第28話 静かに広がるもの
南部地域にある小領地に始まった経済圏は、気づけば一つの大きな潮流となっていた。
「また新しい男爵家が加わりました」
「これで五十を超えるな」
「当初は笑っていた者たちまで、今では物資の安定を頼みにしている」
領主たちの会合は、いつしか「定例会」と呼ばれるようになり、互いの工夫や余剰を持ち寄ることで、小さな領地でも暮らしに安定をもたらしていた。
農村の若者が笑う。
「余った麦で焼いたパンが、別の領で飛ぶように売れるなんて!」
商人が頷いた。
「道が繋がり、荷が滞らぬ。昔は想像もできなかった」
そんな南部地域の繁栄は、やがて王都の耳に届き始める。
「南の人口は三百五十万。そのうち百五十万が既に経済圏に属している、と?」
宰相であるアスクル・ハイデンスの執務室に報告を持ち込んだ官吏は、声を潜めた。
「はい。単なる商業同盟ではなく、思想的な結びつきがございます。民の生活安定を旗印に、各領主が協調している模様です」
宰相は黙して報告を聞き、しばし沈思する。
——五十を超える小領が、これほど短期間に歩調を揃えるはずがない。
その背後には、資金を回す商会か、かつて中立を保ったラフォンデ侯爵家の系統か、あるいはデルヴァス辺境伯家の残された血脈か。
「——誰かが見えぬ糸を引いている」
ラフォンデ侯爵派、デルヴァス辺境伯派出身の官僚たちもまた、影で囁き合っていた。
「放っておけば、奴らが我々の派閥にまで、そのうち口を出すぞ」
「芽のうちに摘むべきだ。だが……妙にまとまっている」
誰も声高には言わぬ。だが、南部に芽生えた第三極が確かに育ちつつあることを、中央の誰もが意識し始めていた。
「——となると、思想的な集まりではなく、一つの経済圏の創出。やはり出店ラッシュの、エルダルフェーン交易公社商会絡みか」
宰相は報告書を閉じ、鋭い視線を窓の外に投げた。
「面白い。関連官庁の担当者を交えた商業座談会形式で、主賓として呼ぶか。呼べ——あの若き子爵を」
こうして、中央と南部の邂逅は避けられぬものとなった。
★ ルーカス、王都へ行く
宰相のハイデンスは、就任三年目となる十八歳の若き子爵を前に、いくつかの社交的言葉を交わしたのち鋭い視線を投げかけた。
「貴殿のいう『豊かさ』は、二百万人が限界だとか」
その言葉は、既に宰相が南部で進む改革の核心に触れていることを示していた。しかし、子爵は驚く様子もなく、柔らかく微笑む。
「はい、宰相様。ただ、それはあくまで──『今、ぎりぎりで暮らしている者すべてが健康に、明日を安心して迎えられる』という条件を満たした場合の、一つの目安に過ぎません」
宰相の眉がわずかに動く。子爵は淡々と続けた。
「南部地域全体の人口は約三百五十万人。そのうち、我らの経済圏に属するのは百五十万ほど。かつて彼らの多くは、明日食べられるかも分からぬ、『飢えが常態』の中で生きていました。しかし、その『飢え』の不安を減らし、余剰を共同倉庫に回せば、飢餓は制御可能です。そうすれば二百万人までは、少なくとも数日は『飢え』のない暮らしを約束できる、と私は考えております」
それは挑発でも誇示でもなかった。まるで天気の話をするかのように自然で、その平静さが宰相を逆に驚かせた。
「なるほど……。だが、それほどの改革を、子爵家だけで成し得たと?」
宰相の声音には試すような鋭さがあった。
青年は、少し悪戯っぽく目を細めた。
「残念ながら、我が家の力では到底及びません」
「——。」
「この考え方は、すでに同盟する五十を超える男爵家にも共有しております。彼らもまた、自領で工夫を凝らし、領民に『明日の安心』を与える仕組みを築いているのです。私たちは決して独りではありません」
その言葉は、宰相の胸に重く響いた。
一人の天才の思いつきではない。すでに広範なネットワークがあり、背後に見えぬ支えが存在する──商会。
(もしこれが、ただの地方の若造の独創であれば……まだ扱いやすかったものを)
宰相の沈黙を破るように、ルーカスが言葉を紡ぐ。
「商人である師の教えにございます──『善良な野次馬を集めよ』と」
「——野次馬?」
「はい。最初は興味本位でも、やがて彼らの中から忠臣となる者が現れる。様子見をするような下心ある野次馬は、配慮と透明性を使い分けていればよいと」
宰相は片眉を上げた。子爵は淡々と続ける。
「敵にも種類があると。『理解できぬ者』『納得しない者』『通じぬ者』『そもそも話を聞かぬ者』──そうした相手には一度だけ言葉を投げ、あとは放っておけと」
「放っておけ、か」
「はい。救うのは自分の役目ではなく、彼らを束ねる派閥の長、——-南部地域であれば、デルヴァス辺境伯様か、あるいはラフォンデ侯爵様——の本来のお役目です。もし、それでも耳を貸さぬなら、政治的意思形成からは退け、商会との契約のように、安全と信頼を担保する取引先として扱えばよいと」
それはまるで、台本を読み返すかのように淀みなく、しかし熱を帯びぬ口調で語られた。
宰相は思わず息を呑んだ。
少年の面影をかすかに残すこの青年は、権力にも名誉にも執着してはいない。ただ民の生活を土台に、労働と幸福を循環させる仕組みを築こうとしている。その思想は既に辺境に根を下ろし、王国の未来図そのものを揺るがす。
「——貴殿は面白い。だが同時に、厄介だ」
宰相は椅子に深く身を沈め、視線を鋭くした。
「さて──その背後に誰がいるのか。次はその意図を確かめさせてもらおう」
★ 昇爵カードとダンジョン鉱山採掘権
座談会が一段落したあと、宰相は書類の山から目を上げ、冷静な声で問いかけた。
「南部地域の経済圏、確かに理解した。だが、貴殿の領地が起点であることに疑いないな」
子爵は微笑んだ。
「はい。私どもは、各領地の男爵家、そして商会の協力あってのことです。私一人の力では、とてもここまでには至りません」
宰相はその言葉を静かに噛みしめ、やがて視線を鋭くした。
「なるほど——では、そもそも貴殿がここに呼ばれた理由は、思想ではなく商業的な構造の確認か」
子爵は頷き、机の上に一枚の書簡を置いた。
「実は、これも関連します」
それは姉からの手紙を転写したもので、婚約破棄後の知恵が込められていた。
「姉上は、当時、セドラス・ラフォンデ侯爵殿から一方的に婚約破棄を告げられました。そのタイミングで成人した私に領主としての役目と経済的な優先順位の手順書を残してくれました。私もその指示を受け、今回の提案を形にしています」
宰相はその場に沈黙を置き、やがて口を開く。
「一方的か、聞き及んでおらぬが、事実であれば法的には賠償の必要もある——よって侯爵家を呼び出し、説明と正式な手続き処理を行うよう約束させよ」
「かしこまりました」
宰相は官僚にこの件を指示し、手元の書簡に対して、目を細めた。
「——なるほど、背景に確かな知恵があると」
子爵は静かに切り出す。
「さて、本題です。南部地域にあるダンジョンの採掘権について、私どもが一括して管理することもできますが、今回はいったんは王都へお預けいたします。オークションで採掘権を販売なさっていただければ、グリムヴァルダンジョン前にある商会の精錬工場にて加工・販売を任せることも可能です」
宰相は眉を上げる。
「確か、前回のダンジョンオークションは王国白金貨120枚だったか」
「はい。そのうえで、落札額は王国法に基づき、王家にも…」
子爵は慎重に続ける。
「法によれば、三割を王家、七割を各領地に配分する形となります。わが領地は王都とをつなぐ街道のインフラ整備に活用でき、街道沿いに商いをする市場と宿場町を整備する予定です。雇用も生まれます」
宰相は書類を手に取り、じっと考え込む。
「なるほど——貴殿は、政治的にも経済的にも王家に利益を保証する一方で、実務は商会と領地が回す、と」
子爵は軽く頷いた。
「はい。この方法なら、王家にも損はなく、商会や人手の足りない領地も協力しやすくなります」
宰相はしばらく沈黙したあと、柔らかく口元を緩めた。
「——アリア殿、姉上は健在か?」
子爵は微笑みながら答える。
「はい。表には出ておりませんが、文を交わすことは可能です」
「そうか、王都でも王国一の麗しの姫と、20年も前からうわさが途切れぬ」
「20年ですか、私が生まれる前から『絶世』は在ったのですね、身近にいると眉つばですが」
宰相は苦笑いしつつ頷き、書類をまとめる。そして、深く息をつき、ついに口を開いた。
「——この成果を見れば、単なる子爵では物足りない。貴殿には、伯爵への昇格を打診せざるを得ない。王家への利益と南部経済圏統合の手腕、そして商会調整の能力——すべてが評価される理由になる」
子爵は静かに頭を下げる。
「光栄に存じます。王家の利益を損なうことなく、領民と商会が協力できる仕組みを整え、伯爵としての責務を果たす所存です」
宰相は書類をまとめながら微笑む。
「よかろう。商会への書状や協力依頼も含め、正式に進める。王家としても、これほどまでに南部経済を整備し、納税額を増加させた者を高く評価せざるを得ない」
こうして、ルーカスは昇爵カードを提示し、ダンジョン採掘権の扱いと税配分を通じて、政治・経済双方での信用を確保した。南部経済圏の統合、姉の知恵、商会との協力体制——すべてが、王都における新たな評価と伯爵昇格への道を開く瞬間であった。
★ 歴史の語り部
宰相との会談ののち、ルーカスは一冊の本を差し出した。
「商会の創業者、宗次郎殿が残していったものです。『王政の下で起こりうる王家と王国の歴史的なリスク、そしてその対処法』を記した記録でございます」
宰相は興味深げにそれを受け取り、表紙に記された題名を見て目を細めた。
『王政中央集権国家の存続と限界 ― 王国編 ―~国家を支える者へ』。
それは、宗次郎が世界各地を回った商人の目で、王政の盛衰を描き出し、延命の道筋を冷静に論じた書物だった。
数頁を繰った宰相は、そこに綴られた分析の鋭さに思わず息を呑む。
(ただの平民にすぎぬ彼が、ここまでの洞察を——)
宰相が受け取った彼の評判は、宗次郎が爵位や名誉には一切関心がなく、彼の財産といえば株式と現金のみ。住まいも借家の館に過ぎない。
だが、その思想は血筋にも権威にも寄らず、純粋に知識と合理性に立脚していた。
後日、冊子を読み終えた宰相は、心中で一つの決意を固めた。
(——この男とは、役職・身分を脇に置き、友人として語り合ってみたいものだ)
宗次郎は、中央主権国家の限界、——腐敗、非効率——を誰よりも理解し、同じ高さで語れる唯一の存在だった。
彼は権力とは距離を置き、ただ客観的な立場で意見を記す。
そして宰相は、彼を通じて初めて「暴君・暗君リスク回避~権威と権力の分散手順」「透明性と説明責任~属人化から法治国家へ」「経済基盤の多様化と民間資本参加~階層社会の利点」の未知の手法を学ぶことができる。
それは権力と権力の関係でも、富と富の結びつきでもない。
知と知が交わり、未来を形づくるための友情の一冊だった。
宰相はふと思いだした。
「三年前の春先に起きたガリウス伯爵家の侵攻だが、覚えておるのか、何があったか」
「記録は確認いたしました。ただ、我が領地の外壁までは来ておりませんもので」
「ふん、いったい誰が伯爵を捕縛したのだ。王都の商業ギルドで引き渡されたと聞く」
「はて、王都のことは記録にはなく、王宮の影の方のご活躍だったのかと思っておりました」
「随分と、珍妙な。そなたの師である商人は、物の怪の類か」
「部下の騎士は、異国の森の隠者と呼び、狩人たちは、牛の首を片手で掴んでいたといっておりました」
「ふはは、それを物の怪と言わずしてなんという」
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