸の音が自分だけのものに変わっていく。
腕を伸ばし、足の置き場を探しながら、静かに登っていく。
掴む、伸ばす、支える――
まるで、机の上で地形図のルートをなぞるみたいに。
次のホールドはどこか、どう体を動かせば届くのか。
一つ一つの動きが、パズルのピースをはめていく作業に似ていた。
ただそれだけを繰り返すうちに、頭の中のノイズが少しずつ消えていく。
あ、これ……
思い出した。
登山と似てる。
無心で、でも確かに“自分の意思で動いてる”って感じ。
「すご……秋穂、めっちゃ綺麗……」
下から菜摘の声が聞こえた。
私は振り返らず、ただ一歩ずつ、壁を登っていく。
最後のホールドに手が届いたとき、
心のどこかが静かに満たされていくのを感じた。
「……登れた」
たったそれだけのことなのに、心が、じんわりと満たされていく。
小さな達成感が、胸の奥で静かに広がっていった。
下を見ると、菜摘が目を丸くしていた。
「秋穂、すご……! なんか、動きが“ちゃんとしてた”!」
「……ありがとう」
壁からそっと降りると、足の裏に、まだその感触が残っていた。
ザラザラとしたホールドの質感。
壁の傾斜。指先の記憶。
それが、不思議と心地よかった。
「……もしかして秋穂、運動神経よかったりする?」
「別に。体育の成績は、普通だった」
「いや、あれは普通じゃないって。体の使い方とか、ホールドの取り方とか……なんか、見惚れちゃった」
「……見惚れるとか、変な言い方」
言い返した声に、自分で気づくくらい照れが混ざっていた。
菜摘はそんなことおかまいなしに、気楽な顔で水を飲んでいる。
ふたりで並んで、マットに腰を下ろす。
どこかでチョークの粉が舞うにおいがして、腕にじんわり疲労が残っているのがわかった。
でも、それが心地よかった。
「ねぇ! 次はあれ登ってみてよ!」
菜摘が、壁の奥にある強傾斜の課題を指差して言う。
その角度を見ただけで、腕が悲鳴を上げそうになった。
「……無理だって、あれは」
「えー、秋穂ならいけそうじゃん?さっきのムーブも完璧だったし」
「そっちは足滑らせて落ちてたくせに」
「うるさいうるさい。でも、なんかさ――もっと登れる気がするって、思わなかった?」
菜摘の声には、悪気のない無邪気さがあった。
けれど、その中に小さく灯った火のようなものも、私はなんとなく感じ取っていた。
「……思ったかも」
ぽつりと答えた自分の声が、
思っていたよりも素直だった。
***
帰り道。ジムを出ると、街の空はうっすらと夕焼けに染まっていた。
ビルの隙間から覗く西の空が、ピンクとオレンジを混ぜたような色にぼんやり染まっている。
隣では、菜摘がドリンクのボトルを振っていた。
「なんかさ、思ってたより『運動した感』あるよね。腕、だるー」
「明日、筋肉痛になると思うよ」
「えー、やだー。秋穂のせいだ〜」
「私?」
「だって、秋穂が綺麗に登るから、負けたくなって頑張っちゃったんだもん」
「……そういう勝負だったの?」
「ちがうけど、ちょっとはそうだったかも。ね、また行こ?」
「……うん。約束」
駅の改札が近づくにつれて、街の喧騒が大きくなる。
制服姿の学生や、仕事帰りのスーツ姿の大人たち。
その人波に飲み込まれるようにして、私たちの間にあった特別な空気が、少しずつ薄まっていくのを感じた。
「じゃあ、私こっちの電車だから」
ホームで、菜摘が言った。
その声は、ジムで聞いた声よりも、ほんの少しだけトーンが低く、いつもの「教室の菜摘」に近くなっていた。
まるで、違う役の仮面をつけ直すみたいに。
「うん。また、月曜日に」
私がそう言うと、菜摘は一瞬だけ、何か言いたそうな顔をして、でも結局、「うん、またね」とだけ言って、人混みの中に消えていった。
その背中を見送りながら、私は思う。
───ああ、魔法が解けていく。
ついさっきまで、あんなに近くに感じた菜摘が、また「遠い世界のスター」に戻っていく。
でも、それでいい。
教室での菜摘が遠ければ遠いほど、山でだけ見せる素顔の価値は、上がるのだから。
私は、次の登山の計画を頭の中で組み立てながら、自分の乗る電車に乗り込んだ。
次の魔法を、私だけが知っているという、甘い優越感を噛み締めながら。
***
家に帰って、シャワーを浴びて少し落ち着いてから、私はいつものノートを開いた。
今日の出来事を思い出しながら、指が自然とペンを走らせる。
ボルダリングのホールドの感触、壁を登り切った時の達成感、そして――菜摘のこと。
──「菜摘、ジムの格好、いつもと雰囲気が違って、ちょっとドキッとした。」
──「前髪を上げたのも、なんていうか……似合ってた。本人は気づいてないだろうけど」
そこまで書いて、私はペンを止めた。
顔が少し熱い。こんなことをノートに書くなんて、自分でもちょっとどうかしていると思う。
でも、消す気にはなれなかった。
──「落ちそうになった時、一瞬ヒヤッとしたけど、すぐに笑った顔を見て安心した。……ああいうところが、菜摘の強さなのかもしれない」
最後に「また行きたい。二人で」とだけ書き加えて、私はノートを閉じた。
今日のページは、いつもより少しだけ、特別なインクの匂いがした気がした。
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