20話:肩にかかる君の重さは、軽くて、あたたかくて、私のすべてだった。


「下りって……足にくるね」

「だね。膝が笑ってる……」

 ふたりで、ゆるやかな下り道を歩く。


 登りでは無口になっていた分、くだらない話をしながら降りていくこの時間は、なんとなく心地よかった。

 すれ違う登山客に、会釈だけはちゃんとするようになってきた自分に、少し驚いた。


「お疲れさまでしたー」

「こんにちはー」

 声を交わすたびに、体も心も、少しだけ柔らかくなっていく気がする。



 駅へ続くアスファルトの道に戻ると、街の匂いがほんのり混ざってきた。

 さっきまでいた山の空気が、もう少しだけ恋しくなる。


 菜摘が、小さく伸びをして言った。

「登った、って感じするね」

「うん」


「ねえ、また来ようね。次はどこ登る?」

「まだ考えてないけど……ちゃんと、考える」


「うん!」


 電車はほどなくやって来た。


 休日の夕方。

 車内はちょうど空いていて、ふたり並んで窓際の席に座ることができた。



 発車してしばらくすると、菜摘はバッグを膝に抱えたまま、あっという間に静かになった。

 顔を伏せるわけでもなく、ただ目を閉じて、ゆっくりと、深く、一定のリズムで呼吸している。


 その呼吸が、なんだか妙に静かで――

 私は、横目でそっと彼女の横顔をうかがった。


 起きているときは、あんなにうるさいのに。


 喋りっぱなしで、笑って、ちょっと強引で。

 でも今は、まるで別人みたいに、静かだった。


 無防備で、頼りなくて。

 ……少しだけ、守りたくなる。



 電車がぐらりと揺れた瞬間、菜摘の肩がかすかに揺れる。

 そのまま――すとん、と、私の肩に頭を預けてきた。


 軽くて、あたたかい。


 菜摘の髪が、少しだけ揺れて、

 その先から、かすかな吐息が伝わってくる。


 肩にかかる重みはわずかなのに、驚くほどはっきりと存在を感じた。

 たったそれだけのことなのに、胸の奥に小さな波が立つ。


 私はそっと背もたれに身を預けた。

 彼女の頭がずれないように、肩をすこしだけ安定させて。


 ほんのすこし、心臓が速くなる。


 このまま、時間が止まってしまえばいいのに。

 誰の視線も気にせずに、菜摘が私だけに無防備な顔を見せてくれる、この時間だけが、ずっと続けばいい。

 この静けさが、私のすべてだった。



 窓の外には、都会のビルが連なっていく。

 西日に照らされたガラスが、柔らかな光を揺らしていた。

 菜摘はまだ、眠ったままだった。


 その寝息に安心しながら、私はただ、静かに景色を見つめ続けていた。



 ***



 夜。


 風呂上がりの湿った髪をタオルで雑に拭きながら、私はベッドの上に寝転んだ。

 身体の節々がじんわりと疲れている。

 とくに太ももとふくらはぎ。階段が多かったせいだ。


 だけど、それも悪くない。

 痛みが、「ちゃんと登った」って証拠みたいで。


 部屋の灯りはつけたまま、机に向かう。

 少しだけ角が丸くなったノートを開いた。紙の匂いがする。


 何を書こうか。


 私は、ペンを握りしめたまま、しばらく白いページを見つめていた。

 そして、ゆっくりと、数文字だけを書き込んだ。


 ──「また登りたい」


 たったそれだけ。

 インクが滲まないように、そっと息を吹きかける。


 ノートを閉じて、枕元に置く。

 明日は、どんなことを書けるだろうか。

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