第2話「辺境伯の提案、最初の収穫祭」

 辺境の朝は、王都よりも一刻早く目を覚ます。

 鶏の声、井戸の鎖の軋み、薪を割る音――音の合間に、湿った土の匂いが漂う。

 私は膝をつき、芽吹いたばかりの小麦の葉先を指で撫でた。露が珠になって転がり、光を砕く。


「葉色、良し。窒素は足りてる。……でも、この畝は少し詰めすぎね」


 後ろから、がさりと草を踏む音。

 顔を上げると、陽に焼けた若い男――この地の若き辺境伯、ルディオ・ヴァン・グリムが立っていた。鎧ではなく、粗い布の作業服を着ている。肩には鍬。

 貴族のはずなのに、畑の匂いがする人だ。


「おはよう、アリシア。夜明け前から働くのは兵だけだと思っていたが……畑の兵はもっと早いな」


「畑は、朝の光を一番上手に使いますから。辺境伯さまも、鍬がお似合いですね」


「ルディでいい。さもないと肩がむずむずする」


 彼は笑って鍬を肩から下ろし、土を手にとった。

 指先で捻び、落ちる粒を目で追う。まじめな目だ。


「兵に耕させれば進むと思っていたが、畑は命の機嫌で動くらしい。――それで、頼みがある」


「頼み?」


「この谷に、新しい用水路を通したい。雪解けの水をひとまとめにして、干ばつの年にも畑が死なないように。だが、兵だけでは足りない。……“畑の軍師”に、指揮を頼めるか」


 畑の軍師。

 私の胸が、どくんと跳ねる。

 前世で夢見た肩書きに、やっと触れた気がした。


「喜んで。けれど、条件があります」


「言ってくれ」


「水路の入口に、堰板(せきいた)を。子どもでも扱える軽さで、図と印を付けること。――“誰でも使える仕組み”にしないと、続きません」


「任せろ。木工は兵の得意分野だ」


 ルディは迷いなく頷いた。

 彼の“任せろ”は軽くない。責任の気配が付いている。


 昼までに、私は村の広場で“用水路の段取り表”を描き上げた。

 白い板に炭で線を引き、矢印を描き、数字を書き添える。

 図の横には、種の袋を持った子どもが喜ぶ絵と、堰板を上げ下げする老人の絵。文字が苦手な人にも、意味が届くように。


「この線が水の道。……ここに堰板。印は三つ、太陽と雲と星。太陽の日はここまで、雲の日は半分、星の夜は閉じる」


 老農が顎髭を撫でながら頷く。

「印なら孫にもわかりやすい」


 ルディが横で腕を組み、顔を上げる。

「堰板の刻印は俺の工房で作らせる。兵に絵の練習もさせよう」


「兵に……絵の練習を?」


「戦がない日に剣ばかり振らせるより、板に笑顔を描かせた方が士気が上がる。俺の経験則だ」


 辺境伯は時々こういうことを言う。

 “強さ”と“暮らし”が頭の中でつながっている人の言葉だと思う。


 用水路の掘削は、翌朝から始まった。

 私が旗を振り、ルディが鍬を振るい、兵と村人が列になって土を運ぶ。

 最初はぎこちなかった列が、昼前には音を揃え、掛け声も自然に混じった。

 土の匂い、汗の匂い、焼けたパンの匂い――息が合えば、匂いも混じる。


 途中、私は畦に立って手を挙げた。

「止めて! この土は粘りが強い。水に弱いから、砕いた瓦礫を混ぜて基盤を作って」


 ルディが走る。

「砦の修繕で余った瓦礫がある。持ってこい!」


 村の少年が目を輝かせた。

「僕も運ぶ!」

「いいわ。でも、重いのは大人に任せて。君は刻印を彫るのを手伝って」


「刻印?」


「ほら、太陽と雲と星。君の絵が、村の“水の印”になるの」


 少年の胸に火が灯ったのがわかった。

 人は、自分の印を見つけると強くなる。

 畑も、印があると強く続く。


 三日で仮通水まで漕ぎつけた。

 堰板に刻まれた印は滑らかで、子どもの手でも上げ下げできる。

 水を走らせると、土が息をつき、畝が湿り、苗が葉を開く。

 村の女たちが歓声を上げ、老人が帽子を取り、兵たちは互いの背中を叩いた。


「アリシア!」

 ルディが水しぶきを浴びながら笑う。

「川が畑に降りてきた!」


「いいえ、畑が川を迎えに行ったのよ。……でも、まだ半分。次は堆肥舎(たいひや)よ」


「たいひ……?」


「落ち葉と藁と獣糞と灰。空気を入れて積み、熱と菌で“土のご馳走”に変えるの」


 兵が顔をしかめる。

「臭いのは苦手だ」


「臭いは“生”の証拠。上手に作れば、臭いは甘くなるの。――やってみましょう」


 私は前世の記憶を辿り、層の順序と水加減を指示した。

 藁→糞→落ち葉→灰→水。

 足で踏み、棒で孔を空け、布で覆う。

 四日もすれば、手を差し入れたらぬくもりを感じるはずだ。


「堆肥は土の祈り。祈りは続けるから力になるのよ」


 老農が目を細めた。

「嬢ちゃんの言葉は、むずかしいようで、腹に落ちるな」


 その夜、焚き火を囲んで打ち合わせをしていると、王都から来た商人が現れた。

 上等な外套、整えられた口髭、足元の泥を嫌うような目。


「エルド侯の嬢君。辺境の小麦が取れるようになったとか。――王都で買い取ろう。相場より二割安いが、量は保証する」


「二割安い?」

 私は首を傾げた。

「“量の保証”を言い値の理由にするのは、商人の常套句。けれど、続けるには逆効果です」


 商人が眉を吊り上げる。

「逆効果?」


「農は年によって波がある。豊作の年は貯め、凶作の年は出す。――“穀倉”は畑の隣に必要です。王都の倉より、村の共同倉。私たちは、まず“続ける倉”を作ります」


「それでは現金が回らぬ」


「回るわ。現金は“必要な物と働き”に結びましょう。――王都から欲しいのは、麻布、鉄の鍬、釘。それと、種子用の麻袋の縫い糸。相場で構いません」


 商人は舌打ちこそ飲み込んだものの、露骨に肩をすくめた。

「王太子の婚約を捨てられた娘が、“商い”を語るか」


 焚き火の向こうで、ルディの表情が冷たくなる。

 私は、笑って火に棒を差し入れた。火の舌が揺れ、赤が踊る。


「――王妃にならなかったから、畑の言葉が話せるの。ここは畑の国よ、商人殿」


 商人は言葉に詰まり、外套を翻して去った。

 背中に、兵の小さな笑いが追いかけた。

 ルディは肩の力を抜いて、私に言う。


「君はときどき、剣より切れる」


「剣は一度抜けば鞘に戻すのが大変。でも、言葉は火加減ができる。……焼けないように気をつけるわ」


 一週間後。

 堆肥舎は温み、用水路は安定し、畝の緑は濃くなった。

 私は“輪作表”を板に描き、村の壁に掲げた。

 小麦(穀物)→豆(窒素固定)→根菜(掘り返し)→休作(堆肥すき込み)。

 絵で、矢印で、色で。

「畑にも休みを。休むのは怠けではなく、次のための貯金」


 少女が板の前で真剣に頷き、老農が「昔のやり方に似とる」と言った。

 そう――前世の“科学”は、この世界の“昔の知恵”とよく手を取り合う。

 なら、繋げればいい。

 新旧の間に、畝のように。


 そして――初めての収穫の日が来た。

 村にとっては久しい“豊作の兆し”だ。

 青空の下、刈り取りの歌が響く。鎌が稲穂を撫で、束が腕に積まれ、笑い声が風の中でほどける。

 私は麦束の匂いを吸い込みながら、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。

 婚約破棄のあの日につかえた小さな棘が、土の中で腐葉土に変わった気がする。


「アリシア!」

 ルディが麦束を担いで駆けてくる。

「見ろ、穂が重い。首が下がってる。……土の礼だな」


「土は正直。手を入れた分だけ、返してくれる」


 収穫の後、村の広場に長い机が並べられた。

 パン、煮込み、焼き肉、蜂蜜を垂らした薄焼き――香りが重なり、腹が鳴る。

 私は“最初の収穫祭”と小さく書いた板を立て、蜂蜜水を桶に満たした。


「これから毎年、収穫のたびに“種の交換”をしましょう。強かった畝からとれた種は札を付けて、来年の子へ。――“強い子の親”を皆で育てるの」


 子どもたちが目を輝かせ、手を挙げる。

「ぼくの畝、強かった!」

「わたしの豆、いっぱいなった!」

「じゃあ君たちは今日の“種守”ね。板に印を押して」


 笑いが膨らみ、ルディが私の隣に腰を下ろした。

 夕暮れが畑の稜線を金色に縁取り、遠くの森が紫に沈む。


「王都からまた噂が来るだろうな。『落ちぶれ令嬢が祭りで浮かれている』とか」


「浮かれてるわ。だって、浮かぶのは“湯気”よ。鍋の上に立ち上る湯気。――それは、国を温めるわ」


「その言い方、好きだ」

 ルディは蜂蜜水をひと口飲み、少し真剣な顔に戻った。

「アリシア。……君に正式にお願いしたい」


「なにかしら」


「この辺境一帯の“畑の軍師”として、俺の配下についてくれ。名目は“開墾顧問”。権限を与える。兵と街道と倉を使っていい。君の図と札を、この谷すべてに広げたい」


 焚き火のぱちりという音が、合図のように弾けた。

 私は、手の中の木杯を見下ろす。

 指には、昨日の鍬の小さな豆。

 その痛みが、答えの形を教えてくれる。


「お受けします。けれど、一つだけ」


「条件か?」


「はい。“偉い言葉”ではなく、“分かる図”で命令を出すこと。……文字が読めない人にも届くように」


 ルディの目に笑いが宿る。

「約束しよう。俺は絵の練習を続ける」


「では、契りは十分ね」


 私たちは木杯を打ち合わせた。

 乾いた音が夕空に吸い込まれ、どこかで子どもが鈴を鳴らした。


 祭りが最高潮に達したころ、ひとりの旅人が広場の端に立っていた。

 深いフード、細い杖。

 彼は言葉少なに、私へ小さな包みを差し出す。


「王都より。……“旧友”から」


 包みには、薄い紙切れが入っていた。

 ――王太子の新しい婚約発表。

 華やかな筆致で“公爵令嬢フローレンス”の名が踊り、その横に踵で踏みにじられたような小さな染み。

 旅人は声を潜める。


「王都で噂が立っている。“辺境の土娘が、王家の面子を潰した”と。……貴族の中には、辺境の豊作を快く思わぬ者も」


 私は紙を折りたたみ、焚き火に近づけた。

 炎が舌を伸ばし、紙の端から焦がしていく。

 湯気の白と、煙の黒。

 紙が灰になるまで、目を離さなかった。


「面子は食べられないわ。……土は食べ物をくれる」


 旅人は目を細め、わずかに笑った。

「賢い。――気をつけなさい、畑の軍師」


 彼の背は、暮れなずむ森の方角へと溶けていった。


 祭りの終わり、私は堆肥舎の蓋をあけ、指を差し入れた。

 ほのかな熱。

 甘い、熟れた匂い。

 うまくいっている。

 土は“続ける”と、答えを返してくれる。


「アリシア」


 背後からルディの声。

 彼は星明かりの下で、少しだけ真剣な顔をしていた。


「君がここに来てから、兵も村も変わった。……俺も、変わった。

 戦で俺は“守る”しか知らなかったが、畑は“育てる”ことを教える。

 守るだけでは、続かないのだな」


「ええ。守るは静止、育てるは運動。畑は、止まると死ぬの」


 彼は頷き、きまり悪そうに頭を掻いた。

「上手く言えないが……その、ありがとう」


「こちらこそ。――鍬の似合う辺境伯」


 言ってから、少しだけ笑い合った。

 夜風が畦を撫で、遠くで狼が短く鳴いた。

 土のにおいが深くなり、星の数が増える。


 私は心の中で、そっと誓う。

 この谷に、図と印と畝をもっと増やす。

 水と土と火と灰、そして笑い。

 “続ける”仕組みを、畑に根づかせる。

 たとえ王都が何を言おうと、胃袋は嘘をつかない。

 土は嘘をつかない。

 だから、勝つのは畑だ。


 翌朝。

 村の壁に新しい板が立った。

 〈畑軍師より〉と小さく書き、絵と印で今日の段取りを描く。


 一、堆肥舎:一番右の山を返す(印=ぐるり矢印)

 二、用水路:堰板“雲”まで(印=雲)

 三、種の交換:強い畝の袋に赤紐(印=赤点)

 四、鍬の修理:砦工房へ(印=金槌)

 五、子ども組:太陽・雲・星の刻印練習(印=三つ並び)


 板の前に人が集まり、指で絵をなぞり、頷いて散っていく。

 “偉い言葉”は要らない。

手と足が動く言葉――それが畑の言葉。


 畝に一歩踏み出すと、露が靴を濡らした。

 今日も、土はやさしい。

 鍬を握り、振り下ろす。

 土が返る。

 私の中で、何かがまた一つ、芽を出した。


「――さあ、今日も畑から始めましょう」


 私の独り言に、朝の風がやわらかく返事をした。

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