十
「不本意だけど、頼むぞ」
父は明朝になって、
魏越は少年の背を押しながら、そう言っている父の姿を見て
「俺も不本意だけど、受けてやるよ」
と返して
言った後に
──本当に俺の子を育てる意思はあるのか
などという懸念も生まれはしたが、腕は確かなものだから、そこだけを信用して少年を数日ばかり、魏越のもとに
「よし
魏越に、
一人は堂々と真ん中に座って場所を
──だいぶ、ちがうな
と少年は思った。恐らくは母の背に隠れたのが下で、堂々と座っているのが上なのだろう。
「今日から
魏越は二人に言葉を
座っている方は少年を
少年も言葉が見つからず、ただ魏越の家族たちを
そうしていると、魏越の妻が
あまりに強く叩いたせいで、その子は
「あ」
と小さく言っただけで固まってしまった。
少年は、このままではどうともできないから
「今日からよろしく」
と
このままで終わらせることもできず、次は真ん中に座っている方に声を掛けてみる。
「俺は
名前を知らないことには会話も
ところが、今度は何も言わないままに、顔を少年から背けてしまった。
──これじゃ、どうしようもない
少年は、己の
家長たる魏越も、己の家族のあまりにも
「すまねえな、豎子。俺が後からきつく言っとく」
と少年に謝ったあと、それぞれの名を、少年に教えていった。
まず魏越の妻の名は
もとは
「豎子も見たことがあるだろ、
蓀といえば、紫色の特徴的な
魏越の表情を観るに、名に
その魏蓀の後ろに隠れていた
歳頃は少年と同じではあるが、
この魏続という少年も、父たる魏越から見て
「
らしいのだが、生まれ持った
そして真ん中に座って、少年に睨みを利かせていたのが
だいぶ愛想が悪かったのと、屋内の暗がりとで、少年は男だろうと思っていたのだが、魏越の娘であるという。
魏越が前に
──
と言ったのは貂のことで、確かにちゃんと見れば、少年の母とは違う、目鼻立ちのかなりくっきりとした、
魏貂が姉で、魏続が弟。
魏越
少年としては、歓迎されないこの空気を、どうにかしたいと思っていた。
魏越の方は
「そんなに気にすんな。俺らのことは俺らでやる」
と言って、少年と
「いっしょに畑に出たい」
少年は魏越に申し出た。
魏越としても、少年の申し出を断ってしまっては信に
魏越の畑は、少年の家の畑よりも半里ほど離れた
少年の家が麦や
麦などは寒害や
疫なぞは天運であるから、どうしようもない。だから寝て待つしか無いのだが、菽に沸く虫というのは人の手で何とか抑えることができる分、
この日も、少年が魏越の家に入って早々ではあったが、
やることといえば、他の畑と同じように無駄な草を抜き取ることと、傷んでいる菽の葉を
少年も、父母が
少年の横に、魏蓀が肩を並べてきた。
「ごめんね。さっきは構えなくて」
いきなり謝られた少年は
「俺もいきなり来たので」
と
魏蓀は少年の
「あなたみたいな子が、
などと冗談めかして言う。
少年としては
──そんなことは無いだろう
と思ったのだが、家に入った時の、何とも言えない雰囲気を味わっていたものだから、魏蓀は苦労しているのだろう、と
そのあとも、黙々と畑仕事を続けて、日の色が変わってきたところで魏越の家に帰った。
けっきょく話ができたのは、魏越を除けば妻の魏蓀だけで、子に当たる貂と続には、声を掛けることはおろか、近くに寄ることも叶わなかった。
躰の疲れはいつもと変わらないが、心が疲れた。
これが少年の、きょう一日での所感である。正直に言って数日居るあいだ、あの敵意が向け続けられると思うと気が重い。
この日は
翌朝、昨日に感じた疲れが思ったよりも大きなものだったのか、
外を見ると、すでに日が
家の中を見回すと、もう魏越の家族らは外に出ているようだった。
これで
少年は慌てて
「よく眠れたの」
畑仕事をしている魏蓀は、
「起きられなくて、ごめんなさい」
申し訳なさそうな顔を少年は向けたが、魏蓀は気にせずに
「こういうこともあるよ」
とだけ言って農作業に戻った。
畑を見てみると、貂と続は昨日と同じような感じで、畑の
「あいつらはいつもあんな感じだから、気にすんなよ」
後から、息を切らしながら少年に追い付いてきた魏越が、そう言った。
昨日の今日で、あそこまでの険悪さを、
魏越夫妻は
今日も少年は少し離れたところで、
「人手が増えると、そのぶん楽になるな」
魏越は、畑仕事が早く終わったことに喜んだ。
少年が不真面目ならば、ここまで言われることも無かっただろうが、生来、案外に真面目だったから、魏越の子らよりも多くの菽の面倒を見ていた。
「うちの子がこんなに素直だったら、もっと良いんだけれどね」
魏蓀が近くに居る続と貂を、小突くように言った。
当然、彼らは面白くないといった
少年も
──そう言わなくても
とは思った。
だが褒められたことは素直に嬉しいし、二人の不服そうな顔も
笑ってしまった少年の顔を見れば、二人の不機嫌はさらに増すというものである。
家に帰ろうというときには、続のほうは少年の顔から目を
──手の早い奴だな
少年は魏続には、さほど悪感情を寄せなかったが、暴力に訴えかけてきた魏貂のことは
しかし、せっかくの魏越の好意を、いっときの気の迷いで無駄にしてしまうと、父の名にも傷が付く。
だから少しばかり拳を強く握るだけで、耐えたのである。
魏家の
少年自身のこともそうだが、少年の父母にも話題が及んで、鍛錬の内容から普段の暮らしの様子まで、
夫妻が投げかける言葉には熱があって、答えるだけでも少年は疲弊していったのだが、更に
構って欲しいが、臆病ゆえに己の口から言葉を出すことができず、ただ
いきなり入ってきたくせに、両親の好奇の目を一身に受けている少年に対して、
二人とも無言で少年を見ているが、視線から受ける印象というものは全く違う。
ただ、どちらの視線からも、少年にとっては
少年が
「布ちゃんって可愛い顔をしてるわよね」
少年は己の顔を見たことが無い。だから何も返す言葉は無かったが、確かに己の父母からも
──お前は母似だ
とは言われていた。
少年の母は、
だが邑の外から来る人がいれば、男も女も必ず
「豎子は女みたいな顔してるからな。とはいえ、男としても容姿は邑で一品だ」
魏越は少年の肩の肉を触りながら、誉めるように言った。魏蓀も納得して
「まあ、女としては家の娘が一番だがな」
そう言うと、魏越は
先日の父との会話といい、この発言といい、やはり魏越は己の娘の容姿に、相当の自信を持っているらしい。
「そこまで言うんだったら、お
魏蓀が
後ろにいた魏貂は不意を突かれたのか、驚いた顔をしたが
「そんなことするかよ。娘は俺らだけのもんだ」
と魏越が強く言ったのが良かったのか、少年がこの家に来て初めて、柔らかい笑顔を見せた。
魏家に来て、三日目の朝を迎えた。
厚い雲が空を覆っていたが、外に出る分には
これまでとは違って、魏続が少年の近くで草を
魏貂は相も変わらず距離をとっていたが、まずは弟の方が、己の臆病を
ならば、思い切って声を掛けてみるべきか。
少年は思い立って、魏続の近くに立った。
「おまえの親、良い人だね」
魏続の目線に合わせるように、しゃがみこんで話しかけた。
魏続は話しかけられたことに驚いて躰を
「僕の父ちゃんは、いちばん強いんだよ」
小さく低い声で聞き辛かったが、言葉に揺るぎないものがあった。
魏続という少年にとっては、魏越という父親の姿は偉大なようである。少年もその心が分からないでは無いから、微笑を
「それに母ちゃんは優しいんだ。すぐ
確かに、初めて顔を合わせた時に、魏蓀は己の息子の背中を思いきり叩いていた。
あれを思い出すと、そういった行為に抵抗の無い人なのは
「俺がいきなり来て、怖かったでしょ」
魏続に感じた不憫さが、口を
憐れむ気持ちというよりは、
だが、このひと言が魏続に内在する、少年への印象というものに影響を与えたようであった。
ここに来て、初めて真っ直ぐと目を合わせてきたのである。
「うん。でもいい人だね。よかった」
魏続の声が柔らかくなった。これまであった壁が、少しは取り除かれたのかもしれない。
初めて話をする相手には、どんな心持ちであろうと勇気がいるもので、この時の少年にとっても、魏続とのやり取りが爽快だったから、満足する気持ちがあった。
昨日まで気を張っていたお陰か、畑に関する作事は
そうなると日中に多く時間が余ったので、魏一家と少年は、初めて畑の外で行動を共にすることになった。
古代中国における
少年は、多大なる好奇の目で見つめていた。
少年の
少年にとっては見慣れたところで、よく母と共に馬を駆らせてもらっていた
「ん、おまえは」
着いたときに、ちょうど厩で馬を
「よう、
魏越が厩の男のことを、聞いたこともない
「丁」
という名で呼んだ。
ふだん呂家の人間は、厩で馬を世話している男のことを、名で呼んだことはない。母の呼ぶ
「あんた」
という他者を指す一般名詞か、少年の呼ぶ
「お兄ちゃん」
という年上の男性を指す言葉でしか、この男のことを称したことは無いからである。
この辺りの人との関わり方という意味では、魏家のほうがより社会体系化された上で、
逆に言えば呂家のほうは古代的かつ素朴な、
少年は感覚の差異を認めたが故に、初めて厩の男の事を
「丁さん、よろしくお願いします」
と名前で呼んだ上で、
厩の男は、ときどき馬を借りに来る者どものことをよく知っていて、彼らが馬を悪用したことなどは風聞にも聞かなかったし、増してや馬を
そういった人間に対して、いつもより一人(こちらもよく見知っていた呂家の少年)が増えたからと言って、あっさりと断るような冷淡さを持ち合わせていない男は
「わかった。
と柔らかく言って
「今日はどこまで行くんだ」
丁という男は、馬の
「今日はそんなに遠くに行かねえさ。邑のすぐ
魏越が
少年はこの言葉のうちの、小突く、という言葉に反応して
──魏家の人は、みな騎馬戦を
と思った一方で、暴力的な
馬が二頭、連れ出されてきた。
「
丁は念を押すように言った。
魏越もそのことは重々承知している、という風に一度だけ首を縦に振り、馬の
二頭のうち、ややいきり立っている
比較して大人しいほうの
少年は、馬の尻を追いかけていくだけ、というのも申し訳が立たないので
「俺が轡を
と言ってみたが、魏越には
「俺たちに合わせて貰っとるんだ、慣れないことはさせられねえ」
などと言われたし、何より駽を引いている魏貂の目が鋭く、少年を
魏越は低く声を上げて馬の気勢を
「豎子、てめえは馬の乗り方も
などと言った。
突然の言いつけであった。
連れ立ってきた二頭の馬は、いずれも轡はあれど
「いいから、まずは乗れ」
魏越が肘を差し出してきた。
要は、馬に乗るのを助けてやるから、ここに膝を
目上の者にここまでされれば、少年も
「ほう。豎子、なかなか
魏越は、素直な
ただ魏貂だけはそうでなく、
不穏に思わねば
そうすると目がやや上向いて、遠くを
「背もとんと立ってらあ。こりゃあ、教え甲斐がありそうだ」
魏越が笑って言うと、己の子供たちに棒を持たせ、驄の
そして何の支えもなく、驄に飛ぶようにして乗った。
魏越の動きは、がっしりとした腰回りからは想像がしがたいほどに軽いものである。
「よっしゃ。
そう言われた魏貂は投げるようにして、魏越に一本の棒をくれてやった。
「あぶねえな」
魏越の口ぶりから察するに、いつもはもっと丁寧に手渡すらしい。
一方、少年のほうは何も持っていなかったが、魏続の方が父の動きから
ただ一言
「がんばってね」
と、ぼそりと言いながらであった。
いま、この場には
地に立っている二人の子は、ただ近景を望んでいるばかりで動かず、また馬上にいる二人のうち片方は、後の情景を脳裏に浮かべることが欠片もできず、目線を
この光景を目にした他者が第一に思うのは、騎馬した者どもが撃ち合う姿である。
当然、当事者たる少年の
──あの人と戦って勝てるわけがないだろう
それが、少年の所感である。
少年が
しかも、得意とするのは騎馬での戦いであった。
ここで思い切って突っ込んでみたとしても、きっと棒を振る素振りも見せぬままに、少年は地に
魏越からも、そういった緊張が少年の顔相に映し出されていることを、感じていたらしい。
少年を
「豎子、そう固くなんなよ。これからやんのはちょっとした遊びだ」
魏越が言った。
だが少年からしてみて、言葉を
だいいち、馬を駆ることに関しては母より教えられていたが、その上で棒を
つまり、不慣れなままに何かを
こうして、歳の割には姿を堂々とさせていたものの、心に迷いがあった以上、腰が引けていた少年に対して魏越が馬を進めてきた。
「ま、ちょっと見とれや」
そう言うと魏越が馬を駆け足させて、十五歩ほどの距離を少年から取ると、棒を地に向かって円弧させた。
高い音が鳴ったかと思うと、少年の乗る馬の脚下に何かが落ちた。
下を覗いてみると、握り拳に
いきなりのことであって、果たしてこの行為が、魏越の言っていた「遊び」に当たるのか、という疑問はあった。
とはいえ、意味も無く
少年が魏越のほうに向かって、問いかけるような視線を送ると、魏越は嬉しそうに
「打ち返せよ。そうでないと
と大声を上げた。
撃鞠とは、いわゆる
馬の背に乗った者たちが、場内を駆け巡り、
馬球は
そこから
「
の
「連翩撃鞠壌、巧捷惟万端」
という文章が、中国古代世界に於いて、馬球に当たる
「撃チタル鞠ハ壌を
即ち
「撃った鞠は地の上を不規則に跳ね、その様は軽やかで(鞠に彫り込まれた)種種の絵柄を見せている」
と言っているに過ぎず、馬に乗っているとも、棒を使っているとも書かれてはいない。
この十字は、鞠の様に合わせて、以前の華美な生活を
その事実があってなお、本文中で
「撃鞠」
と称したのは、あくまで
さて、魏越によって撃ち込まれた石礫の行方を目に留め、そして打ち返すように要請された少年は、馬を僅かに斜めに歩かせると、石を自らの身の左側に置いて、棒を振り被った。
この間にも、馬は落ち着いて静止することをせず、背を揺らしていたが、少年は
──今だ
と思ったその時に、一気に棒を後ろ側から振り下ろした。
高い音が鳴り、目の先にあった石が飛んでいく。
少年は魏越の側に向けて弾いたつもりだったが、目で追えた石は大きく左側に
魏越は驚いた顔を見せず、むしろ
──そんなものだろう
と納得している顔を以って、少年を見ていた。
父と母に武術を習って、多少なりとも技量に自尊心を持っていた少年は、逸れていった石を見て、己の下手糞さに落胆した。
しかし、魏越の表情を目の端に見たことで、その心を
「最初はどんなに達者でもそんなもんだ」
近寄ってきた魏越がそう言った。
どれだけ己の
少年は
ひとつの石に収束していた視界を広くさせると、横にいた魏続と魏貂が確かに見えた。
魏続は未だ、己の自我を確実さを以って保持していなかったから、少年の失敗を見ても貌色を、意思めいて変えることこそ無かった。
対して魏貂のほうは口の端を上げていた。明らかに少年に優越の情をもっていたことが、わかる
そのことを父たる魏越も認めたらしく、果たして二言目に
「貂、続。俺は布と話してっから、お前らでやっとけ」
と、
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