第12話 守るための嘘

 レイとの危険な共闘が始まってから、二週間が過ぎた。

 アオの日常は、静かに、しかし確実に蝕まれていた。


 夜になると、決まってレイから、次の出現ポイントを示すメッセージが届く。

 閉鎖された地下道、解体予定の雑居ビル、打ち捨てられた工場の廃墟。

 古いデータが澱む、街の澱のような場所で、アオはグリッチとの戦いを繰り返した。


 その成果は、確かにあった。

 グリッチを倒すごとに渡される、あの小さな光の欠片。

 それを吸収するたびに、ピックを蝕んでいた黒いノイズは、ほんのわずかずつだが確実に薄れていった。


 弱々しかった光は、以前の輝きには遠く及ばないものの、確かな力を取り戻しつつあった。

 その事実だけが、アオの心を支える唯一の光だった。


 しかし、その光とは裏腹に、アオ自身の心身は、闇に沈んでいくようだった。

 夜通しの戦いで、睡眠時間は削られていく。


 グリッチとの対峙で神経はすり減り、常に張り詰めた緊張が彼の思考を鈍らせた。

 目の下の隈は日に日に濃くなり、鏡に映る自分の顔は、まるで知らない誰かのようだった。


 日常と非日常の境界線は、もはや曖昧になっていた。

 教室の窓から見える、昼間の穏やかな光景。

 友人たちの楽しげな笑い声。


 その全てが、まるで分厚いガラスの向こう側で起きている出来事のように、ひどく遠く感じられた。


「……天野。おい、天野!」

 

 教師の鋭い声に、アオははっと顔を上げた。

 いつの間にか、授業中に意識を失っていたらしい。

 クラスメイトたちの、訝しげな視線が突き刺さる。

 

「す、すみません……」

 

 力なく謝罪するアオの姿に、教室の空気が、わずかに揺れた。


 休み時間、クラスの中心グループの一人が、心配そうに声をかけてきた。

 

「天野、最近どうしたんだよ。なんか、ヤバくね?」

 

「……別に、なんでもない」

 

「今度の日曜、みんなでカラオケ行くんだけど、お前も来いよ。たまには息抜きしねえと」

 

「……ごめん。その日は、用事があるから」

 

 そう言って、アオは机に突っ伏した。

 友人たちの輪から、自ら距離を取っていく。

 もう、彼らと同じ世界を、同じように笑うことはできない。


 その事実が、鉛のように重くのしかかった。


 そんな彼を、ずっと、黙って見つめている視線があった。

 

 星野陽菜――ハルだ。

 彼女は、何度もアオに話しかけようとしては、そのあまりに憔悴しきった横顔に言葉を呑み込んでいた。

 

 あの日、酷い言葉で彼女を突き放してしまった。

 それ以来、二人の間には気まずい空気が流れ続けている。

 

 それでも、ハルはアオを心配していた。

 ただの内気な幼馴染が、少し疲れているだけ。


 そんなレベルの話ではない。

 何か、得体の知れない大きな問題に、彼が一人で巻き込まれている。

 ハルの直感が、そう警鐘を鳴らしていた。


 

 ---


 

 その日の放課後、アオは、逃げるように一人で教室を後にした。

 誰とも顔を合わせたくなかった。

 ただ、家に帰って、少しでも体を休めたかった。

 

 自宅へと続く、見慣れた坂道を、重い足取りで登っていく。

 夕日が、彼の影を長く、頼りなげに地面に伸ばしていた。

 

 家の門の前に、人影が見えた。

 その姿を認めた瞬間、アオの心臓が、どきりと大きく跳ねた。


「……ハル」

 

 ハルが、スクールバッグを抱きしめるようにして、そこに立っていた。

 彼女は、アオの姿を認めると、意を決したように、まっすぐに彼の目を見つめた。

 

「……どうしたの、アオ」

 

 その声は、震えていた。

 

「最近、アオ、本当におかしいよ。学校でも元気ないし、いつも上の空で……。お願いだから、教えて。何があったの?」

 

 ハルの言葉の一つ一つが、アオの胸に突き刺さる。

 言えるはずがなかった。

 ARゲームのバグに襲われて、夜な夜なそれを退治しているなんて。

 信じてもらえるはずがない。


 それ以前に、この話をした瞬間、彼女の平穏な日常は終わる。

 あのグリッチが、今度はハルを標的にしないと、誰が言い切れる?


「……別に、何も」

 

 アオが絞り出したのは、あまりに無力な、いつもの答えだった。

 その言葉が、ハルの心の堰を決壊させた。

 

「嘘! 嘘だよ! そうやって、誤魔化してばっかり!」

 

 彼女の瞳から、大粒の涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。

 

「私、知ってるんだから! アオが、夜中にこっそり家を抜け出してるの! あんた、どこに行ってるのよ!? 私に何か隠してるでしょ!」

 

 涙ながらの詰問。

 彼女の純粋な心配が、アオを追い詰めていく。

 このままでは、彼女はきっと、納得するまで引かないだろう。

 いつか、僕の後をつけて、あの危険な場所にまで来てしまうかもしれない。

 それだけは、絶対に避けなければならない。

 守らなければ。

 そのためには、もう、選択肢は一つしか残されていなかった。


 彼女の心を突き放すしかない。

 僕のことを、心底軽蔑させ、もう二度と、関わりたいと思わせないように。


 アオは、心の内で、ぐっと奥歯を噛み締めた。

 そして、全ての感情を殺し、氷のように冷たい声で、言い放った。


「……うるさいな」

 

「え……」

 

「お前には、関係ないだろ」


 それは、アオが放つことのできる彼女を傷つける言葉だった。

 ハルの顔から、表情が消えた。

 瞳から涙が流れ続けているのに、その顔は、まるで能面のように何の感情も映していない。

 

 信じられない、という絶望が、彼女の心を支配していた。

 二人の間に、痛々しいほどの沈黙が落ちる。

 やがて、ハルは、自分の頬を伝う涙を乱暴に手の甲で拭った。

 そして、絞り出すような掠れた声で言った。


「……そっか。関係、ないんだ」

 

 彼女は、自嘲するようにつぶやいた。


「もう、アオなんて、知らない!」


 ハルは、そう言い残すと、アオに背を向け、泣きながら走り去っていった。

 

 その小さな背中が、夕闇の中へと消えていくのを、アオは、ただ立ち尽くして見送ることしかできなかった。

 

 良かった。

 これで、良かったんだ。

 彼女を、守ることができた。


 そう自分に言い聞かせても、胸に空いた穴は、どうしようもなく、冷たい風が吹き抜けていくだけだった。


 一人になったアオの足元で、ポケットの中のスマートフォンが、短く震えた。

 慣れた手つきで取り出し、画面を見る。

 レイからのメッセージだった。


『次が、最後のフラグメント。覚悟を決めろ』


 最後の、フラグメント。

 

 それが終われば、ピックは、元に戻るのかもしれない。

 けれど。

 アオは、走り去ったハルの背中が消えた、夕闇の道を、もう一度、見つめた。


 ピックを救っても、失ってしまったものは、もう二度と、戻ってはこない。

 

 もう、あの賑やかで、少しだけ騒がしかった、穏やかな日常には。

 戻れないのだ。


 アオは、その事実を静かに受け入れていた。

 スマートフォンの冷たい光が、彼の表情のない顔をくっきりと照らし出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る