并州に駈ける

十五

 少年は目を覚ました。

 今までに辿ってきた人生を、死ぬ直前の老人が見る夢のように、ずっと見ていた。

 その夢から覚めたのだ、ということを己のの心に確かめると、寒さに震える躰をその二つのひじを以って支えながら、おもむろに起こした。

 黄砂に塗れて天蓋をなしていた空は、すっかりと朝焼けに照らされて青い幕を張るようになっていた。まだ西のほうはくらいが、東には煌々と光り輝く日の球がその姿の半分を現し始めている。

 少年はその方向を見て

──俺は逆に進んでいたのか

ということを知った。

 少年の育った地から北の方へと行くと、中原から離れ、化外の土地に孤身、放り出されることになる。

 それを避けるために、少年は南に向かわなければならなかったが、日は少年の右方より上っていた。つまり、少年は凡そ北面して進んでいたと考えたのである。

 傍らに、はだぎを剥がれた父のしかばねがある。昨晩、少年が夜の寒風をふせがんとして、その半身から剝ぎ取ったのだ。

 少年はそのことを覚えていて、二重に羽織っていた衣の一枚を脱ぎ、父の肌にまとわせた。

 少年の父は既に凍るほどに冷たくなっている。血が通っていない、心の臓の拍動もないこの躰に、その身を守るための衣などはもう必要なかったが、父の身形みなりを敢えて整えようとしたのは、少年なりの弔いの形でもあった。

──ああ、寒い。

 少年は躰を南面させて、父を肩に担いで歩き始めた。

 何里行けば良いのかは判らないが、兎に角歩かなければ、少年はその生きるみちを閉ざされる。そういった必死さを持った足取りをしていた。

 歩きに歩き、疲れ果てて腰を下ろした。

 風が強く吹く。昨日のように天蓋の光を阻むほどではないが、黄色い砂が巻き上がった。顔に小さく当たる砂粒を、意味も無いながらに払拭せんとしながら、少年は息を整えた。息をすると口中に砂が入り、歯を擦り合わせるたびに不快な感触がある。

──喉が渇いた

 少年は昨日から水を飲んでいない。幼少の頃、父と原野に駆り出した時、長く水が飲めなかったのを思い出す。このままでは皮も残らぬというのは、少年も重々承知していた。まずは水を見つけたい。そういえば、南方に川が流れていたはずだ、というのは少年の記憶の中にあった。そこにさえ着ければ、生き延びやすくはなる。

 いったい、どれだけ往けば着くのだろう。そう思いながら、少年は休むのも程々に、また父の尸と南を目指した。

 ときは既に、夜に近い。昨日のような、自然そのものが化け物になったかのような異様さはなかったが、夕暮れの鋭い西日は、その方向から数多の鷹が飛んできそうな迫力があった。

 もう周りも見えなくなるだろう。少年がそう思って、乾いた唇を己の舌を以ってめようとしたとき、耳の中にかすかに雄大で、しかしながら清い音が聞こえた。

 この音は、水の流れる音である。そう気づいた少年は、落ち着けかけた躰と気力をもう一度昂奮させて、音のする方向に只管ひたすら歩いた。

 もう既に、周りは一寸と見えぬ闇となっていたが、僅かに地の肌を照らす月明かりと、次第に大きくなる流水の音とを頼りにして、一刻たりとも無駄にすまいと思いながら歩いた。

 すると、前方が魚の鱗のような輝きを放っているのを見た。生きているかのようにうねり、跳ねる光の文様は、確かに月の明かりを弾き返して光を発する水面みなもであった。

 少年は何も考えず、その水を手にすくって啜った。

 味は埃っぽく、決して旨いものでもない臭い水であったが、それでもこれで生き延びられようという安堵感が、少年の心身を包んだ。

 この安堵は、少年を深い眠りにもいざなった。近くには水がある。それだけで、喰える野草が生えているという目処も付く。何も心配することはなかろう、と己の中の恐虞きょうぐを取り払い、この暮れは父のはだぎを借りることなく、地べたにせて眠った。

 再びのあしたを迎え、少年は幾分かの心地よさをもって起きあがった。しかし、その気持ちよさも隣の父の姿で失せ、そして寸分でもその身を享楽の内に附した己を恥じる心が生じた。

──これから、どうやって動こうか

 少年は悩んだ。幾分か、邑の外のことは聞いたことがある。それでも、所謂いわゆる土地勘というものの無い少年にとっては、己が次にどうやってその身を移すべきか、あるいは停頓ていとんするべきかというのを決めかねた。

 中原に行くには川を越えねばならぬ。しかし、この川は渡るにはひろすぎた。足を着けることも、ましてや泳いで渡ろうなどとも思えない。

 少年はしばらくの間、思惟しゆいした。そうして今度は、川の下流に向かって歩みを進めることにした。この判断は、その行く先に何かがある、と断定ができているためではない。ただ、この少年のどこか本能的な部分で、物事の根源へと行くよりも、そのおわりを眺めてみたいという気持ちがあったからだった。

 その心根のまま、少年は川に沿って幾里かを進んだ。何も喰っていない分、躰に力が入り辛くはなっていたが、それでも、父を置いていくことはしなかった。肌にあたる陽の光は。昨日よりも柔らかく、温かい。近くに水が在るのだという安心感が、少年をそういう感じ方にさせているのかもしれなかった。

 背と肩の間に蓄えた汗を、川の水で流そうかと考えた時、向こうに砂煙が見えた。最初は、その濛々もうもうとした景色が目に入ったときに、また下から上に吹き上げるような風が吹き始めたのか、と少年は思ったが、よく見てみると、そういう砂の揚がり方には見えなかった。地を這うような砂煙の中に黒い点を見たのは、その砂煙が少年から四里在るか無いかの処に迫った時だった。

 少年は身慄みぶるいをした。鮮卑が鈔掠しょうりゃくに飽き足らず、この川まで南に上ってきたのかという驚悸きょうきに身躰を揺す振られたが、次第と其の騎馬の隊伍が整然としているのを見て、鮮卑の放蕩として無形な集団のそれとは違うということを察した。

 しかし、この前方に見える軍団の前に行って己を守ってもらおうというのも、少年には幾分か障りが在った。軍旅の進行を妨げれば、斬られるのではないかと思った。

 それでも、少年は延命を望んでいる。生を渇望するその眼差しを砂中の騎兵たちに向けて、その方向に向かって進んだ。

 その騎兵たちも、少年との歩数が五百歩ほどに近づいた時、みなしごの存在に気が付いたようだった。錐のような隊伍の形を変え、その内から数騎ばかりが少年の方へと馳せ出てきたのである。

 猛然と進んでくる騎兵たちに少年は身を構えたが、その眼前で馬を止めて、

「きさまはどこのもんだ」

と、粗雑さと儀的形式の混じったような口調で少年に問いかけた。

 その男は見るからに、将軍というよりも武人のような風体で、腕っぷしの強い者特有の、暴力的な性癖を隠しきれていなかった。

「お、俺は、九原きゅうげん県の小邑から来ました」

 甲冑を身にまとった仰々しい武人の威圧に初めて中てられた少年は、その声をどもらせながら訊かれたことに答えた。

「そうか、九原か」

 騎乗の武人は弓を片手にたづなで馬をぎょしている。目線は少年の眼をそのまま捉えて少年の動きをも制していたが、その視野は少年のみに向けられていたわけではなかった。

「その、肩に担いだ尸はなんだ」

「これは、俺の父親です。俺の邑にえびすが来たときに、戦って死にました。」

「そうか、お前を守って、死んだのか」

「いえ、邑を守って死んだんです」

 武人は、ひとつだけ

ああ

と溜息交じりの声を出すと、少年に向かって

「馬には乗れるのか」

と言った。

「はい、乗れます」

「ならば、馬を一頭与える。馬を使って、俺たちの後にいてくるが良い」

 このひと言を聞いた、武人に附いているともがらと思われる男が

すいよ。そのようなことをすれば、罰せられますぞ」

と言ったが、この武人は返して

「ならば罰せられてやる。俺はこの父子の忠孝に感動したのだ」

といってこの儔を弓の先で脅し、軍旅の後方に奔らせていた馬から良いものを一頭、連れてこさせた。

 少年が其の連れてこられたあかうまに跨って、背に父の尸を背負い、

「ついて来い、遅れるな」

という武人の声に従って、その馬腹を蹴った。

 軍旅は風を裂くように疾駆していた。布の乗っている騢はとも駿しゅんとも着かぬ程度の馬であったが、二人の大男を載せている分、その脚は重たい。布は必死に追って、何とかその集団の尻方に蹤いていったが、騢にそれをするだけの旺盛さが無くなってきた頃、軍旅は脚を休めた。

 少年は蹤いていけなくなれば、またその身を孤独に置いていたであろう。故に、この休息の時間は少年を手段に繋ぎ留めた、平安の時であった。

 馬の背に父の尸を残したまま、少年は馬の轡を握って地に降りた。これまでに負った魂魄の疲れが体に現れたのかもしれない。少年の腰は杵で捩じられたかのように痛んだ。腰を抑え、そして伸ばしていると、先に自らを馬に乗せた壮強な風貌の武人が、先に諫めていた儔と共に、ひさごを手にして少年に近づいてきた。

「飲むか」

 武人は手にしていた瓢を、少年の胸元に突き出した。少年はかむろを縦に振り、その瓢を手に取ると、喉の渇きもあって思い切りあおった。

 その途端、少年はせ返った。

「ははは、どうだ。なかなかにかろう。上質なきびざけよ」

 武人は少年の反応に笑った。

──因みに、ここでいう酷というのは、酒の味や香りが濃いことをいう。そこから転じて厳しい、ひどいなどの意味を表すようになった。──

 さて、そういった武人の様子を見て、その傍に仕えていた儔は厳しい口調で

「なに、建陽けんよう殿は酒を渡されたのですか。何故そのようなことをなされたのか。人を揶揄からかって愉しむようなことがあれば、いつかその背を斬り下げられることになりますぞ」

と叱りつけた。

 なるほど、この男は建陽というらしく、儔はその部下ながら、諫言をいとい無く出来る立場に居るらしいということを少年は察すると、少年は酒を思いがけなく飲まされたことに報いるように

「俺は、酒は飲めません。水が欲しかったのです」

と、武人に、というよりもその横の儔に向かって言った。

 儔の方も、その言葉の向きを解っていたらしく、武人の耳の元に近づいて

「彼もこう言っているのです。今度は間違いなく、水の入った瓢をお持ちなされ。そうすれば、恩を与えられても、仇になることはありますまい」

と言い、武人はその言葉を聞いて拗ねたように

「お前も豎子ぼうずも、肝が据わっているものだ」

と吐き捨てて、少年の手から瓢を取り上げ、背を向けて水を取りに行った。

「すまぬな。わが帥は悪い性ではないのだが」

 儔は少年のもとに寄って、柔らかい口調で言った。少年はその身に着けている甲冑が凡そ似合わない其の態度を見て心を揺す振られ

「俺も、そうだと思います。庇ってくださり、ありがとうございます」

と、軽く腰を曲げて礼儀を示した。その様子に儔は感心した貌をして

なるほどなるほど

頷くと、

「私は姓をあざな隆汪りゅうおうという。そして、わが帥は姓をてい、字を建陽という。先は、失礼な真似をして申し訳なかった」

と、剣の柄に手を掛けたままではあるが、深い含意を感じる丁寧な言葉遣いで少年に謝った。

 少年も、この壮士の善意に応えなければならぬと思った。

「俺は、姓をりょ、名をと言います」

 少年の側からも、自らの名を明かした。すると、この儔

──以降、儔の李隆汪を本名の李植りしょくと記す──

は瞠目して、少年の躰を満遍なく見た。その後、さらに驚愕した様子をかおに浮かべながら

「男子よ、己の名は易々と人に教えることはあたわないことだぞ」

と諭すように言った。つまり、この李植という壮士は少年のことを一端の成年男子だと思っているということであり、それほどに育ったものが名を告げるとは何事だと告げたのである。

 この時期の中国地域では、成人したならば、名のほかに字

──つまりは通り名──

というものを持つのが通常であった。それは言葉に魂が宿るという宗教的常識の範疇の中で、己の本名を使った呪詛の類を避けるためであり、そのことを先の李植の言葉に当てはめると、そういった理解になるのである。

 少年は既に父に代わらぬ体躯を誇る魁偉さを持っていた。それでいて顔は母譲りで垢抜けていて、外から見れば、少年は錦帛と冠帯の類をつけていれば、名門の子弟にすら間違えられるような面構えであった。

 少年はかぶりを振って、これを否定した。

「では、歳は幾つなのか」

 と、李植が問うたのに対して、少年は

「正しく数えたことはありません。ただ、父母が申したことに則れば、俺はいま十を数えた辺りです」

と応えた。

 壮士は

──なんと奇特なことか

と思ったまま、その次には大変な偉丈夫を見つけたかもしれない、という高揚に駆られたのか、丁度そのときに瓢を持って帰ってきた武人

──この武人、丁建陽は本名を丁原ていげんと呼ぶ。以降、これに従う──

に向かって、

「帥よ、やっと戻ってこられましたか」

と、声を高くして言い放ち、そのもとに駆け寄った。

「なんだ、やかましい。水は確りと持ってきたのだぞ」

「それは、この男子に与えられると宜しいでしょう。それよりも」

そう言って、この主従は耳打ちにて会話をし始めた。最初、李植は丁原にこの少年の歳について話したらしい。丁原は、そんなことはあるまいという貌をしていたが、少年に水を渡すついでに

「お前は若く見積もっても加冠している頃合いだろう。まさか本当に十歳ではあるまいな」

 と、鼻でわらいながら話しかけたところ

「俺は、確かに十歳です。二十に達していたら、物の見え方から自分の歳くらいは判ります。でも、俺が覚えている限り、夏は七度しか着ていません」

と返されて、愈々いよいよ丁原は動揺して、口を浅く開いたまま

「本当か」

とだけ言って、李植の元に大股で歩いて行った。

 少年の耳には、この主従がどういったことを話していたのかを聞き取ることは出来なかったが、恐らくは自分の処遇についてどうするのか、というのを話し合っているのだろうことは想像に易かった。

 少年が水をふた口、瓢の半分まで飲み干した辺りで、二人は少年の元に近づいてきた。

「布。もしよかったら、俺たちと一緒に来るつもりはないか」

 丁原が言った。

「何処へですか」

 少年が言うと、

けい州。南陽郡は南郷県だ」

 と、答えた。

「俺の故郷、官吏として仕えている土地だ。もし、お前がついてくる気があるのならば、く扱ってやるが、どうだ」

 早い話、丁原はこの少年

──以降は呂布、という──

のことを、偉丈夫の見込みありとして、己の門下としようとしたのである。


 さて、丁原の所属について、短いながらに補足しておく。

 荊州はこの当時の都、洛陽らくようの南にある州で、南陽郡はその中で最も北にある郡で、南郷はその中心からやや西にある県の名前である。丁原の官吏としての所在に関しては、

「南県」

としかなく、その名の県がなく、かつ他の情報がない為に見当がつかない。故に前後に脱字があるとみられる。

 筆者が考える省略をするのに適当な条件として、都に近いという地理条件や、他の郡県の名前と似通らない、或いは言葉の理解に齟齬が生まれる文字が含まれる場合、というものを想定した。

 かつ、この時代の官吏登用の制度というものを勘案して南郷である、としているが、弓馬に卓越していたという人物像や、その粗略な人柄から、そこまで都に近いところの生まれだったのだろうか、という疑問もある。

 また、史書に記されていない部分にこそ真相がある可能性があり、そのことについては触れることが出来ないので、語ることは避けたい。


 その丁原の語る所に、呂布は魅力を感じた。少邑の生まれで、一生畑を耕し、狄に怯えて暮らすしか無いと思っていた己が、別の地で仕官することが出来るかもしれない、というのは、内在している野心を呼び起こした。

 しかし、呂布は同時に、己の故地から離れることが恐ろしかった。何にしろ、己の中にある精神的な帰郷心が、記憶の中にある小さな邑の姿を再び見たいと叫んでいた。その為には、この二人の下に追蹤していき、故地から遠く離れて、数多の年月を経て帰ってくるという行為が耐え切れないように思った。

「どうなんだ。答えろ」

 丁原は少年が口籠り、その言葉の出が遅かったことに苛立ったのか、荒い口調で言った。少年はこの言葉を聞いて、急に堰を切ったように

「荊に行って、俺の居た邑は再び興るでしょうか。俺は、そこまで往くことはできません」

と、激する心を抑えながら言った。丁原はその言葉を聞いて、

──俺が誘っているのに、したがわんとは

と気色ばむ余り眉を顰めたが、その丁原の貌色を見た李植は空かさず

「帥。彼は孝行に重きを置いているのですぞ。かのかばねをみなされ。彼の者は、きっと勇ましく戦って死んだのです。恐らくは、我々が討伐に来たえびすどもによって殺されたのでしょう。それは正しく、無辜むこの死なのです。なれば、孝子としてはその弔いを故郷に土を盛って三年修身するもの。この男児と父の忠孝に感じ入ってして此処まで連れてきたというのに、どうして賞賛することがあっても、うらむことがありましょうか」

と言って呂布を庇った。丁原はこの言葉を聞くと少年に

豎子ぼうず、お前は本当に、孝子か」

と残念そうにくと、呂布は己は今、噓を吐こうとしているのではないか、と少し考えた後に首肯して

「はい。俺は、この父のために土の山を気付くつもりです」

と言った。横にいた李植は、やれやれ、といった顔をして

「帥よ、なれば此の男児を九原の城に送り届けてやるのが良いでしょう」

と、丁原のことを諭した。

 しかし何を思ったのか、これに他ならぬ呂布自身が、反駁した。

「建陽様。俺は折角助けてもらったというのに、何も恩返しの出来ぬままに此の卒伍から離れるのは御免です。どうにか、恩を返す働きをさせてはくれませんか」

 この言葉は、李植の心も、丁原の心も脅かした。特に、李植は己が庇ったというのに、その面目を潰されたかのような形になったので、今度は李植の方が其の顔に不満の貌を表した。そして、今度は丁原のほうが晴れた顔をし始めた。

「そ、そうか。ならば、この土地の生まれであることを生かして、嚮導きょうどうでもして貰おうか」

 丁原は明るくそう言った。だが

「確かに、嚮導はしましょう。でも、それだけではまだ返せません」

呂布は丁原の出した案を、足りない、と言った。

「ほう、見上げたもんだ。ならば、兵士の糧食を管理でもしてくれないか」

 丁原はそう言って、呂布の肩をひとつ、軽く叩いた。しかし呂布は

「確かに、それもします。でも、それでも足りません」

といって、さらなる役職を要求した。丁原も李植も、あまりに業突張ごうつくばりだと思って

「そんなに多くのことを一遍に出来る者など居ない。お前には、他に目論見があるな」

と、呂布に問うと、呂布は眼を鋭くして

「俺を戦わせてください」

と言った。丁原と李植は、流石に驚天動地したというていで、呂布に詰め寄った。

「お前はまだ、十五にもならぬだろう。それなのに、戦わせろだと。馬鹿も休み休み言え」

 丁原はその風貌の通り、戦場を多く経験してきたのだろう。その言葉には理路整然とした正しさというよりも、気迫の籠った叫びが出たように聞こえた。

 呂布も、この気勢には押されたが、それでもその場で踏み込んで

「俺は、俺自身の手で仇を少しでも討たねば気が済まないのです」

と、まるで丁原の語気を跳ね返すように言った。それに大声で怒鳴りつけたのは李植であった。

「豎子。貴様の物分かりの悪さというものは救いようにもならんぞ。己を孝子であると言っておきながら、その社稷しゃしょくを継ぐという使命を忘れたのか。報仇雪辱ほうきゅうせつじょくもまた孝のみちいえども、己の置かれた立場を考えてから言え。この痴れ者が」

 呂布にとっては丁原より、李植に言われたこの言葉のほうが心に響いたが、それでも

──今の俺は、恐怖よりも怒気の方が勝っている

と思って

「矛をください。それで俺は、狄どもを斬って見せます」

と、よわい不相応な悍夫かんぷの気概を見せて、右手を丁原らの前へと突き出した。

 この頃になると、李植の怒声と呂布のわめきとで、周囲に野次馬のように兵士が群がってきていた。その兵士たちは

「なんだ、あの丈夫は」

「きっと、大層強そうな奴を大将が連れてきたに違いない」

と私語していたので、丁原と李植は

「持ち場に戻れ、きさまら」

と一喝したのち、それでも其の雰囲気に逆らえば兵士たちに在らぬ噂が流れるかもしれない、と危ぶんで

「ならば、矛をやる。しかし、その身を前に出すことは許さん。必ず、俺たちの後ろにいるように」

という提言の許しを得て、右手に矛を取り、再びその軍旅の中であかうまを駆らせ始めたのである。


 一行は九原の城に軍を入れ、そこで一晩を過ごすことになった。現地に調達したものは少なく、麦をかしいだ粥が振舞われたが、籾まで入れて煮たのか、幾らか臭かった。

 その臭い粥を食べてから、続々とみちの上で兵士たちは眠り始めた。

 呂布も、彼らがそうするように、右のひじを枕にして躰を屈め、眠りについた。呂布はこのふた晩、父の尸と共に寝ていた。そして、それはかつて邑の中で多くの人の存在を感じながら眠るのとは、勝手が違った。寒さが芯にまで沁みるというのは、このことなのかと思った。しかし、今は違う。軍旅に属する多くの兵卒たちの息遣いをその耳に聞き、いくらか置かれた熾火おきびの周りの温かさを感じながら寝るというのは、これまでのどの眠りよりも心地が良く感じた。馬が大きく、鼻を鳴らす。その鼻から吐き出された息すらも、呂布は嬉しく思った。

 あしたの光がまだ場内に差し込む前、空のあかいうちに兵卒たちは次々と起きだした。やがて一際身なりの良い老いた男が出てきて、手で何らかの指示を出した。そうすると

「起床、起床。進発、進発」

と言いながら、背に白い羽を付けた男が、地べたに寝転がった兵士たちの間を駆け抜けた。

 呂布の近くに、丁原と李植が歩んできた。

「出発ですか」

「分かっていることを聞くな」

 その口調は武人らしい、厳しいものになっていた。恐らく、昨日のような移動だけでは済まなかろう、と思って緊張しているのかもしれなかった。

 軍旅は日の光がまだ白くなりきらない内に九原の城を西の門から抜けると、そのまま西の方角に向かって歩を進め始めた。軍旅の最中は私語を禁じられている。それ故に黙々と、ただ足の左右を入れ替えながら黄色い大地を進んだ。

 景色に変化はない。そのことが、呂布にはどうにも辛い。頭の中に父や母との様々な思い出を巡廻させながら、必死に、その退屈に耐えていた。

 どこへ向かうのかも分からなかったが、訊くことも許されないだろう。父の尸は、九原の城外に埋めてきた。このまま連れていこうかと思ったが、既に異臭が漂い始めていて、もう故郷に連れて帰るまで持つまいと、南面した朱門の目立っている楼閣の下に、丁原らの許しを得て埋めてきたのである。

──結局、父には何もできなかったな

 その想いが、呂布の矛を握る右手の力を強くしていた。

 呂布の右の前には丁原が、左前には李植がいる。いずれも馬に乗り慣れていて、腰が振れていなかった。馬の腰の辺りからはゆぶくろが附いていて、そこには胡弓が入っているらしい。二人とも、仰々しい矛などの長柄の類を持たず、腰に刀を佩いているだけなのを見て、

──この人たちは、かあさんのような弓馬の遣い手に違いない

ということを呂布は推測したが、果たして、それがどの程度なのかは実際に戦ってみないことには判らなかった。

 陽が暮れ始めたころ、軍旅は急にその足を止めた。前方に、僅かだが明るくなっている場所がある。九原から僅か三十二、三里の場所ではあったが、こんな砂原ばかりで荒れている場所に火を焚いて休んでいる者など、凡そ賊の類に違いあるまい。

 卒伍の中でも見識のある者はそう判断して、すぐに戦に臨めるよう、その手を使ってを打たせる準備をさせた。

 彼方に見える明かりの主は、まだこちらに気が付いてないらしい。目算して、大体二里半ほどであろうか。ならば、急いで駆ければ鼓を百回打つ内にあの明かり元に辿り着けるはずである。

 斥候は出さない。勘付かれる。

 息を吞み、そして僅かに止めると

「進め」

と、軍の先頭に居たものが大呼だいこして、その声に続いて後に続く者どもは次から次に声の波を後ろに伝えていった。

 丁原の部隊に声が届いた時、呂布は誰にも負けぬように叫んだ。そして、馬の腹を思いきり蹴った。馬は進む。その赤白い毛を光らせ、一丸となった軍旅と共に、原野を馳せた。

 鼓が、百回鳴った。呂布の前の方からは、先までの喊乎かんことした声とは違う甲高い声が混じって、不気味に響いた。

 そのうち、丁原と呂布の部隊も火の在った処を踏み荒らした。空馬が何頭も暴れまわり、前後に錯乱して駆けずり回る中で、突如、呂布の右手にみみかざりをした男が刀を振り上げつつ現れた。躰に多くの血を浴び、必死の形相をしているこの男は、明らかに呂布を狙っている。呂布はその顔に恐怖を覚えながら、しかし己もこの地には朽ち果てまいと、力一杯に矛を突き出した。勁矢の如く突かれた矛は、見事、男の鼻面を貫いた。顔にひとつの穿孔を開けた男は、そのまま、仰向けに倒れた。

「おお、でかした」

 前方から丁原の声が聞こえてきた。丁原は右手に弓と矢を合わせて持ち、左手でたづなを握っている。

 粗方、兵が静まり、それが賊らが殲滅された合図となると、皆がひとところに集まった。

「呂布。大したもんだ。初陣で馬に乗ったまま、矛を持って賊を一人打ち倒すとは。耳鼻でも削いで、誇るのが良い」

 丁原はひどく嬉しそうにした。呂布が良い筋を持っていること、そして、己や李植の目が狂っていなかったことを喜んだのである。

「さあ」

 と丁原が言うと、馬から降り、また呂布も馬から降りるように導いて、呂布の討ち取った鐻の男の傍らに寄り、腰に佩いた刀を抜いて呂布に差し出した。

「首を獲るのだ。呂布」

 呂布は動顛した。

──俺が、この首をるのか

 そんなことは、当然したことがない。しかし

「さあ」

 丁原の戦後の昂揚感に由来する迫力に押されて、言われるがまま、刀の刃を、首に当てた。

「脚を使え。腕だけでは馘れぬ」

 その言葉の通り、呂布は足の裏を刀の峰に当て、思い切り踏みつけた。

 血がほとばしった。そして、少年の怪力によって、首の根から頭が落ちた。

「よくやった。これでおまえは、勇士の仲間入りだぞ。喜べ」

 丁原が首を掲げ、少年に差し出した。




 呂布が丁原の下に加わってから五日が経った。

 兵卒たちは途中の郷邑から補給を受けつつ、己らの持っているほじしほしいいの類を口に含み、飢えを凌ぎながら西へ西へと進んでいく。先に戦いに勝ったこともあったのに、何を求めて西に行くのかは全く分からなかった。兎に角、早く終わってほしい。そういった心持が、少年の中に芽生えていた。

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