第19話 ダイブ
天を衝くようにそびえる稜線、その頂に旧国立AR研究所は亡霊のように佇んでいた。
灰色の雲が空を覆い尽くし、山全体が巨大な石棺の中にいるかのような閉塞感に満ちている。
その研究所の上空、物理的な実体を持たないAR空間が、まるで致命傷を負った獣のように断末魔を上げていた。
赤と黒のデジタルノイズが空間を裂き、データの欠片を撒き散らしながら、不規則かつ暴力的に明滅を繰り返している。
それは、まるで世界の境界線が悲鳴を上げているかのようだった。
「ここが……」
眼前に広がる光景に、アオは乾いた喉からかろうじて言葉を絞り出した。
隣でハルが、手元のスマートフォンの地図アプリと警告を放つ『関係者以外立入禁止』の看板を険しい目つきで見比べる。
そして、彼女は力強く頷いた。
「うん。間違いない。レイさんがいるのは、この旧研究所の第二実験棟。――そして、兄である影山一輝さんが、あの事故に遭った場所」
ハルの震える指が示す画面には、施設の詳細な見取り図が青白く浮かび上がっていた。
いくつも存在する部屋の中で、ただ一つだけ、警告するかのように赤くハイライトされている。
『402号室』。
全ての悲劇が産声を上げた、呪われた場所。
二人は視線を交わし、言葉なく頷き合う。
ひび割れたアスファルトの急な坂道を、もつれる足で駆け上り始めた。
一刻も早く、レイの元へ向かうために。
苔と蔦に覆われたコンクリートの壁は、まるで世界の終わりを告げる城壁のようだった。
アオが先に手をかけ、ハルを引き上げる。
そうして二人は、忘れ去られた施設内へと息を殺して侵入した。
そこは、完全に時が止まった空間だった。
アスファルトを突き破って生い茂る雑草が、朽ちかけたベンチや用途不明の研究資材を静かに飲み込み、全てを自然へと還そうとしている。
聞こえるのは、湿った風が木々を揺らす不気味なざわめきと、自分たちの荒い息遣いだけ。
だが、スマートフォン越しにレイヤーを重ねたAR空間は、現実の静寂を嘲笑うかのような地獄絵図だった。
『警告:致命的なデータ破損エリアです』
『危険:お使いの端末及び使用者に予期せぬ影響を及ぼす可能性があります。直ちに接続を解除してください』
無数の赤いエラーメッセージが、現実の風景に焼き付くように点滅している。
かつては訪問者を笑顔で出迎えたであろう研究所のマスコットキャラクター――ウサギを模した愛らしいポリゴン――は、今や見る影もなく崩壊し、顔だった部分には空虚な穴が空いていた。
それは、虚空を睨みつける骸骨のようだった。
「こっちだ。第二実験棟は、この奥」
ハルのナビゲーションを頼りに、雑草の海をかき分けて進む。
やがて二人は、敷地内で最も大きな建物の正面玄関へとたどり着いた。
強化ガラスは粉々に砕け散り、自動ドアだったであろう金属フレームの残骸が、巨大な獣の顎のように大きく口を開けている。
その闇の奥から、カビと埃、そしてオゾンの匂いが混じった、淀んだ空気が吐き出されていた。
アオはゴクリと唾を飲み込み、スマートフォンのライトを点灯させる。
一条の光が闇に差し込むが、その深さを際立たせるだけだった。
ハルも、それに倣った。
二筋の頼りない光が、暗闇を切り裂いていく。
「行くぞ」
「うん」
短い言葉を交わし、二人は覚悟を決めて、廃墟と化した研究施設へと足を踏み入れた。
内部は、想像を絶する光景に支配されていた。
ライトの光が揺れるたび、打ち捨てられた事務机、床一面に散乱したカビの生えた書類、そして壁に染みついた赤黒い不気味な染みが、次々と闇から浮かび上がる。
天井からは剥き出しのケーブルが無数に垂れ下がり、まるで巨大な生物の神経網の中を歩いているかのようだった。
二人の足音が、がらんとしたエントランスホールに不気味に響き渡る。
一歩進むごとに、過去の残響が足元から立ち上ってくるような、息の詰まる緊張感だった。
「きゃっ」
突然、ハルが何かに躓いて短い悲鳴を上げた。
アオが慌ててライトを向けると、そこには、白いシーツがかけられたままのストレッチャーが横倒しになっていた。
躓いた衝撃でシーツが僅かにめくれ、その下から錆びた金属の部品の一部が覗いている。
ここが単なる研究所ではなく、人を使った様々な実験も行われていたであろうことを、それは生々しく物語っていた。
「大丈夫か」
「う、うん。ごめん」
強がってはいても、彼女の肩が小刻みに震えているのが分かった。
アオは何も言わず、ハルの手を強く握った。
冷たく、汗ばんだ手。
だが、その確かな温もりが、恐怖に蝕まれそうな心を、確かに支えてくれた。
ハルの解析したマップを頼りに、迷路のような廊下を進んでいく。
壁にはいくつもの部屋があったが、どれも固く閉ざされているか、内部がきれいに撤去されているかのどちらかだった。
やがて、二人は、一つの扉の前へとたどり着いた。
辺りは掃除されており、廃墟とは思えない。
扉も他の扉とは違い、真新しい。
プレートには、こう記されている。
『402』
ここだ。
扉には、人が一人かろうじて通れるほどの隙間が空いていた。
そして、その隙間から、この廃墟にはあり得ないはずの青白い光が、心臓の鼓動のように明滅しながら漏れ出している。
二人は、息を殺して顔を寄せ合い、そっと内部を覗き込んだ。
そこは、かつて白衣を纏った科学者たちの聖域だった場所。
部屋の中央。おびただしい数のケーブルと接続された巨大なコンソールサーバーの前で、レイが黒衣の姿のまま、まるで眠るように体を横たえていた。
だが、ARデバイス越しに見える光景は、常軌を逸していた。
彼女の身体は、コンソールに接続された無数の赤いデータの結晶体――フラグメント――から放たれる光の奔流に包まれ、その輪郭が足元から徐々にデジタルな粒子へと変換されていく。
現実の肉体が、情報の世界へと書き換えられていくのだ。
そして、彼女の背後には、空間そのものが引き裂かれて生まれたような、巨大なデータの渦が荒れ狂っていた。
色とりどりの光と、意味不明な文字列が高速で流れ込む漆黒の穴。
AR世界の最深部――ディープ・レイヤーへのゲートが、完全に開いていた。
儀式は、最終段階に入っている。
彼女は、自らの存在そのものを犠牲にして、この世界ごと、暴走した兄の意識を消去するつもりなのだ。
「レイ!」
アオが、思わず叫んだ。
しかし、その声は彼女には届かない。
レイは、光の柱の中で、どこか安らかな、それでいて悲しげな表情を浮かべたまま、ゆっくりとゲートの中へと吸い込まれていく。
もう、物理的な干渉は不可能だ。
コードを抜けば彼女の意識も情報の海を漂うことになる。
彼女を止めるには、ただ一つ。
「私たちも……行くしかない」
アオの震える呟きに、ハルは、こくりと強く頷いた。
その瞳から、先程までの恐怖の色は消え失せていた。
レイを止めるためなら、自分たちもまた、あのデータの嵐の中へと飛び込む。
その覚悟が、彼女の瞳に宿っていた。
アオは、部屋の隅にある機材ラックにダイブ用ヘッドセットが数台、残されているのを見つけた。
事故当時、外部からの観測用に使われていたものだろう。
彼は、そのうちの二台を乱暴に手に取ると、埃を手で払い、分厚い接続ケーブルを、火花を散らすコンソールの補助ポートへと無理やりねじ込んだ。
「ハル。これを」
「うん」
アオからヘッドセットを受け取ったハルは、一度だけ、ぎゅっとアオの手を握りしめた。
その力強さに、彼女の全ての想いが込められているようだった。
「……絶対に、一人で行かないでよ」
「当たり前だろ。二人で、レイを連れ戻す」
二人は、覚悟を決めて、近くにあったストレッチャーへ互い違いに横になり、ヘッドセットを装着した。
冷たいプラスチックの感触が、額に生々しく伝わる。
視界が、完全に闇に閉ざされた。
聴覚だけが異常に研ぎ澄まされ、荒れ狂うデータのノイズと、隣にいるハルの必死な息遣いだけが、世界の全てとなった。
アオとハルは、ヘッドセットのパネルに震える手を伸ばし、深呼吸一つした。
そして、ダイブ開始のスイッチを、強く押し込んだ。
『CONNECTION START』
その無機質な女性の音声ガイドを最後に、二人の意識は、肉体という檻から、荒々しく引き剥がされた。
凄まじい浮遊感が、脳髄を直接掴んで揺さぶる。
いや、浮いているのか、沈んでいるのか。
上も下も、右も左も分からない。
目も、耳も、肌も、全ての感覚器官が意味を失い、膨大なデータの奔流へと分解されていく。
光の洪水。
情報の嵐。
名も知らぬ誰かの、歓喜と絶望の記憶の断片。
それは、世界の理が及ばぬ場所。
AR世界の最深部。
人の意識が触れてはならない禁断の領域。
データの嵐の中、深く、深く。
アオとハルの意識は、一つの儚い光となったレイを追って、どこまでも、どこまでも沈んでいった。
物語は、全ての始まりであり、終わりである場所――ディープ・レイヤー、最終決戦の地へ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます