第4話「うつけとの邂逅」
初めて対座した織田信長は、噂とまるで逆であった。
「うつけ」と人が笑うとき、そこに浮かぶ粗忽や無作法といった外形は、目の前の男にはなかった。あるのは、熱を帯びた眼差しと、余計な肉の一切ない言葉、そして机上の地図の上を絶え間なく歩く指であった。指の動きは、地図の凹凸を確かめる猟犬の鼻先に似ていた。獲物の匂いを追うのではない。匂いが生まれる風の筋を、先に捉えている。
広間は寒くはなかったが、温かくもなかった。温度が肉体のものではなく、意志のものに置き換えられていた。壁の飾りは少ない。飾りのない壁は、視線の逃げ場を奪う。目は必然的に、中央の男へ吸い寄せられた。
光秀は礼を尽くして膝を置き、身の丈を一点に畳む。名乗りの音が畳に沈んだとき、扇の骨が乾いて鳴る音がした。信長が、扇の縁で地図の一角を軽く叩いたのだ。
「比叡の衆徒、焼くべきや否や」
最初の言葉はそれだった。挨拶も来意も、間に置かれた茶も、ことごとく横に退けられた。試す問い。火打石の火花のように、最初から熱い。
光秀は即答しなかった。息を一つ置き、胸の内で骨の位置を確かめる。骨は、刀の刃に触れても砕けぬ角度を持たねばならない。
「焼くは容易。治めるは難し」
信長は、乾いた笑いをひとつこぼした。
「面倒を言う」
だがその「面倒」の音には、退屈の翳りがなかった。むしろ、面倒を好む者の声だった。扇の骨が再び鳴り、地図の上の山脈の稜線をなぞって止まる。
「面倒を言う者が要る。簡単はすぐ腐る」
最後の一言は、独り言のようでもあり、広間すべてに向けられた宣言のようでもあった。
義昭を奉じての上洛の段取りが、居並ぶ家臣の間で一気に定まっていく。言は短く、命は長い。命は細かな枝分かれを伴い、誰がどこへ、いつ、何を持って、誰に渡すかが矢継ぎ早に決められた。
速度が常識を凌駕するとき、人は思考を置き去りにする。置き去りになった思考は、やがて腐敗して不満の臭いを放つ。光秀は、その臭いの生まれる前に、筆を走らせて隙間をふさいだ。
蔵米の配分、馬の鈴の数、補修の要る橋の位置、仮宿の数と水瓶の容量、道沿いの寺社との折り目合わせ。地図の上に描かれる矢印の行き先だけでは、列は進まない。矢印の下にある土の湿りと、土を踏む足裏の体温を、紙に重ねる必要がある。
信長の指が歩いた道に、光秀の筆が橋をかける。指が止まった場所に、光秀の筆が井戸の位置を書き込む。紙の上で、速度と余白が睨み合い、やがて落ち合う。落ち合ったところに、理の骨が一本、短く通る。
夕刻、廊下は人の気配で満ちた。古参と若手が、襖の陰で低くいがみ合っている。
「この道筋は無理だ。冬の終わりの泥を知らぬのか」
「無理を通すのが勢いというものだ。勢いのない軍など、鯉のいない池みたいなものだ」
言葉に泥が飛ぶ。泥は乾けば剥がれ落ちるが、湿っている間は裾を重くする。
信長が通りかかり、扇で一喝した。
「やめよ」
風が議論を吹き散らした。力の一撃は、しばし秩序の形をする。だが、力だけでは秩序は長持ちしない。風が止んだあとに残る重りが要る。重りは恥であり、名であり、紙に書かれた順序である。
光秀は、二人の名を書いた紙の端を、廊下の柱にそっと貼った。紙には、担当する道と期日が簡潔に記されている。紙一枚で、裏の戸は重くなり、背はわずかに冷たくなる。
「名を貼るのは、脅しと紙一重だぞ」
傍らで見ていた若い小者が小声で言った。
「脅しと恥は違う。恥は自分のための熱だ。熱を置く場所を示すだけだ」
小者はうなずき、紙の端を指で押えた。その指先は冷たかったが、押し返す力はまっすぐだった。
広間へ戻ると、信長は地図の前から離れ、狭い縁側に佇んでいた。風が寒い。だが彼の肩は震えない。
「明智とやら」
背を向けたまま、信長が名を呼んだ。
「は」
「そちは、理を骨と言うたな」
「はい」
「骨の上に乗る皮は、誰のものが良い」
問いは唐突で、しかし先ほどの比叡山の問いよりも深く人の身へ食い入る。
「殿のお身体に合う皮ならば、誰のものであっても。皮は触れて温めるものにて、書付だけでは温まりませぬ」
「ふむ」
信長は片足を一歩、縁の板から外して土に置いた。雪解けの湿りが、足袋の底から伝わる。
「温めるために、何を使う」
「出来事でございます」
「出来事」
「道を掃く、旗を洗う、鐘を鳴らす、灯を移す——文ではなく、目と耳で受け取る出来事。それが皮膚の体温を決めます」
「比叡を焼くのは、出来事に入るか」
「焼けば、出来事は強すぎます。皮が焼けて骨が露わになりましょう。露わな骨は、最初は威を見せますが、長く外気に晒されては乾びます」
信長は沈黙した。沈黙の長さが、縁側の木目の線のように、淡々と伸びる。
「面倒を言う」
同じ言が、さっきより柔らかに置かれた。
「だが、面倒の置き所は心得ておるようだ」
その夜、上洛の行程はさらに精密になった。
義昭の轎の速度に合わせて、先触れの順番が決められる。寺社の門の開閉時刻を帳面に写し、鐘楼の小姓に銅銭を握らせて鐘の回数を取り決める。御所の周囲の路次に砂利を入れ替え、ぬかるみを避ける箇所へ筵を配る。民家の戸口には札を配り、夜の間だけ灯を門前に掛けるよう頼む。札には、札主の名と、灯の油の配給券の印がある。札を貼るのは、町の誇りだ。誇りは、恥の裏返しにある。
光秀は、油の壺の数に赤い印をつけ、灯の芯の長さを定め、煙の抜けの悪い路地を地図に小さく黒点で記した。黒点の数は、速度の敵であり、余白の味方だ。黒点は、行軍が息を入れる場所でもある。
「息が切れる前に、息を入れる」
光秀は自分の紙の端に、そう小さく書き込んだ。息は余白であり、余白は読み手を入れる場所だ。行軍の読み手は兵であり、町であり、風である。
夜半、広間の端の暗がりで、古参の一人が若い者を詰っている場に出くわした。
「そちは、殿の速度に頭が追いついておらぬ。命が下れば、疑わずに動け」
「疑わねば、穴に落ちまする」
若い者は震えていたが、言は直立していた。
「穴に落ちぬようにするのが、われらの仕事だ」
光秀が割って入り、短く言った。
「疑いは静かに持て。足は速く、眼は遅く。遅い眼は、穴の縁を見る」
古参が鼻を鳴らした。「遅い眼など、役に立たぬ」
「遅い眼が、翌朝の恥を減らす」
古参の目が細くなる。若い者の目は、少しだけ明るくなった。
そのやりとりを、背後で聞いていた小姓が、信長へ何かを囁いたらしい。ほどなく、信長が歩み寄り、扇で空を切った。
「明智」
「は」
「足は速く、眼は遅く。——覚えておく」
翌朝、広間の地図は張り直されていた。紙の継ぎ目の位置が変わっている。継ぎ目は恥の線だ。見える恥は、器を強くする。
信長は、地図の継ぎ目を扇の骨で押さえ、家臣たちに向かって言った。
「京までの道に、三つの出来事を置け」
「出来事にござりまするか」
誰かが繰り返した。
「鐘を鳴らす。道を掃く。灯を掲げる。どれも簡単だ。だが、簡単を広く同時に行えば、難しい顔をする者が減る」
光秀は内心、驚いた。昨夜、縁側で自分が口にした言が、角度を変えて、すでに軍の言に取り込まれている。速度は、他人の息を奪う。だが、奪われた息に代わりの呼吸を用意しておけば、速度は秩序の形を取る。
信長はさらに続けた。
「鐘は、義昭のために鳴らすのではない。町のために鳴らす。道は、通る者のために掃くのではない。掃く者のために掃く。灯は、迎えるために掲げるのではない。掲げた者の背を温めるために掲げる。——それがわかれば、口は閉じ、手は動く」
家臣たちの返事は短かった。短さの中に、理解の熱と、まだ解しかねる冷えが混じっていた。混じりは、やがて秩序の色になる。色はすぐに決まらないほうが、長持ちする。
上洛の準備は、坂本と京の間で水脈のように広がった。寺の僧は、鐘の回数を子らに授け、子らは数えることに誇りを持つ。町の女は、灯の芯を細く撚り、油を節約しながら炎の形を整える。小者たちは道の石を拾い、穴に詰め、泥を固め、筵を並べる。
光秀は、油を配る帳面に目を走らせながら、手元の筆で小さな丸をいくつも描いた。丸は灯の数であり、人の眼の数であり、余白の数でもあった。
その合間、義昭の動静は揺れ続けた。朝は東を望み、昼は北を案じ、夜は洛中の灯を夢見る。名と器と人。その三つはまだ一つに結びきれない。
信長の速度は、義昭の揺れを呑み込んだ。呑み込むためには、器がいる。器は城であり、町であり、道である。信長の「安土」の構想は、まだ名を得る前から、光秀の耳に何度も落ちてきた。
「城というより都市だ。政治と文化の舞台装置」
そう告げられた夜、光秀は紙の余白に一行だけ書いた。
——この主のもと、理に形を与え得るや——
余白は白い。白は無ではない。可能性の色だ。
しかし、可能性は、同じ舌で暴威を語ることがある。
比叡の話は、縁側での一度のやりとりで終わってはいなかった。広間の片隅で、古参のひとりが低声に言う。
「焼かねばならぬときはある」
別の者が応じる。
「焼けば、二度と同じ形には戻らぬ」
「戻らぬから良い。戻るべきでないものがある」
議論は風に散らされ、あとには灰の匂いだけが薄く残る。
光秀は、灰の匂いの混じる空気の中で、筆を止めた。紙の上に、比叡の山の輪郭を軽く描いてみる。輪郭の内側は空白だ。空白は怖い。だが、空白がなければ、文は呼吸しない。呼吸しない文は、速さで読まれ、速さで忘れられる。
「忘却の速さが、世を脆くする」
藤孝の声が、遠い昨日から灯のように甦る。光秀は、輪郭の内側に、寺と僧の数ではなく、鐘の数を書き入れた。鐘は、速さの中でゆっくり鳴る唯一の音だ。
上洛の列はついに動き出した。
先触れが走り、寺の鐘が鳴り、道が掃かれ、灯が掲げられる。町の子が、灯の下で背伸びをして、己の家の札を誇らしげに指差す。
義昭の轎が通ると、風がひとつの方向に揃う。揃うことは、美しい。だが、揃い続けることは難しい。揃え続ければ、綻びは逃げ場を失い、やがて破裂する。
列の左右に貼られた札には、名があり、期日があり、約束がある。札は紙だ。破ろうと思えば破れる。破ったときに背が冷えるように、名が書かれている。名は骨であり、骨は皮膚の下にあって、皮膚の緊張を保つ。
信長は、列の中ほどで歩を速め、遅め、速め、遅めた。速度の揺れは、行軍の呼吸である。呼吸は、命令でも叱責でもなく、ただ体の中に通されるものだ。
「明智」
「は」
「この道は、三日で行くか、五日で行くか」
「四日にて」
「なぜ四日」
「三日では、灯が息を切らします。五日では、鐘の余韻が長すぎて、人の期待が沈みます。四日は、人の心が『待てる』と『待てぬ』の境目にございます」
信長はうなずき、扇で空を切った。
「四日にて行け」
その一言は、紙の上に太く一本の線を引いた。線は、たちまち七つに分岐し、三十に分かれ、いつの間にか町の数と同じほどの細さに解れていった。細い線の一本一本を、光秀の筆が確かめていく。確かめて、結び、余白を残す。余白がない線は、すぐに千切れる。
行軍の途上で、光秀は小さな折り目の数を数えた。
橋板のきしみの音、道の脇の井戸へ向かう女の足音、灯の油を分け合う家の話し声、鐘を打つ子の指の弾み。これらの折り目は、速度の中で見過ごされがちだ。だが、見過ごされれば、折り目は裂け目になる。裂け目は、裏切りの種だ。
「裏切りは大事のたびに生まれる」
藤孝の言は、骨の中で繰り返し鳴った。
信長の列の脇で、ひとりの商人が道を掃きながら言った。
「殿様方の通りは、儲かるが、面倒も増える」
「面倒を面白がると、儲けにもなる」
光秀が返すと、商人は笑った。
「面白がるのが一番の贅沢ですわ」
贅沢。——その言葉は、光秀の中で別の意味に反転する。贅沢とは、速さの中で余白を持つことだ。余白を持てる者は稀だ。稀であるから、価値がある。
「乱の世に文を用いる者は少ない。だが、少ないからこそ価値がある」
藤孝の声が、また灯のように甦る。
京が近づくにつれ、速度の息は短くなった。短い息は、叱声に似てくる。似てくるので、叱られたように感じる者が出てくる。感じる者には、余白が必要だ。余白を与えるのは、紙ではなく、人の眼だ。
光秀は、列の端でへたり込んだ若い足軽に水を渡し、黙って隣に座った。
「殿」
「殿ではない」
「……明智様」
若い者の肩は細く、息は早い。
「息を遅く」
「遅く?」
「眼は遅く、と言うた。息も同じだ。遅く吸い、遅く吐け。——遅いことは、怠けることではない」
若い者は頷き、息を数えた。数える間に、鐘の音がひとつ遠くで鳴った。音は長い。長い音に、短い息が合わさる。合わさると、速度の棘が丸くなる。
「立てるか」
「はい」
若い者は立ち、列へ戻った。戻る背はまだ細いが、細さは恥ではない。細い背に、灯の温かさがわずかに乗っている。
上洛の列が都へ入る日、空は薄い灰色で、風は冷たく、土は重かった。
寺の鐘が一斉に鳴り、道には砂利が撒かれ、灯は揺れながらも消えなかった。
義昭の轎が御所へ向かう道の両側に、札が貼られている。札には名がある。名のある紙は、人をひるませる。ひるんだ背に、恥の冷えが走る。冷えは、火の必要を思い出させる。火は、面倒を引き受ける手のひらで育つ。
信長は、義昭の数歩前を歩き、扇で風を切った。切るべきものは風であり、首ではない。扇の骨の音が、道の両側の眼の数を数えるように響いた。
その日の夕、光秀は宿で筆を取り、煕子へ文をしたためた。
——初見の信長は、噂と真逆であった。うつけではない。目は熱く、語は短く、指は絶えず地図を歩く。
——比叡の衆徒を焼くべきや否や、と問われた。焼くは容易、治めるは難しと答えた。面倒を言う、と笑われた。だが笑いの奥に、好奇の色があった。
——義昭公を奉じ上洛の段取りは、速度で決まった。速度が常識を凌駕するとき、人は思考を置き去りにする。置き去りになった思考は腐る。腐る前に、筆で穴を塞いだ。
——廊下で古参と若手がいがみ合った。信長は扇で一喝した。力の一撃は秩序の形をする。ただし、重りが要る。重りは名であり、恥であり、紙である。
——帰路、安土の構想を耳にした。城というより都市、政治と文化の舞台装置。理想と暴威が同じ舌で語られる不安。
——この主のもと、理に形を与え得るや。
光秀は一度筆を止め、灯の炎を指で囲った。灯は小さいが、消さずに持って行ける大きさだ。
余白に、さらに一行を足す。
——白は無ではない。可能性の色だ。白に線を引くのは、面倒だ。面倒を面白がれるかどうかが、理の寿命を決める——。
翌朝、信長はすでに次の矢を弦にかけていた。
「義昭の居を整えよ。余計な飾りはいらぬ。飾りは後から付く」
命は短く、しかし命じられた内容は長かった。居の掃除、障子の張り替え、庭の石の移し替え、井戸の石積み、台所の焚き場の位置。光秀は、それらの小さな背骨を繋いでいく。背骨の繋ぎ目が滑らかであれば、首は勝手に立つ。
働く者たちの間に、不満と誇りが行き来した。不満は、面倒の姿をして現れる。誇りは、出来事の姿をして残る。
光秀は、誇りが残る方へ線を引いた。
障子を張る者の名を紙に書き、庭の石を移した者の名を石の裏に墨で忍ばせ、井戸の石積みに関わった者の家の戸口に小さな札を立てた。
名は、明日になれば風に晒されて薄くなる。薄くなった名の下に、今日の手触りが残る。手触りは、速度の中で忘れられにくい。
義昭の居は、過不足なく整えられた。
その夜、信長は短く評した。
「過ぎたるは、足らぬに同じ」
光秀は深く頭を下げた。
信長は続ける。
「足るか足らぬかは、明日の天気が決める。明智、明日が雨でも、今日の仕事が濡れぬようにしておけ」
濡れぬようにするのは、屋根ではない。心だ。心の余白に紙を敷いておけば、多少の雨は吸われる。
光秀は、帰路の闇にひそむ湿り気を嗅ぎながら、歩を進めた。
翌日、小雨。
鐘は濡れても鳴り、灯は濡れても揺れ、道は濡れても進む。
光秀は、雨の粒の間にある空気の薄さを測りながら、紙の上に細い線を足した。紙は濡れる。だが、濡れた紙ほど、墨は早く乾く。乾けば、線は濃く残る。
「面倒を面白がる」
昨日の商人の言が、雨の匂いに混じって、妙に馴染んだ。
信長は縁側に立ち、雨を眺め、扇を閉じた。
「比叡のこと、もう一度、言え」
突然だった。
光秀は膝をつき、頭を垂れ、しかし声は前へ出した。
「焼くは容易。治めるは難し。人は、他人の罪を焼く炎で自分の手も温めようと致します。温まりは早いが、火傷も早い。火傷の跡は、恥のように長く残る。恥があるから、器は丁寧に扱われますが、恥を増やしすぎれば、器は触れられることを怖れます」
信長は、雨に溶けるような笑みを少しだけこぼした。
「面倒を言う」
そして、扇を開き、骨を一枚ずつ撫でた。
「骨は折れぬに越したことはない。だが、折れて継いだ骨のほうが、強いこともある。……覚えておけ」
覚えておけ、と言ったのはどちらに向けてであったか。光秀は自分の胸の内の骨へ、その言を刻んだ。
上洛の手はずは、もはや誰の目にも引き返せぬほどに固まっていた。
義昭は、朝は東を望み、昼は北を案じることをやめ、夜は洛中の灯を夢見る代わりに、灯の下で文に印を置いた。名と器と人は、ようやく一本の紐で結ばれた。結ばれた紐の結び目は、固いが、締めすぎていない。
光秀は、結び目のほどき方も同時に頭に入れた。固く結べば、切るしかなくなる。切るは速いが、痕が汚い。ほどくは遅いが、痕が美しい。美しい痕は、恥を誇りに変える。
「速度は、美しい。だが、速度の陰で、線は見えにくくなる」
藤孝の声がまた、灯になって胸に点った。
夜、煕子への文の末尾に、光秀は小さく書き足した。
——速度は風。風は器を選ばず吹く。器を選ぶのは我らだ。器の内側に、灯を消さぬ線を、少しずつ引いていく——。
文を畳むと、雨は上がっていた。雲の隙間から、白い月が少しだけのぞく。白は無ではない。可能性の色だ。可能性を塗りつぶすのも、線で割って器にするのも、人の手ひとつだ。
翌朝、信長は、地図の新しい端を持って現れた。紙の手触りは昨日と違う。昨日の紙の上に、さらに薄い紙が継がれている。
「安土のことを、もう少し詳しく言おう」
信長の声は、これまでより少し長い息で伸びた。
「城というより、都市。政治と文化の舞台装置。人の目が高くなり、音が遠くまで届くように、道を割り、高さを重ね、風を通す。……祭りのように一度きりでは終わらん。日々が舞台だ。舞台であることに、人が慣れていく。それが秩序になる」
舞台。——舞台は、常に誰かに見られている場だ。見られることは、恥の冷えを増す。増す代わりに、誇りの熱も増える。
光秀は問うた。
「舞台の下の柱は、何でございます」
「柱」
「骨を指します」
信長は笑った。
「面倒を言う。——柱は、文と、名と、恩だ」
「恩」
「恩は、今の銭では買えぬ。昔の銭で買ったものが、今になって利を生む。利を生まぬ恩は、切り捨てる。——それは面倒だが、やる。舞台は腐ってはならぬ」
理想と暴威が同じ舌で語られる。光秀は胸の内で、その舌の両刃の冷たさと熱を同時に味わった。どちらか一方に痺れてしまえば、自分の骨は折れる。痺れないために、余白が要る。
「余白を、舞台のどこに置くべきか」
気づけば、口が先に動いていた。
信長は、扇で紙の空白を叩いた。
「ここだ。道と道の間、人と人の間、命と命の間。余白は、誰のものでもない場所だ。——だから誰のものでもないままでは、すぐに泥になる。泥になる前に、誰かが座って茶を点てる。座った者が、そこを自分の場所にするのではなく、誰にでも開いた場所にする。……面倒だ。面倒を面白がる者にしか、できん」
光秀は、扇の骨の数を目で数えながら、煕子の指の動きを思い出した。欠けた茶碗を継ぐ線。金ではない、漆に粉を混ぜた線。線は恥で、恥は器を丁寧にする。舞台に置く余白の線も、きっと同じ材でよい。
日が傾く。
準備の声が幾重にも重なり、町の奥からは味噌を撹ねる音が湿って届く。灯がともり、紙の札が風に鳴る。
光秀は、最後の札を柱に貼り、名の上に指を置いた。
名は重い。重さは、背の温度を変える。温度が変われば、行いが変わる。行いが変われば、速度は秩序になる。
信長は、その秩序の端に立ち、うつけの面影を微塵も持たず、ただ、舞台の主のように空気の高さを決めていた。
初見の信長は、噂と真逆だった。
うつけ——否。
うつけを演じる賢者ですらない。演じることをやめた賢者だった。
夜、光秀は宿の灯の下で、最後の文を煕子へ送った。
——殿の筆は、春を連れて来ます、とあなたは言った。春は白い。白は無ではない。いま、その白の上に、速度という風と、理という骨と、恥という温度と、余白という息とを、少しずつ置いている。
——この主のもとで、理に形を与えられるか。答えはまだ出ない。だが、答えを出す前に、橋を一つ一つ渡る。渡るたびに、板は違い、音は違い、風は違う。違いの中で同じなのは、骨の音だ。骨は、折れねば鳴らない。折れずとも鳴らす方法を、探している。
文を畳む。灯は小さい。小さいからこそ、消さずに持って行ける。
外では、雨上がりの石畳が冷たく光り、遠い鐘が二度鳴った。二度の間に、短い息がひとつ入る。
光秀はその息を、自分の中の余白へそっと置き、眠りへ身を滑らせた。翌朝、紙の継ぎ目は、昨日よりも美しく見えるだろう。恥は恥のままに、器を強くしているはずだ。
そして——舞台は、もう始まっている。
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