十二

 そういった兆しを秘めていた少年は、三年の月日を経て、さらに躰を大きくした。

 身の丈は父と見紛う程になると、それに合わせて膂力すらも勁強さを増し、それは二百斤あるような大石ですら簡単に持ち上げるほどであった。

 もっとも、その要領に見合うほどの技を未だ体得するに至っていなかった少年は、その身で扱うには軽すぎる梗木こうぼくの棒を、自分なりの型を付けながら振り回していた。

 くさむらの中で少年が棒を振り回している。今は夏季である。日は長く、かつ射す陽光は炯炯けいけいとして白んでいる。普通であればこの日に焼かれる感じが堪らなく、辛抱を要するものであるが、しかしこの年の夏は、晩秋ではないかと思うほどに涼しかった。ときおり風が吹いても、それは夏らしい腥気せいきを孕んだ温いものではない。冷たい水を注ぎ入れるような風が、強く吹いていた。

 少年の背後から父が声を掛けた。

「またぞろ、畑に行くぞ」

 この三年のうちに、少年は

──父が自分のことをへいたいにしようとしているのではないか

ということに勘づいた。勿論、それは一方で正しく、一方で正しくない。父は、己の兒を頑強な人間としなければこの地で生きるには厳しかろう、と思っていたし、その一方で才能溢れる我が兒が武人としてどこまでいけるかを、その目で見てみたくもあった。

 そういった意味でこの父親は、いやしょうは、私人として己の兒をへいたいとしたいと思っていたし、而して、父親として自らの持ちうるものを授け、必ずや立派な人間に育て上げなければならぬと思っていた。

 少年としては、この父親の持つ組鑰くみかぎのような複雑な感情を理解するには及ばず、ただ一辺

──傀儡にはならない

という弱毒を心の中に抱えた中で、されど自らの好奇心には抗えないまま、鍛練を自ずと続けていたのである。

 父が、深刻な顔をしていた。

「父さん、どうしたの」

 少年は今まで手の内で操っていた棒を収めて、父に言った。

「今年の夏は涼しいな」

 父が言ったのはその一言だけである。故にどうしたのか、ということが少年としては訊きたいところであったが、冷夏がその悩みの根本であることは確かである。

 ただ、満足のいく答えが欲しい。少年は無智を前提として、続けて問うた。

「涼しいと、どうなるのさ」

 父は、眉間を絞って応えた。

「麦のえやみが心配なんだ。麦だけじゃなく、作物すべてに言えることだがな」

 確かに、疫が訪れて秕麦ひばくや枯れたまめばかりが採れてしまえば、食べるものが無くなる。単純に採れる量が減るだけならば良いが、官憲から求められる租税もまた、その年の収穫量ではなく、田畑の広さに応じて納めなければならない。そのことが自分たちの生活を苦しくするだろうことは、想像に難くなかった。

 しかしそれを聞いて猶、少年は今まで酷い飢饉と呼べるものに遭ったことがないせいか楽観的な節があった。故に

──なんだ、そんなことか

と浅薄な思考をし、気の抜けた返事をひとついたが、父の貌は本題はそこにはない、ということを示している。

「俺たちの土地で食いもんが採れないということは、他の場所でも当然採れないということだな」

 語りかけるような口調で、父は少年に向けて言った。

 少年は黙考した。そして草の擦れあう音がひとたび、尾を引くように鳴ると、それに釣られたかのようにひとつ、これを述すべきであるという文言が思いついた。

鮮卑せんぴ──」

 少年の口から出た言葉に、父は溜息を吐くことで応えた。その呼気には怫鬱ふつうつ憤怨ふんえんの情が確かに写し出されていた。

 しかし、父は悪意を持って襲来した闖入者に対して怯むことも、容赦をすることもない。そのような姿を見てきた少年からすれば、そこまで頭を垂れた父の姿に異常さを覚えた。

「こういう時にはあいつらも飢える。それは鮮卑だけじゃないだろう。匈奴きょうども、烏桓うがんも、きょうだって同様に苦しむはずだ。あいつらは群れる。群れて、必ず南を襲う。今はまだ良いが、秋になったら来るだろうな」

 父はそのあたりの経験が豊富であった。戦う相手、即ちえびすの行動原理を見る癖がついていた。その中で、今は漢に従属の姿勢をとっている匈奴も本は狄であり、都合によって必ずわざわいを起こす賊になるだろう、ということを体感していた。ふだんは妻

──即ち少年の母──

と共に暮らしている手前、そういったことを表立って言うことは無いが、しかし恨みというものは相当に持っていた。


 去年も邑の者が三人死んだ。寇掠によるものである。

 少年の父母や魏越が、そして勇気ある若人どもや兵卒たちが結束して、こういった蛮人どもを討ち払っていはいた。しかしながら小さな閭門りょもんのみを構えた郷邑の防衛に当たっては、どうしてもけつが出来上がる。死んだ三人は、たまたま防御線の外にあった畑にいた、老母とやもお、そして其の鰥の甥であった。

 邑内でこの三人が弔われた時、防衛に当たった者たちは其の全てが参列した。

 死を悼む、という意味合いは当然として、己の無力に決別をしようという心の動きでもある。

 この儀式には父老は当然として、本来は邑に縁もゆかりもない兵卒たちも加わった。本来の公的な役に従うのであれば、別に身を出す必要はない。しかし、古来より狄の襲来を数多く経験しているこの地では土地のことをよく知り、その社稷を司っている土着の父老たち力が強く、そういった意味ではたとえ官兵だったとしても、衙の長であったとしても、その意思決定の場に父老を抱き込まざる負えない。それだけで謂えば行動の遅延に繋がるとして厄介者だと言われるのが常ではあるが、しかし長年の寇掠によって頭脳が洗練されていた此の地の父老たちは決して余念なく、情報をあつめて狄の南下時期に備え、力の有る者を呼んで各々が郷邑を護っていた。

 そして何より、こういった父老たちは邑のことを考えてくれる官吏や、或いは身命を使って武器を取ってくれる兵卒たちに優しく、逆に私利のために動く輩には己が邑の者であれ、厳しかった。さらに言えば、そういう父老たちは事に当たって保身することがなかった。戦いの前線に出るわけではなかったが、前に立つ者を尊重し、そして責めを自らが背負う覚悟もあった。ある父老は

──不徳があれば、わしを殺せ──

と剛毅なことまで言って、周りにいる者どもの義侠心を震わせたこともあった。

 そういった筋張った態度は、古来より人望を求める者にとって必需であったが、この地の父老は期せずして、自然と体得していたといえる。

 そういった人物を、或いはその身内ともいえる人々を敬う心は、自然と部外者たる兵卒たちの心に根付いていたし、官衙の人々も様々に理由があって入れ替わることが多かったとはいえ、必ずその地の民を想えるものが選ばれていた。

 また或いは、家族を置いて遠方に来た者たちが其の姿を追慕して懐かしむ気持ちを、北辺の地の固い結束によって育まれてきた道義的な繋がりを貴ぶという人民たちの性が、巧く吸収してくれていたのかもしれない。

 しかし、そういった性があるからこそ、狄を恨む気持ちは巨大となる。明確に目標をもって我が兒を育て上げている分、少年の父は寧ろ、上手く御することが出来ている方かもしれなかった。

 狄が来るたびに誰かが死ぬ。それによって狼藉を働いたものが生き永らえることに憤りを感じるのは当然のことである。しかし何よりも

「──鮮卑どもがまた来れば、畑は終日ひねもす炎に包まれる」

という光景こそが、この父の胸をいたく締め付けていた。何かを怨むとき、自然と湧いてくるのは怒りではなく、むしろ悲哀である。

 それについて、己が何をすることもできなかった。ただ季節の輪廻の中で、畑を耕し、兒を育て、そして不意に、而して必ずや訪れる禍に心を忍ばせるしかないということはわかっている──

 煩悶とした表情を浮かべる父の横顔を見ながら、少年は家の戸口に棒を立てかけた。


 畑には既に少年の母がいた。麦のうち傷んでいるものは丁寧にひとつずつむしっている。その手際をるに、そういった麦の穂の数は、やはり冷夏の影響か多いようであった。

「水が落ちないね」

 母は低く呟いた。

 この時代は、確かに農作物の収穫如何は天に任せることが多かった。だからと言って萌芽から出穂しゅつすいに至るまでの全てを巫覡ふげきの舞踏に委託していた訳はなく、水気が多いほどに病みやすいということは畑を耕す者たちの常識であった。

「このままじゃ、今年は食い詰めるかもな」

 父が母に愁色を見せながら、そう言った。少年はこの父の言葉に、先の夷狄の寇掠という要素が掛かっていることを承知している。

「その時は官衙おやくしょだのみだけれど、いったい助けてくれるかね」

 母も本は鮮卑の生まれである。こういったときは北で狄たちが飢え、そして南下の準備を始めることは、嘗ての習慣を思い起こせば分かっていたであろう。故に、この助け、というのは決して食物だけでなく、軍勢による災禍の難を避けるのに、衙が手を貸してくれるだろうか、という心配が籠っている。

 父は腕を組んで

「実を言えば、この麦が一本も残らないほうが良いような気もしている」

と言った。母は瞠目した。父の後ろで聞いていた少年も

──父は悩む余りにふうにでも罹ってしまったのか

という疑念を抱いた。父はこの後に何も言わずに麦の病んだ所を摘み始めたので、少年はこの頓狂さに惑うばかりであったが、果たして、父の本意はそういった処には無かった。


 北の狄というものは様々な資源を求めて襲来する。それは例えば財宝の類である。例えば木材や鉄である。例えば畜獣どもである。そして、例えば人である。

 しかし、それらを求める行動の原資はあくまで食料であることに違いない。だからこそ、彼らはまず最初に麦菽ばくしゅく粟稷ぞくしょくの類を刈り取って、実は人の、藁は馬の食料としてぬすむのである。

 しかしながら、略奪の為に勇んで入った地が例えば場所が不毛の土地であれば、彼らは必ず困窮する。いや寧ろ、そういったものが無いと分かれば、そこに王侯の墳墓が在ろうとも其れを掘さずに通り過ぎて別の土地を拠点に略奪を始めようとするにだろう。つまり、まずは一度見逃されるのではないか。そうなれば、近辺の倉廩そうりんにあるたなつものに頼った上で、こちらが態勢を整える隙が出来上がる。足を掛けるような者が居なければ、あとは入り込んだ狄どもを背後から叩けば良い。

 この空想は、随分と都合の良い考えではあった。例えば幕下に於いて之を建議してしまえば、ともすれば相手の行動に依存しすぎた絵図であると批判の的にもなっただろう。戦の知識がある漢人であれば、目ぼしいものが無いと分かった途端に最低限の略奪をした後、元の土地に還るのが普遍の理である。

 しかし、己が見てきた夷狄どもは剽疾ひょうしつにして勇猛であることを何よりも貴んでいる

──そして、そうでない男子は排撃の対象であっただろう──

のだから、その精神性に背いて成果も無いままに退いていくような、部族の面子を潰す行動をすることは無い、という絶対の自信があった。彼の様な者たちはわらわれるのを極めて嫌う。進みすぎな程に進んでくるであろう、ということは推し量ることができた。

 しかし、父がそういう略図を描いていた時、母はまた違うことを考えていた。

 鮮卑が南下して漢の領土を攻略しているとき、その目的は領土侵略では無く、物資あるいは人的資源を回収することである、という旨のことはさきに話した。

 これは返していってしまえば、漢の地にとどまらなくて良いことを表している。

 鮮卑の前進気勢は言わずもがなで、そのことは少年の母親、即ちほうも認めることであった。しかしながら、鮮卑との戦いで専ら守備にあたっていた逢の夫、即ちしょうとは、その戦法の理解に差があったことは確かである。

 鮮卑は、というよりも遊牧民族全般が得意とするのは、錐のように戦陣に穴を開けるような豪胆な突撃では無い。寧ろ、常に接近と離脱を繰り返す一撃離脱を旨とし、或いは側撃を狙うような戦い方をする。

 松が戦うことの多い、郷邑を襲うような卒伍どもというのは、鮮卑という巨躰にとっては百万を住居させる蜂巣から一匹の蜂を放ったに過ぎないのである。つまり、彼らはなるべく多くの物資を窃盗することを命じられた決死隊であり、そういった者たちだからこそ、それこそ鋭い錐のように突貫の姿勢を見せるのが主だった。

 これがもし、百万の蜂を一斉に動かすような仕組みで戦を始めたならば、地に接している車輪のように一点のみを敵へと充て、そののちは回転するくるまのやで打擲するかのように攻め手を連打するのが常套である。こうした戦い方は、いざという時の遁走にも繋げられる、というよりも、そもそも根本に逃げを持つ戦法と言って良く、あえて敵陣に切り込むことはしないものである。

 さらに言えば、彼らは本心を土地に縛られない。後世に遊牧民族の国家が巨大帝国を建設する、その原理にも繋がるが、彼らは土地よりも血縁を重視する。なおかつ、農耕民族のような根張りの良い統治体制を好まず、まるで後世渡来する曼陀羅のような

──もっと言えば宮殿を建てるか城街を造るかの違いに似ている──

体制を好んだ。

 このことから制圧、という理念も、土地に固着化した者たちの考える、盤面を面として塗りつぶしていく感覚とは違い、彼ら遊牧民からすれば、線を結んでいき、発生した点が拠点となり、あるいは線の周りが仄かな領土として姿を現すものである、という理解が自然なようにも思える。

 この遊牧民の制圧理念は、中原に於いては大国同士が戦国時代に覇を競う際、自然淘汰された理解ではあったが、大平原の游泳を続ける、定住拠点を持たない彼らにとっては、未だに新鮮さを持っている素朴な観念であった。

 このことが表す要綱といえば、夫の松の描いた理念は、あくまで鮮卑の小部隊に対してのみ適応されるものであり、かつ戦を面として捉える中原民独特の感性で練られた戦図であった、ということである。あくまで戦を、土地に密接な関係を持った軍事行為である、と捉えているからこその発想と言えた。

 その点を、鮮卑の見方を知っている妻の逢が考えてみると、凡その場合はさっさと自らの範疇に素早く還るだけで、漢の地の奥地に攻め上がるようなことはしないはずだ、と考える。さらに言えば、もしも敵地の奥深くに行くようなことがあれば、それは大軍を率いているときであり、従来の小軍団での寇掠にも逼迫しつつ耐えてきた郷邑の防衛能力ではどうにもならない、城廓や官軍の戦力を必要とする大規模な戦に進展する事態にあるはずで、やはり、通り過ぎた後に備えればよい、というような楽観が通用しないはずだ、と思うのである。

 こういった意味では、あくまで外部者としててきた松と、その血の濃さゆえに内側をていた逢とでは、見え方が根本から違っていた。


 父母共々、その手を動かしつつも目の虚ろな様を見ていた少年は

──よほど深刻なことなんだ

と、今年の冷夏がもたらすと予測される寇掠を警戒した。

 とはいえ、なす術なぞ持ってはいない。

 故に、そのことを談じてみる為にも、翌日になって魏越ぎえつの家を一人で訪れた。

豎子ぼうず。おめえ、一人でどうしたんだよ」

 魏越は目と口を丸くして驚いた。その後ろに、魏貂ぎちょう魏続ぎしょくが手遊びを止めて少年を見ているのが伺えた。魏続は九つ、魏貂は十二になっている。

「いや、それが」

 そのまま、自らの父母が鮮卑の襲来を予期して、気を塞がせていたのだ、ということを魏越に話すと

「ふうん」

と、魏越は一声だけ挙げて腕を組んだ。少なくとも、全面的に肯定をする者の返事の仕方では無い。

「何か不満でもあるんですか」

 少年は魏越に、その気分の根源をただそうとして、少し砕けた言葉で言った。

「狄が来た後のことを考えてねえな」

 魏越は大事を心配している割には気が抜けている、と鼻哂する。少年は自らの父母が貶されたように思ったから、その顔を気色ばませて鋭くその顔をつめた。しかしそれにてられても、身命を賭した経験の多い魏越にとっては、蚊吻のようにも満たないものであった。

「あいつらが来たら、俺たちは逃げるか、戦うかしかねえ。もしこの寒さに託けてあいつ等が来るなら、金より食いもんを狙いに来るだろうことは間違いねえが、問題はどれくらいのおおさで来るかだ」

 そのことは少年も承知している。さきの色もあって、その後に来る文言を聞き急ぎたかったが、魏越の磊落な人柄に似合わない静かな口調は、少年の持つ其の衝動を抑え込ませた。

「すなおに言えば、俺と松がいれば百人力、と言っても、百人には勝てるわけがねえ。当然だ。ほんとうは二人しかいねえんだから。もし、それくらいに衆い狄を相手取れば無駄死にするしかないが、それは御免だ。だから、逃げなきゃならねえ。もし、そうするのなら家も何も捨てなきゃならねえが、それはなかなか難しい」

 確かに、故地を離れて生きることの難しさというものは想像を出来得るものである。移動するときの食料はどうするのか。そして、他の土地に着いたとして、自分たちが受容されるだけの余裕や気風があるのか。すべてが不確定で、動かなくて済むのであれば、それが一番良い。

「結局、てめえの家族のために何ができるのか。それが一番肝要だが、いざとなれば松の野郎は、自分の身を捨てようとしているのかもしれねえな」

 なんとも彼奴あいつらしいが、それでも命あってこそじゃないか。そうって魏越は小さく溜息を吐いた。

「豎子からも、あの馬鹿になんか言ってやれよ」

 魏越はそう言って恤懐じゅつかいの念を露わにすると

「逢も、自分からは言えねえんだろうな」

と、点滴が如く付け加えた。

 少年は父の躑躅てきちょくの正体は、ただ柔弱な精神を持っているからではないのだ、ということを魏越の口を通して聞いて、父たる者の信念は如何ぞということを知った。

 また一方で魏越という人間の洞察を信じた。彼も二兒の父親であるからして、恐らくは自らの持つ懊悩おうのうを、少年の父の行動を依り代として発散させたが故に、少年も

──この言には信がある

と受け取れるだけの気魄を付加させたのだろう。

 しかし、母の名がどうして今に出たのであろうか。少年はその真意に耳をそばだてんとして、魏越に其れを問うた。

「母さんには何か、袖をくものがあるんですか」

 少年からしてみれば、母も父に言って共に逃げれば良いではないか、というふうにている。それとも夫や子供に向けるよりも大きな感情が、この地にあるのか。それを思うと、得体の知れない不安が身を襲った。

「なかなか難しいことを言うな、お前も」

 その筈である。少年は、他人の口を借りて己の母に内在する沼の底を浚おうとしているのだから、魏越も言葉には窮するだろう。ただ魏越も、己の口の端から出た言葉が原因で生まれた少年の猜疑心を、己で摘まねばならない。

 己が言ったことが原因で、布という少年に間違った記憶を与えてしまうかもしれない。そのことをおそれながらも、魏越は己の推し量るところを少年に述べた。

「おめえの母親は鮮卑だろ。つまり、この地に来るのに既にふるさとを一回離れてんだ」

 魏越はこの時に、父の松が母の逢を拐かしてきたのだ、という事実は言わなかった。少年の心にそうやって強打を与えることは、己の家と、この少年の家族との関わりを考えると仁義にもとることだと考えたからである。

「既に一回ふるさとから遠ざかったのに、また遠くへ行かなけりゃならねえってのは、逢にとって、どう思うのが筋なんだろうな」

 魏越は少年に問いかけた後、少年のほうを見た。魏越なりに、少年に思いを巡らせようとして仕掛けた絡繰からくりである。

 少年は思った。己も家を棄て、畑を棄て、友を棄て、地を棄てて何処か遠くに行かねばならぬとしたら。そして帰れなくなり、その一生を望郷の念のうちに生きねばならぬとしたら、いつか胸が張り裂ける時が来るだろう。

 母もそういった激情を、心のどこかに含んでいるに違いないと。

 この魏越と少年が行った推測もまた、中原の民と遊牧民の間とでの齟齬そごがあった。

 その全てが間違っているとは言えない。ただ、望郷、という感覚が双方にあったとして、中元の民が思い浮かべるのは例えば、幼いころからあそんできた山である。また、秋が近づく度に色づく畑であり、そして緩やかな音を発する水の手である。

 いっぽう、ひとつの地に留まらない暮らしをする遊牧民の

「望郷」

を想像するのであれば、例えば浩々こうこうとした原野である。そして澄み貫けた蒼穹であり、横を駆けていく蒙古馬たちである。

 点々とある象徴物を貴んで胸裏に刻み付け、それを元手に心象風景の線描を始める中原人と、己のむ地の普遍性を愛して、それを元手に游泳人ゆうえいじんとの違いが有る、という風には言えないだろうか。

──思慕ちゅうげんに於中原おもいしたうに凡自準おおよそおのずからさ山河んがをなぞらえ思慕ほくへきに於北僻おもいしたうに凡望おおよそその其昊天こうてんをのぞむ

 とでも言ってみれば、間違いではないのかもしれない。

 兎に角、少年が母の持ち得ているであろううらみに気が付いた時、この磊落に見えて繊細な感覚を持つ魏越という人が言った通り、少年が背負っているものは多大であろう、ということを自認するに至った。

 それは、ただ己の持ち得る胆力と膂力をもって自立しなければならない、というだけの意味ではなく、己が家族の持つ、自身の両脚のみで支えられぬ部分を委託されるような人でなければならない、という利他の責務である。

 しかしそれは同時に、少年に対してわらわであることを忘れよ、という宣告をされたにも等しかったかもしれず、そこから出たであろう悪癖がれついた性癖として出てくるようにはなってくるが、今はまだ関係がない。

 しかし、ただ一個、少年がこのとき思ったのは

──家族というのは難しいな

という、おおよそ生きる者にはよくあるような、平凡な感想であった。


 魏越からの金言を受け取って我が家に帰ろうとしたとき、魏続ぎしょくが声をかけてきた。

 少年がよく構っている内に、いつの間にか立派に弟分となっていた。遊ぶ時には、その背の後ろをいていくことが常になるほど、よく懐いていた。

 その魏続が何用なのか。少年は足を止めた。

「兄さんは、今日は父さんだけに用事だったの」

 むろん、その通りではあるが、己に構ってくれと言わんばかりの魏続の様相に、少年は困った。

 魏続は、最初に会った時こそ、物静かで内に籠るような薄弱兒であった。しかしながら、それは己の世界に入り込み、他者の欲求に対しての蒙昧になりがちだ、ということの裏返しで、仲が深まってからよく話してみると、その決壊せん程の承認欲求に辟易としたことがあった。

 はっきり言えば、少年は魏続が苦手である。いや、嫌悪しているといっても差し支えない。

 それは、よくあるような同族嫌悪というものではなく、己と行動や発想が違いすぎて相容れない者との距離感の話であって、少年にとって、魏続はどうにも近すぎた。

 年月によって和らいだとはいえ、未だに少年とは精神を隔絶するきらいのある魏貂と、押し黙った状態で隣り合うほうが、まだ居心地が良いと感じるほどである。

 しかし心の底から少年に馴れて、今まで人に懐かなかった反動で心酔の情をも見せ始めている魏続少年にとっては、そんなことは何も関係が無いことである。

「こんど馬に乗るときは、もう少し遠くまで行こっか」

 嬉々として話す彼を、少年は無碍には出来ない。


 魏続と少年が一年ほど前に撃鞠をやった時の話である。

 少年は魏一家に会って以降、馬術に関心を持っていた少年は、撃鞠を真剣にやった。そうすると、躰操作に於いては一貫して天賦の才が在った少年は、見る間に上達し、二年経つ頃には、見栄えだけで言ったら魏越にも劣らないほどになっていた。

 そういった少年にとってみれば、そういったものを持ち合わせていない魏続の腕前というものは至らないものであった。

 故に、少年は撃鞠で撃ち合う際には手加減をしていた。あくまで遊戯である、という本分を忘れない為である。

 少年は軽く、魏続の前に落とすようにして石を撃った。狙い通りに落ちた石は、今度は魏続が打つことになった。このとき魏続は少しばかり馬を小走りさせて、背の後ろから強く棒を振るい、石を撃ったのである。

 甲高い音が鳴り、少年の方へと飛んできた石は、恐らく魏続が思ったよりも高く飛んだ。そして、少年の頬に当たった。

 いきなり走った鈍痛と、当たった箇所に本能的な焦りを感じた

──もう少し上にあたっていれば、少年の目が潰れていたのだから当然である──

少年は、

「なにしやがんだ、てめえ」

と、魏続に向かって大音声で怒鳴りつけた。

 余りに大きな声であったから、遠くからすぐに魏越と魏貂が慌てて駆け寄ってきた程である。駆けてきた二人が少年を見ると、顔には紅い擦り剝けが出来上がっていた。

 魏越はすぐに状況を理解して魏続を叱り、少年を慰めた。魏貂もまた、珍しく少年を気に掛けた。

 しかし、その時の少年の眼から見えていたのは薄ら笑いを浮かべていた魏続の姿であった。

 この時、魏続がどういった感情であったかは分からない。動揺の余り、思わぬ動きをした一瞬がその顔であっただけなのかもしれないし、茫然としていたせいで意図していない顔貌が出たのかもしれない。

──それとも、本当に笑っていたのかもしれない

 歳柄、多感さを持ち始めていた少年は不気味さを感じた。

 そしてそれ以後は其の光景が根を張り、少年の縛縄となって、魏続を突き放すことができなくなってしまったのである。

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