『ダイバー』

宮本 賢治

ブラックパープルメンソール   第1話

 『鼻が利かない男』


 匂わない。

 鼻が利かない。

 同調率99%

 驚異的な数値だ。

 おれは同調率が99%を切ったことがない。

「管制室、まだ、鼻が利かない。

どうなってる?」

 左耳のハンズフリーイヤホンに向かって話す。

「同調率は99.89% 

ホストは完全にスリープしています。

問題はありません」

 抑揚のない平板の女性の声。

 コンピューターが作り出した疑似人格のオペレーター。

 クールな対応しかしない。

「それだけの数値が出てて、五感に支障をきたすのか?」

「時間の経過とともにさらに同調率が上がれば、問題は解決すると思われます」

「クソッ」

 思わず吐いた呪詛の言葉にオヤジが反応した。

 おれは左耳のイヤホンを指差した。

 オヤジがうなづき、作業に戻った。

 屋台のラーメン屋。

 日が落ち、夜風が身にしみ、明かりに引き寄せられた。

 寡黙なオヤジが一人でやっている屋台。

 おれ以外に客はいなかった。

 オヤジがお湯の中から丼を取り出してフキンで拭き、台に置いた。

 赤に白い縁取りが入った丼。

 使い込まれている。

 内側の縁に描かれた龍がかすれている。

 丼に醤油ダレ、香味油を入れ、湯気の立ったスープが注がれる。

 たまらない匂いが辺りに立ち込めているのだろう。だが、おれは何の匂いも感じられなかった。

 カウンターの隅にあったカゴからゆで卵をつまんだ。

「これももらうよ」

 カウンターに卵をカツンとぶつけ、殻を剥いた。

 固くゆでられた、純然たる

 ハードボイルド。

「お待ちどお」

 目の前に置かれたラーメンはオーソドックスな醤油ラーメンだった。

 バランスのよい脂身が入ったチャーシューが一枚。

 メンマに刻んだ長ネギ、グルグル模様のナルト、丼の縁には海苔が一枚添えてある。

 そして、澄んだ醤油スープには適度に油球が浮いていた。

 ポチャン。

 殻を剥いたゆで卵を丼に入れた。

 レンゲを取り、スープを一口。

 熱いスープが胃に注がれる。

 スープの通り道から体温が上がっていく感覚を感じた。

 割り箸を割って、麺を引き上げると、一気に湯気が立った。

 麺をすする。ストレートな細麺。噛むとプツンプツンと歯応えがある。

 ラーメンは好みのタイプだった。しかし、匂いがしないせいで味がまるでわからなかった。

 半分以上残した。

 味のしないラーメン。

 そんなの、あごの運動でしかない。

 内から体を温められた。 

 ポカポカする。

 それだけで、良しとしよう。

 暖簾をくぐって、店を後にした。

「管制室、まだ、鼻が利かない。

どうなってる?」

 左耳のイヤホンに向かって話す。

「同調率は99.90% 問題はありません」

 抑揚のない平板の女性の声が答えた。

「クソッ」

 人間の体はデリケートだ。

 ときには0.1%が重要なこともある。

 鼻が利かないせいで、ラーメンが楽しめなかった。おれはこの時代のラーメンが大好きなのに。

 オペレーターなんてしょせん、ただの機械だ。おれたち、ダイバーのことなんて何も気にしてはいない。

 夜風が冷たい。前を開けていた黒い革コートを閉めた。

 左腕のダイバーズウォッチを見た。

 針は9時を示していた。

 さて、まずは装備を手に入れなきゃな。

 おれは夜の街に向かって歩き出した。


 第2話へ続く

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