こっちを向いて

平瀬ほづみ

第1話

 その日、ふたご座の運勢は二位で悪くなかった。


 高校に入学してひと月ほどたった、五月のある昼休み。

 沙紀は財布を手にばたばたと本館と北館の間の渡り廊下を目指して走っていた。

 目的地は目の前だが、時すでに遅し。


「ああ……これはもう……」


 黒山の人だかりが見えてきて、思わずうめき声がもれてしまう。

 食堂のないこの高校では、近所のパン屋さんが渡り廊下で調理パンを販売してくれるのだが、数に限りがある。パンを手に入れたいのならスタートダッシュが肝心なのだ。

 けれど、沙紀は出遅れてしまった。

 すべては数学の吉野先生が悪い!


 ――でも、元をたどればお弁当を忘れた私が悪い……。


 昨夜は調子に乗って、期間限定で無料配信中のアニメを一気見してしまった。気が付いたら深夜二時をまわっていたのだ。そのせいで今朝は寝坊してしまい、あわてて出てきたから朝ごはんは食べ損ねるし、お弁当は家に忘れてきてしまった。


 耐えがたい空腹を自販機のジュースでごまかしつつ、待ちに待ったお昼休み。

 チャイムと同時にダッシュするつもりだったのに、数学の吉野先生に呼ばれて「藤村、おまえクラス委員だったよな? 課題のプリント配り忘れたから、配っといて」と雑用を押し付けられてしまう。


 そんなのあとでよくない!? と思ったものの、一部の女子が「藤村さーん、プリントちょうだーい」などと声を上げるものだから、委員長体質の沙紀は無視もできずに、すでに昼休みの雰囲気で席を立ち始めたクラスメイトの机にプリントを配って歩いたのである。


 時間としては五分程度の遅れだが、財布を握り締めて渡り廊下に駆けつけた時にはもう……。

 沙紀は、泣きそうになった。

 案の定、黒山の人だかりができている。

 これをかきわけてパンを……かきわけて……


 ――無理……!


「藤村さん?」


 不意に名前を呼ばれ、顔を向けると、すぐそばに見覚えのある男の子が立っていた。背は高くもなく低くもなく、顔立ちも優しげではあるが大きな特徴があるわけでもない。


 ――えーと、誰だっけ。


 同じクラスだったと思う。けれど、名前がわからない。


「藤村さんもパンを買いに?」


 彼が気さくにたずねてくる。向こうが沙紀の名前を知っているのは、クラス委員をしているからだろう。


「あ、うん……。お弁当、忘れちゃって」


 おぼろげにしか覚えていないクラスメイトから親しげに話しかけられる居心地の悪さを感じながら、答える。


「珍しいね」


 彼はそんな沙紀の様子に気付いた風もない。


「……うん。寝坊して、あわてていたから」

「へえー。藤村さんでも寝坊することあるんだ」


 彼が少し驚いたように言う。

 沙紀は曖昧に微笑んだ。


***


 沙紀には優等生のイメージがついている。


「お姉ちゃんがいれば安心ね」


 これは沙紀を縛る母の褒め言葉だ。

 母に褒められるのが好きだった。

 まわりに頼りにされたかった。

 あなたがいれば安心ね。さすが藤村。沙紀ちゃんすごい。

 そう言われるたびに「私はここにいていいんだ」と思えた。


 だからまわりの顔色を見て、率先して「褒められること」をやってまわった結果、小学生の早い段階から先生にしっかり者だと思われ、学級委員や代表の役がよくまわってきた。

 褒められたい沙紀は断らなかった。

 その結果、沙紀にはしっかり者の優等生というイメージが定着した。


 でもいつからか、そのイメージが自分を苦しめるようになった。少しでも「らしくない」振る舞いをすると、「委員長のくせに」「藤村さん、そんなことしちゃだめだよ」なんて言われてしまう。他の人なら何も言われないようなことでも。


 時間がたつほど、よそいきの自分と本当の自分との間に距離ができて苦しくなっていた。


 けれど、今さらなのだ。

 今さら、やめられない。

 それが築き上げてきた沙紀のアイデンティティだから。


 沙紀自身は、自分のことをあまり優等生だとは思っていない。

 本当に優等生なら、平日の深夜二時までアニメを見たりしない。ちゃんと自己管理できる。自分は偽物の優等生だ。あるいは優等生のふりをしているだけの凡人。


***


「そりゃ、私だって人間だもの」

「あ、ごめん。気を悪くした? なんか、完璧なイメージがあったから。安心した」

「安心?」


 彼は頷いた。

 話しやすい人だ。沙紀を色眼鏡で見てこない。

 こんな人が同じクラスにいたんだ。今まで知らなかったなんて、なんだか損した気分。

 それはそうとして、パンを買わなくては。名残惜しいけど、昼休憩は短い。

 ちらりとパン売り場に目を向けた時だった。


「いる?」


 再び声がした。

 思いがけないセリフに、沙紀は驚いて視線を戻した。


「え?」


 彼が差し出すのは、パン屋の白い紙袋。


「でも、あなたのお昼でしょ、それ」

「弁当はあるんだ。これはデザート」

「デザート!?」

「そう。だから別にいいよ」

「けど……」


 沙紀がためらっていると、彼は紙袋から「これは頼まれたやつだから」と、ひとつだけパンを抜き取って、残りを差し出した。


「今から行っても、たいしてパン残ってないし」

「でも」

「だったら今度、ジュースおごってくれたらいいよ。パン代プラス、ジュースで」

「わ、わかったわ。それで、パンはいくらなの?」

「ひとつ百円。端数はいいよ」

「あれ、藤村」


 ふと背後から声がして、沙紀は振り返った。


「大木くん」


 そこにいたのは背の高い男子生徒。沙紀も知っている人物だ。手には紙袋を抱えているから、大木もパンを買いにきたに違いない。由比を待っていたのだろうか。


「藤村もパン買いに来たの? って、由比、おまえ、買えなかったのか?」


 紙袋を手にしている沙紀と、パンをひとつだけ手にしている由比を見て、大木がたずねる。


「そう。だから藤村さんからひとつもらった」


 由比が手にしたパンをひらひらと大木に見せびらかす。


「うわー、セコいことすんなー、おまえ」


 大木が自分の紙袋からひとつパンを出して、沙紀の袋に入れた。


「由比がたかったぶんね。さーて、さっさ帰らないとオレらの弁当が危ないなあ」


 そう言って、大木は由比と連れ立って足早に教室へ向かった。

 沙紀はぽかんと、その二人をその場で見送ることしかできなかった。


***


 教室に戻ると、すでに大木と由比は友達数人と机を引っ付けて弁当を広げていた。


 ――本当だ、お弁当持ってきてる……。


 それも沙紀のものよりずいぶん大きな弁当箱である。


「パン買えた?」


 驚いていたら、友達のみっこが声をかけてきた。


「あ、うん……」

「ずいぶん買えたのね。よかったじゃん」


 沙紀の抱えている紙袋を見て、みっこが目を丸くする。


「由比くんに、その、代わりに買ってもらったの」


 沙紀は手にしたパンを机の上に並べて、ちらりと教室の片隅に目をやった。


「由比?」


 みっこも知らなかったのか、首をかしげる。

 沙紀にしたって、さっき大木が彼のことを「由比」と呼んでいたから名前がわかったようなものだ。


「へえ、優しいね。沙紀狙いなのかな。沙紀ってほら、美人だし頭いいしスポーツできるし?」


 みっこが意味深に笑う。

 小学生のころからの友達であるみっこは、沙紀が決して優等生でないことを知っている。優等生然としている沙紀をどこかからかっている節もある。


「……そうじゃないよ。たぶん、誰にでも優しいんだと思う、よ」


 そんな気がする。

 沙紀はもう一度、教室の片隅に目を向けた。

 友人たちと談笑しながら昼食をとっている由比がいた。

 さっきから、何度も見てるのに。


 ――こっち、見ないな……。


 なんだか少し、がっかりする。


***


 その日の夜。

 沙紀は新学期になってすぐに配られたクラス名簿を引っ張り出して、眺めた。

 男女別、五十音順に並んでいる出席番号をたどる。由比……男子の一番最後。

 由比健助。


「健助っていうんだ……」


 声に出して呟いてみる。

 由比健助。

 ゆい、けんすけ。

 ちょっと古風な名前だけれど、うん、いい響きだ。


***


 次の日から、沙紀はそれとなく由比の観察を始めた。

 由比は決して目立つタイプではない。クラスの中ではその他大勢になってしまう男の子。きっとあの出来事がなければ、由比の存在に気づかないままだったと思う。

 けれど、よくよく見れば女子生徒からもよく声をかけられていた。人当たりが柔らかいからだろう。

 友達もたくさんいた。多くの人に気軽に話しかけられては、笑顔で返事をしている。

 由比は目立つタイプではないが、好感が持てるタイプだ。


 ――私もあんなふうに話しかけてみたいな……。


 休憩時間。黒板を消す作業の手を止めて、沙紀は教室の隅に目をやる。後ろのドアのすぐ近くが彼の居場所。

 穏やかな空気が漂っていて、すごく居心地がよさそう。


 由比が仲良しの友達と話しているところに、クラスの女の子が声をかけて会話に混ざる。

 ぼんやりとその光景を見つめる。

 由比が、その女の子に顔を向ける。沙紀のいる場所から二人の会話は聞こえない。二人とも笑顔だ。


 小さな小さな波紋が胸に広がる。

 不意にここから逃げ出したい気持ちが込み上げる。

 でも指先ひとつ動かせない。

 この衝動の理由がわからないから。

 それを抑える理性のほうがまだ大きいから。


「沙紀、どうしたの? ほんやりして」


 友達の一人がいきなり目の前に現れる。

 驚いて沙紀は黒板消しを握りしめたまま後ずさり、そのまま教壇を踏み外してしまう。


「きゃあ!」

「沙紀!」


 とっさに友達が手を伸ばすが、沙紀には届かなかった。

 沙紀はそのまま派手に最前列の机に突っ込んでいった。


「大丈夫、沙紀!?」


 友達の叫び声と大きな物音。

 沙紀はしたたかに打ちつけたわき腹を押さえながら、体を起こした。

 クラス中が沙紀に注目しているのがわかった。


 ふと顔をあげたその先、教室の後ろ、ロッカーにもたれるようにして友達と話していた由比も例外ではなく、驚いたような表情でこっちを見ていた。

 恥ずかしい。

 顔が赤くなるのがわかった。


 ――落ち着きのない子だって思われたかな。間が抜けてるって。


 そりゃ、本来の自分は落ち着いてもいないし抜け目がないわけでもないけれど、これじゃコメディだ。

 情けない。なんだか無性に悲しくなった。

 由比には情けない姿しか見られてないような気がする。

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