罪悪感はあれど、悪びれていない行動

 本日の仕事を終え、今日も洋樹と私のアパートに帰宅。

「重ッ。今日のダンボール、めっちゃ重いんだけど」

 洋樹がアパートの宅配BOXを開け、実家から送られてきたダンボールを持ち上げた。

 洋樹は、週に三、四日は私の部屋に泊まる。

 私のアパートも洋樹のマンションも会社から徒歩圏内だから、どっちの部屋にお泊りしても良いのだが、私のアパートの冷蔵庫は、実家が送ってくれる食料のおかげでいつでも潤っている。なので洋樹はいつも、自分の部屋には呼ばず、私の部屋に来たがる。

「あぁ。多分中身、南瓜だよ。お母さんから『日花里の好きな南瓜がたくさん出来たので送ります』ってLINE来てたから」

 洋樹に南瓜入りのダンボールを持ってもらったまま、部屋の鍵を開ける。

「俺、南瓜苦手ー」

 洋樹が、持っていたダンボールを落としそうなほどに肩を落とした。

「知ってるよ。洋樹には別の野菜を食べさせてあげるって。南瓜が傷んじゃうから落としちゃダメだよ‼」

玄関のドアを開きながら一緒にダンボールを運ぼうとすると、

「うん‼ よろしくお願いします‼」

 洋樹は「これくらい一人で持てるって。日花里は先に靴脱いで部屋に入って」と、私の手を退け、背中を押した。

「ありがとう」と洋樹に言いながら部屋の中に入り、クローゼットに鞄を片すと、早速キッチンへ。

 お腹を空かせた洋樹の為に、洋樹リクエストのドライカレー作りに取り掛かる。

 少し遅れて入ってきた洋樹が、

「南瓜、ココに置くよー」

 と冷蔵庫の近くにダンボールを置いた。

「ありがとう。先にシャワー浴びておいでよ。その間にちゃちゃっと作るからー」

 仕事後のほんのり汗臭い洋樹に、お風呂に入る様に言うと、

「はーい。日花里の料理、楽しみにしてるねー」

 と、洋樹はとても良い返事をして、クローゼットから着替えを取り出すと、お風呂へ向かって行った。

 洋樹は、基本的にとても優しい人間だ。

 ちょっとした手助けにも必ず『ありがとう』と言うし、私が困っていれば手を貸してくれるし、私の料理も『おいしい』と言って食べてくれる。今みたいな、私が喜ぶような言葉もくれる。

 そんな洋樹が大好きだった。

 だけど、浮気をされて、洋樹の優しさが【特別私だけに向けられたものではなかったんだ】と思った時から、洋樹の優しさに胸がチクチクし出した。

 曽根さんにも同じことをしていたんだろうな。曽根さんの料理も『おいしい』と言いながら喜んで食べたんだろうな。

 優しい洋樹が好きなのに、優しくされて嬉しいのに、こんなにも切ない。 

 考えても仕方のないこと。浮気の事実は消えないし、過去に戻れるわけでもない。

「ふぅ」と小さい息を吐き、

「さっさと作らなきゃ」

 エプロンを首に通し、腕まくりをした。

 冷蔵庫から材料を取出しながら、ダンボールに視線を落とす。

 付け合せのサラダ、私の分だけ南瓜サラダにして、洋樹の分はオニオンサラダにしようかな。

 さっそくダンボールのテープを剥がし、南瓜を丸々1コ取り出した。

「立派な南瓜だなー」

 私は田舎育ちの為、野菜の良し悪しはすぐ分かる。洋樹も食べられたらいいのに……。少し残念に思いながら、南瓜を一コ丸ごと蒸した。

 南瓜を蒸している間にドライカレーと野菜スープと洋樹用のサラダを作成。

 洋樹がお風呂から上がる前に、自分用のサラダも出来上がり、テーブルに並べた。

 洋樹は女子並みにお風呂が長いので、洋樹待ちの時間に南瓜の煮物を作り、タッパーに詰めた。

「上手に出来たなー」と呟きながら、タッパーに入った南瓜の煮物の粗熱を冷ましていると、

「わー、いい匂い。お腹減ったー」

 ようやく洋樹がお風呂から上がってきた。

「ご飯、準備出来てるから食べよー」

 南瓜の煮物を放置し、料理の並んだテーブルに行くと、

「食べよう食べよう」

 と、洋樹もテーブルを囲んだ。

『いただきます』と二人で手を合わせると、早速ドライカレーに喰らいつく洋樹。

「美味ーい」と笑顔で鼻息を漏らす洋樹を見ていると、嬉しいな。作って良かったな。幸せだな。と思う。思うけど……。

 曽根さんの料理を食べてもそんな顔をしたのかな。と、どうしても考えてしまう。

 単純に喜べない。素直に幸せを感じたいのに。こんなに捻くれたいわけじゃないのに。

 洋樹と仲良く夕食を食べ終え、食器を片して一息つくと、お母さんに一言南瓜のお礼をLINEしようとポケットに手を突っ込んだ。

 ……アレ? スマホがない。鞄の中かな。

 テレビのバラエティを見ながら笑っている洋樹の後ろでクローゼットを開け、鞄の中を探る。……ない。

「……会社だー」

 ポケットにも鞄の中にもないなら、スマホの在処は会社しかない。

 あぁ、そうだ。昼間にスマホの充電がなくなりそうになって、会社のアダプタに繋いだことを思い出す。スマホ、アダプタから外した記憶がない。絶対に会社にあるわ。

「もう‼」と思わず自分の太ももをパシンと叩いた。

「どうしたー? 何、急に自傷行為し出してんの?」

 洋樹がくるりと振り返り、「イライラしなさんな」と私の頭を撫でた。

「スマホ、会社に忘れた。取ってくる」

 すくっと立ち上がり、「私の馬鹿ー‼」と自分に悪口を叩く。

「スマホ依存症かよ。でもまぁ、ないと何となく不安になるのは分かるわ。俺も行くよ。外暗いから」

 洋樹も腰を上げようとするから、洋樹の肩を押して座らせた。

「大丈夫だよ。チャリで行くから。サーっと行ってサーっと帰ってくるから。洋樹はテレビ観てて。行ってきます」

「気を付けてね。何かあったらすぐ呼……べないじゃん。スマホないじゃん。やっぱ一緒に行く」

 折角座らせたのに、再び立ち上がろうとする洋樹。

「だーいーじょーうーぶ‼ 私、めちゃめちゃチャリ漕ぐの早いから。誰も追いつけないから」

 今度は私が洋樹の頭を撫で、洋樹を宥める。

「日花里がそんなに運動神経良いとは思えないんだけど。寄り道しないで帰ってこいよ。本当に心配してるんだから」

 洋樹が私のほっぺたを摘み、むにーっと引っ張った。

「お父さんかよ。心配してくれてありがとう。行ってきます」

 洋樹に頬を掴まれたま笑顔を作ると、「変な顔」と言いながら洋樹も笑った。

「早く帰ってきてね」

「うん」

 鞄を肩に掛け、玄関の棚に置いてあるチャリの鍵を手に取り、アパートを出た。

 アパート脇の駐輪場に停めてあるチャリの鍵を開け、籠に鞄を入れると、サドルに跨った。

 ペダルを踏み込み、会社を目指す。

 仕事自体も会社も別に嫌いではないが、就業後に再度会社に行くのは、やや億劫。

 お母さんへのLINEは明日でもいいし、どうしてもスマホが必要な状態ではないが、スマホのある生活に慣れてしまうと、無いことが手持無沙汰。近くにあることが分かっているから、取りに行かないと気が済まない。

 誰のせいでもなく、紛れもなく自分が悪いくせに「めんどくさいよー」とボヤきながらペダルを漕いだ。

 支店が入っているビルに着き、支店のある階を見上げると、まだ電気が点いていた。

「まだ誰か残ってたんだ」と、誰が残業しているのか気にしつつ、ビルの駐輪場にチャリを停めた。

 日中に比べるとかなり静かなビルの中に入り、エレベーターに乗り込む。

 支店のある階で降り、セキュリティカードを翳して支店のドアを開けた。

「あ、お疲れ様です。課長」

 課長が、たった一人で残業していた。

「お疲れ様です。こんな時間にどうしたんですか? 滝川さん」

 課長が「二十時過ぎてますよ」と壁掛け時計を指差した。

「スマホを忘れてしまいまして……」

 そそくさと自分のデスクに行き、案の定アダプタに繋がれっぱなしのスマホを抜き取ると、ポケットに入れた。

「わざわざスマホを取りにくるって、やっぱり滝川さんは現代っ子だね。私だったら『どうせ明日も会社に行くし、明日でいいや』って、気にしないですもん」

 課長が「やっぱり、若い子とは感覚が違うんだなー」と笑った。

「課長は取りに行かなきゃダメでしょう。私と違って部下からの急用の電話が入るかもしれないんですから」

「そっか。確かにそうですね」

 言い返す私に、課長がまた笑った。この人、怒ったこととかあるのかな。今日見ていた限り、課長は誰にでもニコニコしながら接していた。自分自身、気性が荒いとは思わないが、決して穏やかな性格ではない為、課長の様な朗らかな人は尊敬するし、憧れる。 

「課長はまだ帰らないんですか?」

 初日からそんなに頑張らなくても……と、ちょっと心配になる。

「別に帰ったところですることもないですし、そもそも仕事が好きなんですよね。なのでもう少し残ります。私のことなんか気にしないで、滝川さんは帰ってください。夜は何かと危険ですからね」

 私に「お疲れ様です」と微笑むと、課長は空のマグカップを持ち、コーヒーを淹れに給湯室へ向かって行った。

 課長、この時間までコーヒーしか飲んでないのかな。何も食べてないのかな。

「課長、何か食べました?」

 給湯室に顔を出し、何杯目のおかわりなのか分からないコーヒーを注いでいる課長に話し掛ける。

「まだなんですよ。帰りにコンビニに寄って何か買います」

 眉毛を八の字にして「お弁当、売り切れてなければいいなぁ」と笑う課長。

 課長、何も食べてないんだ。しかも、コンビニ弁当が売り切れてたら、たいしたもの食べられないんだ……。

「課長は南瓜は食べられますか?」

 会社に来る前に作った南瓜の煮物の存在を思い出す。

「はい。南瓜が嫌いな男の人って割といますよね。私は大好きですよ」

「課長はあとどのくらい会社にいますか?」

「さすがに二十一前には帰りますよ。質問攻めですね、滝川さん」

 私の脈略のない質問にもきちんと答えてくれる課長。

 課長はあと一時間は会社にいる。

 南瓜の煮物、課長に食べてもらおう。本当は自分で食べる用に作ったけど、南瓜はまだまだ沢山あるからまた作ればいいし、どうせ洋樹は食べられないし。

「仕事、頑張っててください‼ 失礼します」

 課長に頭を下げ、勢いよく支店を出ると、チャリをかっ飛ばした。

「ただいま‼」

 アパートに着き、キッチンに置きっぱなしだった、蓋さえしていない南瓜の煮物が入ったタッパーに急いで蓋をし、鞄の中に入れると、

「行ってきます‼」

 再び玄関のドアを開けた。

「えぇ⁉ どこに⁉」

 テレビを見ていた洋樹が起き上がり、帰ってきた途端に出て行こうとする私の腕を掴んだ。

「会社‼」

「何しに? スマホは取ってきたんだろ?」

「課長に南瓜の煮物を届けに‼ 早くしないと課長が帰っちゃう‼」

 洋樹の腕を解こうとすると、

「イヤイヤイヤ。何で課長に南瓜?」

 洋樹は、私の返事に納得がいかない様子で、手を離してはくれない。

「課長、この時間まで何も食べずに残業してたみたいなんだよ。煮物、折角上手に出来たから食べてもらおうと思って。どうせ洋樹、食べないでしょ?」

「……食べないけど。じゃあ、今度は俺も行く。女の子が一人で出歩く時間じゃないでしょ」

 洋樹が「ちょっと待ってて。すぐ着替えるか」と手を離したことをいいことに、

「チャリ一台しかないから無理‼ 急いでるの‼ 心配してくれてありがとうね。すぐ帰ってくるから‼ 行ってきます‼」

 即座に玄関を出てドアを閉めた。

 ドアの奥から「日花里‼ もう‼」という洋樹の声がした。

 洋樹に心配してもらえることは、有り難いし嬉しい。でも、洋樹の心配はちょっと過剰だ。洋樹は何をそんなに心配しているのだろう。

 再度チャリに跨り会社へ。

 全力でペダルを漕ぎ、本日三度目の来社。

 支店に明かりが点いていることを確認して、エレベーターに乗り込んだ。

「あぁ、もう‼ いちいちめんどくさいな‼」とすぐには開かないドアに小声で文句を言いながら鞄に手を突っ込むと、セキュリティカードを取り出した。

「お疲れ様です。課長」

 支店のドアを開け、急いで来た為に若干息を切らせながら課長に挨拶をする。

「え? 今度は何を忘れたんですか? 滝川さん」

 笑顔を絶やさない課長が半笑いになっていた。

「忘れ物じゃないです。課長にお届け物です」

 自分のデスクを素通りし、課長のデスクに向かうと、鞄から南瓜の煮物の入ったタッパーを取出し、課長のデスクに置いた。

「私の実家、もの凄く田舎で、家の傍に畑があるので親が死ぬほど野菜を送ってくれるんです。それで今日、南瓜が送られてきたので煮物を作ってみたんですけど……他人が作った料理が食べられない人とかいますし、そもそも口に合わないかもしれないので、いらなかったら持ち帰りますが、迷惑じゃなければ食べて頂けませんか?」

「え? いいんですか? 嬉しいです。ありがとうございます。喜んで頂きますよ‼ 蓋、開けてみてもいいですか」

 課長が嬉しそうにタッパーを手にした。

「どうぞ」と言うと、課長はゆっくりタッパーの蓋を開け、「うわぁ。綺麗な色の南瓜ですね。美味しそう」と目を細めた。

 自分の料理や実家で作った野菜を褒められるのは、やっぱり嬉しい。早く食べて欲しくて、

「あの、何か手伝えることはありませんか?」

 課長が早く家に帰れる様に、仕事の振り分けをお願いする。

「何を言ってるの。滝川さん、残業申請してないでしょう? 私の仕事なんか手伝う必要ないですから。それに、私もそろそろ帰ろうかと思っていたところですから。南瓜頂いた上に仕事をさせるなんてこと出来ませんよ‼」

 課長が両手を振りながら「そんなことしなくていいです」と拒否した。

「あ……イヤ。課長に喜んで貰えたのが嬉しくて……南瓜の煮物、ちょっと味濃いめに作ったので、早くご飯と一緒に食べて欲しいなと……って、課長の家ってご飯ありますか? あー‼ しまった‼ おにぎりにしてご飯も一緒に持って来れば良かった‼」

 中途半端にしか気が利かない自分に苛立ち、課長の前で敬語を忘れ、地を出してしまう。

「帰りにインスタントのご飯を買って帰りますから大丈夫ですよ。気を遣わせてしまってすみません。独り身のオッサンの食生活なんて『何を食べてるんだろう』って、ちょっと怖いですもんね。不器用ですしセンスもないので自炊はしませんが、結構しっかり何かしら食べてますよ。健康的ではないにしろ、そんなに乱れてもいませんから」

 課長が「お気遣いなく」と笑った。

「別に『怖い』とは思ってないです。すみません。お節介を焼いてしまいました」

 調子に乗った挙句、無駄に騒いだ自分が恥ずかしい。

「私も滝川さんをお節介だなんて思っていませんよ。優しい人だなと思いました。すみません。言葉足らずで嫌な思いをさせてしまいましたね」

 困った様に笑う課長。

 そんな課長と目が合って、心臓がきゅうっとなった。

 私は別に優しくない。優しくないから浮気をされたし、反省をしている洋樹を許したフリをして、未だに根に持っている。

 でも、課長に【優しい人】と言われて、嘘を吐いている様な後ろめたさを感じつつも、嬉しい気持ちが勝った。

「優しい人と言うのは、課長の様な人を言うんですよ」

 照れ笑いしながら言葉を返すと、

「……私は全然優しくなんかないです」

 課長が一瞬笑顔を消した。

「……え。今日が初日だったから終始笑顔だっただけで、明日から鬼課長に豹変するんですか?」

「そうかもしれませんよ」

 私の質問が的外れだったのか、課長は呆れた様に小さな息を吐くと、元の笑顔に戻った。

 さっきの真顔の様な、どことなく哀しそうな表情はなんだったのだろう。

「どうぞお手柔らかに」

 課長の様子は気になるが、折角笑顔になった課長の顔を曇らせるのも嫌で、詮索はせずに当たり障りのない言葉で流す。

「大丈夫ですよ。怒鳴り散らしたりとかはしませんから」

「笑顔で怒る人って、ブチギレしてる人より怖いですよね」

「だから、『私は全然優しくない』って言ったでしょう?」

 イヒヒといたずらっ子の様に笑う課長。

 課長、こんな風にも笑うんだ。

「あぁ、なるほど」

 課長との会話が何だか楽しくて、一緒に笑う。

 もう少し課長と話がしたいな。課長の話を聞きたいな。と思い、どうでも良い話を課長に振り、課長の足を止める。

 優しい課長は、嫌な顔一つせずに話に乗っかってくれた。

 時間も忘れてお喋りしていると、

『きゅるるるるー』

 と結構な高音が課長のお腹から鳴った。

 あ‼ そうだった‼ 課長、夕食食べてないんだった‼

「すみません、課長‼ 楽しくてつい、課長を引き留めてしまいました‼ 帰りましょう‼」

 今何時なんだ? とスマホを取り出すと、時刻は二十二時。一時間以上喋っていたらしい。

「滝川さんは先に帰ってください。私もパソコンの電源を落としたらすぐに帰りますから。外、相当暗いのでタクシー呼びますね」

 タクシーを手配しようと、課長が電話の受話器を取った。

「あ、私、自転車で来ちゃったので、タクシーは呼ばなくて大丈夫です。家、本当に近いので、乗っても1メーターで降りなきゃなので。なんか、南瓜をおすそ分けする名目で、課長の邪魔をしてしまってすみませんでした。私、帰ります。お疲れ様でした」

「本当に大丈夫ですか?」

 タクシーを断る私を心配そうに見つめる課長。

「大丈夫でしかないです」

 そんな課長にガッツポーズで返事をすると、

「面白い日本語。滝川さんの話すお話は本当に楽しいですね」

 課長がクスクスと笑った。

「楽しかったですか? 迷惑じゃなかったですか?」

 こんなことを聞いたって、優しい課長が『迷惑でした』などと言うわけがないことは分かっている。

 だけど、分かり切った答えを聞きたかった。

「凄く楽しかったです。こんなに飽きもせずに笑いながら誰かと会話したのは、本当に久しぶりです」

 やっぱり課長は優しい言葉を返してくれた。

 課長の本心じゃないかもしれない。部下との関係を良好にする為の社交辞令かもしれない。

 それでも、課長の優しさは私の心をあったかくする。

「良かったです。では、また明日。お先に失礼します」

 これ以上長居をするのはどうかと思い、事務所を出て行こうと鞄を肩に掛けた。

「また明日。お疲れ様でした。気を付けて帰ってくださいね」

 軽く手を振る課長に頭を下げ、事務所のドアを開いた。

 事務所を出て、エレベーターに乗り込むと、

「ふふふ」

 さっきの楽しかった時間を思い出して笑ってしまった。

 私も凄く楽しかったんだ。

 いつもある心のモヤモヤが、さっきは全くなかったんだ。

 ただただ、ただただ、楽しかったんだ。

 

 ご機嫌に鼻歌交じりでアパートに帰宅。玄関のドアを開けると、

「早く帰ってくるって言ったよね?」

 私とは打って変わって不機嫌な洋樹が、こちらに向かって歩いてきた。

「……ごめん」

「心配したんだよ⁉ 何度電話しても出ないし‼ 何やってたんだよ⁉」

 洋樹、玄関で仁王立ち。自分の家なのに、靴さえ脱げない。

 洋樹がご立腹なのは無理もない。

 私は、洋樹との約束を破り、洋樹の心配も無碍にした。

 しかも、スマホで時刻を確認した際に、洋樹からの着信履歴が数回残っていたのにも気づいていた。

 でも、『もう帰るから折り返さなくていいや』とスルーした。

「事務所で課長とのお喋りしてたら、帰るのを忘れてしまいました。ごめんなさい」

 完全に自分が悪いので、素直に謝るが、

「お喋りって……。仕事をしてたわけでもなく、お喋りって」

 洋樹の機嫌は直らない。

「ごめんね。次からはちゃんと連絡入れるね。」

 今度は謝りつつ、反省点も付け加えてみる。

「『次からは』って、また課長とお喋りしたいってこと?」

「……」

 洋樹に指摘をされて言葉に詰まる。

 自分の彼女が他の男と二人で談笑していたら、彼氏として洋樹の気分が悪くなることは理解出来るし、そんな風に嫉妬してもらえるのも嬉しい。だけど、

「 【私は】それ以外のことはしないし、課長だって、私とどうこうなりたいだなんて思ってないよ」

 私は、疾しいことなどしていないし、しない。

【私は】をさり気なく強調して、【洋樹の浮気とは違う】と遠回しに伝える。

「【私は】って……。今日会ったばかりの課長が、どんな人かなんか分かんないだろ。あんな噂だってあるし」

 私の嫌味をしっかり汲み取った洋樹は、一瞬吃りながらも反論した。

「そうだね。課長がどんな人なのかなんて、まだ分からないよね。だったら、洋樹にだって分かんないよね? 私が勝手に課長を【信頼出来る人】って思っているのがおかしいなら、洋樹が課長を【噂通りの人】って捉えているのもおかしなことだよね?」

 まだそんな悪質な噂を信じているのか。と洋樹に苛立つ。

「そういう意味じゃない‼ 普通じゃないの⁉ 自分の彼女が他の男に手料理食わせたり、二人で長々お喋りされたりするのに腹を立てるのは普通じゃないの⁉ 俺がおかしいの⁉」

 洋樹は「俺、もう寝るわ」と私を玄関に取り残し、一人でベッドの方に向かって行くと、勢いよく頭まで布団を被った。

『普通じゃないの⁉』-------私だって、それが普通だと思ってたよ。あの時までは。

 普通に怒って、普通に傷ついて。

 普通に傷つけられたから、今度は普通に相手を傷つけて。

 あれから晴れることのないこの心も、普通に起こるべくして起きたのならば、【普通】って一体何なのだろう。

 思い出しては涙が滲む。ぐすぐすと鼻を啜りながら靴を脱ぎ、自分も部屋の中へ。

 ベッドの近くに腰を掛け、布団に包まった洋樹の頭を撫でた。

「……ごめんね」

 目からボロボロ涙が零れた。

 浮気をされる前に戻りたい。【普通】が【普通】だった頃に。

 嫉妬もやきもちも笑い飛ばせて、お互いが信じ合えていたあの頃に。

「……泣かなくていいから」

 布団の中から洋樹の手が伸びてきて、私の腕を掴むと、そのまま布団の中に引っ張り込んだ。

 洋樹に抱き寄せられて、洋樹の匂いが、体温が、私の涙を加速させる。

 心地の良い洋樹の温もりは、じりじりと私の心を締め付ける。


 --------翌日、朝。

 昨日はあのまま、お風呂にも入らず、化粧も落とさずに寝てしまった為、シャワーを浴びるべくいつもより早起きをした。

 服を脱いで浴室に入ると、涙で中途半端に化粧が取れている汚い顔をしっかり洗い流す。髪と身体を洗うと、何となく気分もスッキリする。

「……よし‼」

 両頬を叩いてやる気を奮い立たせる。

 出勤用の服に着替えて、濡れた髪にタオルを巻きつけると、泣いて少し腫れてしまった瞼を誤魔化しながら化粧をした。

 少し目に違和感はあれど、化粧をし終わると、髪を乾かし、朝食作りに取り掛かる。

 鮭を焼き、たくあんを切り、わかめと豆腐のお味噌汁を作成。THE 和食。

 一通り作り終えたところで、洋樹を起こしにかかる。

「おはよう‼ 洋樹。起きて‼」

 ベッドに身体を埋める洋樹の肩を揺すると、

「……もう朝なのー? 日花里、いつ起きたの?」

 なかなか目を開けられない洋樹が、隣に寝ていたはずの私を探す様にベッドの空間を手探りした。

「一時間くらい前かな。朝ごはん出来てるから早く起きて‼ 食べる時間なくなっちゃうよ‼ 遅刻しちゃうよ‼」

 彷徨う洋樹の手を「もうそこには居ない」と握ると、洋樹が私の手を握り返して、ようやく薄ら目を開けた。

「……目、腫れちゃったね。ごめんね、日花里」

 一ミリくらいしか開いていない洋樹の目が、化粧で上手く誤魔化しきれなかった私の瞼に気付いた。

 洋樹は優しいから、私を心配してくれているから、私の少しの変化にすぐ気付く。

 全く気付かれないのも悲しいけれど、今日は気付かれたくなかった。折角気分を切り替えたばかりだったから。

「大丈夫だよ。午後には引くから。それより早く起きて‼」

 洋樹の手を引っ張り、洋樹の上半身を無理矢理起こすと、洋樹が子どもみたいに私に抱き着いてきた。

「おはよう、日花里。昨日はごめんね。本当にごめん」

 洋樹が私の肩に顔を埋めた。

 洋樹は浮気をしてから、喧嘩をしてもすぐに謝るようになった。前は、喧嘩をすると3日くらい長引くのが当たり前だったのに。

 洋樹は、私が洋樹の浮気を許せていないことを知っている。

 だから、自分が悪くなくとも、私が泣いたりすると謝る様になってしまった。

 洋樹は、窮屈じゃないのだろうか。

 私は少し、しんどいよ。

 洋樹の浮気を許せないせいで、洋樹に我慢させていることを責められている様で、ちょっと苦しい。

「ごはん食べよう? 顔洗っておいで」

 洋樹の背中を摩ると、

「うん。さっきから鮭のいい匂いがしてて、お腹減ってきた」

 洋樹が私から身体を離し、切なさの余韻が残る笑顔を見せると、ベッドから下りた。

 私は、朝から洋樹に何て顔をさせているのだろう。

 だから喧嘩はしたくない。仲直りをしても、後味が悪い。

「ふぅ」と出そうになってしまった溜息を慌てて飲み込む。朝から溜息はさすがに良ろしくない。

 洋樹が身支度をしている間に、テーブルに朝食を運ぼうと立ち上がった。

 テーブルに二人分の朝食を並び終え、テレビを点けたところで身支度をした洋樹がやってきた。

「いいねぇ。日本の朝って感じ」

 洋樹がテーブルを眺めながら座った。

「食べよっか」

「そうしましょう‼」

 二人で手を合わせ、朝食を食べる。

 今日もおいしそうに食べてくれる洋樹。

 私が過ぎたことを気にさえしなければ、洋樹との朝はいつだって、穏やかで幸せなんだ。


 朝ごはんを食べ終えると、会社へ出勤。

 今日も二人でいつも通りの道を歩き、いつも通り社員たちと挨拶を交わし、いつも通りパソコンの電源を入れ、メールのチェックをする。

「……ん?」

 取引先からのメールに紛れて、課長から社内メールが来ていることに気が付いた。

 マウスを動かし、一番最初に課長のメールを開く。

【南瓜、凄く美味しかったです。昨日、ひとりで全部食べてしまいました。お借りしていたタッパーを、洗って給湯室の棚の中に入れておきましたので、忘れずに持って帰ってくださいね】

 課長らしい、律儀なお礼メールだった。

『忘れずに』って。別にタッパーくらい他に何個か持ってるし。

 まぁでも、課長がそう言うなら……と忘れる前に給湯室へタッパーを取りに行くことに。

 棚を開け、タッパーを手に取ると、

「……何か入ってる」

 空だとばかりに思っていたタッパーに、紙と包装紙に包まれた何かが入っていた。

 タッパーの蓋を開け、中身を取り出す。

 折り畳まれた紙を開くと、そこには【南瓜、味が良く染みていて最高でした。ささやかですが、お礼です。既製品ですみません。料理は出来ませんし、出来たとしてもよく知らないおじさんの手作りは、少々気持ち悪いだろうと思いましたので。】と、とても綺麗な字で書かれていて、『お礼』と思われる包装紙を開くと、一口サイズのチョコクッキーの詰め合わせが出てきた。

「……可愛いな。課長」

 クックッと笑いながら課長の手紙を読み返していると、

「朝会始めまーす」

 事務所の方から主任の声がした。

 急いでタッパーに手紙とクッキーを入れ直し、それを胸に抱えながら事務所へ戻った。

 自分のデスクに行き、一番下の大きい引き出しにタッパーをしまう。

 朝会が始まり、連絡事項のある社員が順番に話しだした。

 社員たちの話に耳を傾けながら、何気なく課長の方を見ると、ふと目が合ってしまった。

 後でお礼を言えばいいのに、すぐ言いたくて、『クッキー』と口パクで伝えると、課長が朝会中にも関わらず「フッ」と小さく息を漏らして笑ってしまった。

 慌てて右手で口を隠す課長。

 その様子に気付いた主任が「どうかしましたか?」と課長の方に目をやると、「く……くしゃみが出そうで、出ませんでした。すみません」と、課長が咄嗟に嘘を吐いた。

「う゛う゛ん」と笑いを殺しながら咳払いをした課長は、それ以降、朝会中に私の方を見てくれなかった。 

 朝会が終わり、早速課長にお礼のメールを打つ。

『クッキー、ありがとうございました。小腹がすいた時にいただきますね』と送信。

 すぐに課長の返信がきた。

『朝会中に『クッキー』とか言わないで下さいよ。笑ってしまいましたよ』というメールに『『クッキー』ってそんなに面白いワードですかね?』と速攻でRE。

『オジサンにクッキーって似合わないでしょう』と課長も即座の返事。

『別にオジサンがクッキー食べても問題ないと思いますが』と打ち込み、送信ボタンをクリック。

『オジサンがクッキーを食べてはいけないわけではないですよ。ただ、私みたいなオジサンが可愛い食べ物を持っていたら、違和感が否めないでしょう?』

 課長が質問調のメールを返してくるから、メールが終わらない。楽しいし、急ぎの仕事はないからむしろ嬉しいけれど。

『可愛いおじさんだなって思うだけですけど。じゃあ、どうやって買ったんですか? あのクッキー』

 課長とメールを続けたくて、自分も『?』でメールを送る。

『今朝、スーパーのセルフレジにて購入致しました』

 私の質問に対する課長の回答メールに、

「ふはッ」

 今度は私が吹き出してしまった。

 普通に買えばいいでしょうよ、課長。 

「何、急に笑い出して」

 と隣のデスクの先輩が、私のパソコン画面を覗こうとするから、

「あ……いえ。思い出し笑いです。すみません」

 慌てて画面を切り替えた。

「もう‼」と声にはせずに課長に視線を飛ばすと、課長はいたずらっ子の様に笑って知らん顔をした。

 そんな課長の素振りも何だか可愛く見えてきて、沸々と笑いが込み上げる。

「ちょっとトイレに行ってきます」

 とりあえず一旦落ち着こうと席を立ち、トイレへ。個室に入り、ニヤニヤする。課長への興味が膨らむ。変な噂を立てられているくせに、当の本人は可愛いキャラ……どういうことよ。

 課長のことが、知りたい。


 そんなこんなで、本日も滞りなく業務終了。

 洋樹はお得意様との飲み会があるとのことで、一人で帰宅。

 アパートに入り、棚に片そうと、鞄の中から空のタッパーを取り出す。

「……」

 足元にある、冷蔵庫に入りきらなかった野菜が入ったダンボールが目に入った。

 洋樹は私が嫌がることをしなくなった。だから、私も洋樹に誠実でいたい。

 だけど、これは浮気じゃない。裏切りでも何でもない。

「……洋樹、ごめん」

 まな板を用意し、片づけようとしていたタッパーを隣に置いた。

 ダンボールからピーマンを、冷蔵庫からひき肉と卵を取り出す。

「ピーマンの肉詰めは好きかな、課長」

 課長が今日も社内で残業しているとは限らない。

 洋樹にみたいに、仕事相手と食事に行ったかもしれない。

 だけど、課長にまた自分の料理を食べて欲しいと思ったんだ。 

 ピーマンの種を取りながら、『お弁当にした方が喜んでもらえるかな』とふと過る。いや、奥さんでも何でもない私が、そこまでするのはやりすぎな気がする。さすがに引かれる気がする。気持ち悪がられたくいない……って、課長もクッキーを買う時、こんな気持ちだったのかな?

「そりゃ、セルフレジで購入致すわけだわ」

 あははと、課長を思い出してはまた笑う。

 ピーマンの種を穿りながら笑ったのは、人生で初めてだ。

 少し多めにピーマンの肉詰めを作り、タッパーに並べ、冷ます。

 冷ましている間に、タッパー入りきらなかった分を自分の夕食として味見。

「うん。美味しく出来たと思う‼」

 実家のピーマンは味が濃くて、歯ごたえが良い。故に本当に美味しい。

 ピーマンが苦手な人でない限り、喜んで食べてくれるはず……って‼ 課長、ピーマン食べられない人だったらどうしよう。そうだよ‼ ピーマン嫌いな人って結構いるじゃん‼ そしたら肉だけ食べてもらおう。うん、そうしよう。

「あー。もう‼ 作る前に気付けよ、私‼」

 自分の額をパシーンと叩き、いい感じに冷めたピーマンの肉詰めが入ったタッパーに蓋をすると、鞄に詰め込んだ。

 アパートを出てチャリの籠に鞄を入れると、地面を蹴飛ばし会社に向かう。

 課長、残業してるかな? 課長以外の社員が残っていたら面倒だな。と、課長のみの残業を願いつつ、ものの五分で会社に到着。

 駐輪場にチャリを停めつつ、ビルを見上げる。

 支店のある階には明かりが点いている。誰かいるのは間違いない。

 課長であって欲しいなと期待をしつつ、エントランスを抜け、エレベーターに乗り込んだ。

 エレベーターを降り、支店のドアのすりガラスから中の様子を伺う。

 人が大勢いる気配はない。とりあえず、入ってみよう。

 鞄からセキュリティーカードを取出し、ドアを開ける。

「……お疲れ様でーす」

 キョロキョロと周りを見渡しながら中に入ると、

「あれ? 滝川さん、今日もスマホ忘れちゃったんですか?」

 給湯室から、コーヒーのおかわりを注いできたと思われるマグカップを持った課長が出てきた。

「違いますよ。今、課長だけなんですか?」

「はい。今日も一人寂しく残業です」

 わざと切ない表情を作って見せる課長。

『仕事が好きだ』と言っていた課長は、全然寂しそうには見えない。むしろ、仕事が生きがいなのだろう。

 課長が寂しかろうが、何だろうが、課長が1人でいてくれたのは好都合。

 他の社員たちに、私が手料理を課長に渡しに来たことが知れたら、ただでさえ在らぬ噂を立てられている課長に、更なる迷惑が掛かってしまう。

「課長はピーマンは食べられますか?」

 鞄からタッパーを取り出す前に、確認事項をひとつ。

「はい。私は好き嫌いがないので」

 課長の返事を聞いたところで、

「あの。これ、クッキーのお礼です。ピーマンの肉詰めです。良かったら食べて頂けませんか?」

 ようやくタッパーを課長に差し出した。

「イヤイヤイヤ。あのクッキーは南瓜のお礼なので、クッキーにお礼は必要ないですよ‼」

 両手を振ってタッパーを受け取ろうとしない課長。

 南瓜のお礼に対するお礼をすることが、ちょっとおかしなことなのは分かっている。そんなことをし出したらキリがない。だけど、キリなんかなくていいと思ったんだ。次も、その次も、課長に手料理を食べて欲しくて、課長と話がしたいと思ったから。

「……迷惑でしたでしょうか」

「いえ。ありがたいです。ご想像の通り、家庭の味には飢えておりますからね」

「じゃあ、いいじゃないですか」

 タッパーを再度課長に突き出す。

「いいんですけど……いいんですか?」

「日本語変です。いいんです‼」

 タッパーを課長に押し付けると、課長が戸惑いながら受け取った。

「そういえば、随分食べてないかもしれません。ピーマンの肉詰め。定食屋さんのメニューでも見かけないので、食べる機会がありませんでした。……ちょっと中身を拝見」

 今日もその場でタッパーの蓋を開ける課長。

「何ですか⁉ この瑞々しい色のピーマンは‼ 美味しいに決まっているヤツですね‼ 滝川さんの家の野菜はスーパーで売られているものとは全然違いますよね。見た目が力強い‼ 南瓜然り、このピーマンだってもの凄く美味しいんでしょうね‼ 最高の素材を美味しく料理出来る滝川さんは、絶対に素敵なお嫁さんになりますよ」

 ピーマンに目を輝かせる課長。

『素敵なお嫁さんになりますよ』。課長の言葉が引っかかった。

 私は、誰のお嫁さんになるのだろう。

 三年も一緒にいるのに、洋樹が私を【妻】と言っている姿も、『洋樹の妻です』と名乗る自分も、想像が出来ない。

 私が会社に来た目的は二つ。

 課長に手料理を渡すこと。課長とお喋りをすること。

 しかし、課長は私と談笑する為に残業をしているわけではない。当然ながら、仕事をする為に会社にいる。

 でも、自分の欲求を満たしたい我儘な私は、『十分だけ』と決めて、課長にとってはどうでもいいだろう取り留めのない話をした。

 優しい課長は、そんな私のつまらないだろう話にもニコニコしながら付き合ってくれる。

 課長の仕事の邪魔をしてはいけない。分かっているのに、課長との穏やかな時間が居心地良すぎて、結局十五分間喋ってしまった。

 本当はまだここに居たいのだけど、課長の迷惑になって嫌われたくない。

 名残惜しさを残しつつ、「気を付けて」と手を振る課長に頭を下げ、会社を出た。

 たった十五分。

 その十五分で、いつもどことなく毛羽立ってザラザラしていた心が、なだらかになって滑らかになった。十五分、私の心は癒されていた。

 ほっこりした気分のまま、鼻歌を歌いながら帰宅。

 部屋に入り、鞄から携帯を取り出すと、母にLINEを送る。

【次からはちょっと多めに野菜を送って欲しい】

 今度は何を作ろうか。

 

 翌日、いつもの様に出社。

 朝イチでパソコンメールをチェックする。

 優しい課長のことだから、今日もお礼のメールが届いているだろうと、マウスを動かしカーソルを下げる。

「あった」

 すぐに課長のメールを発見し、開く。

【ピーマンの肉詰め、美味しく頂きました。空のタッパーは昨日と同じ場所に入れてあります。忘れずに持ち帰ってくださいね】

 読んで速攻で給湯室へ。

 昨日と同じ棚を開け、発見したタッパーに手を伸ばす。

 タッパーを手に取った瞬間に、何か入っていることを察して思わず笑みが零れる。

 早速蓋を開けると、今日も四つ折りの小さな紙と、綺麗に包装された箱が入っていた。

【ピーマンの肉詰めも最高でした。あんなに厚みがあってシャキシャキなピーマンは初めて食べました。しっかりとした食感が残っているのに、甘辛い味もちゃんと染みていて感動しました。ささやかながら、お礼です】という、グルメレポーターの様な感想が書かれた手紙が既にじわじわ面白いのに、

「もう、完全にセルフレジじゃん‼」

 包装紙から取り出した箱の中身がマカロンだったことに、笑いが止まらない。

 これはもう、イジるしかない。というか、イジって欲しいのだろうと、ニヤつきながら事務所に戻る。

 朝会が始まると、課長を一点見つめ。

 目が合った隙に突っ込みをぶっこんでやろうと試みる。が、全然目を合わせてくれない課長。避けられている様で、無視されている様で悲しい。

一人でワクワクしていた自分が馬鹿みたいだ。

 朝会が終わり、しょんぼりしながら仕事に取り掛かると、パソコン画面にメール受信通知が表示された。

 新着メールの送信者は課長。

【朝会中に『マカロン』と囁いてやろうという目論みを含んだ視線を感じたのですが、気のせいでしたでしょうか?】

 読んでから課長の方を見ると、今日初めて目が合った。

【『マカロン』というのは、課長がセルフレジで購入された、あの丸くて可愛い洋菓子のことでしょうか?】

 返信を打ち込んで送ると、また課長の方に目を向ける。

 課長はニヤリと口角を上げると、パソコンのキーボードを叩いた。

 すぐに課長からのメールが届いた。

【そうです。私が敢えて『マキャロン』と呼ぶ、あのカラフルなフランス菓子のことです】

 課長の文面の『マキャロン』の破壊力に、『笑ってたまるか』と堪えた結果、「ブヒッ」という豚鼻を事務所内に響かせてしまった。

「おやおや。事務所に豚さんが紛れ込んでいる様ですね。養豚場に返してあげましょう」

 何も知らない洋樹が、遠くのデスクから私を笑うと、周りの社員も一緒になって笑い出した。

「~~~もう‼」

 洋樹や他の社員から笑われたことより、課長に笑わされたのが何となく悔しくて、

【マカロンは、イタリア発祥説もあります‼】

 鼻息を荒げながら課長にメールを打つと、恥ずかしさを誤魔化す様に音を立ててキーボードを鳴らしながら仕事をした。

 何だかんだ、こういう課長とのやり取りも、交換日記の様な手料理とお菓子の渡し合いも楽しくて仕方がない。

 洋樹に秘密にしておくことに後ろめたさはある。

 でも、やめられなかった。やめたくなかった。

 

 それからは、洋樹がウチに泊まらない日は、課長に手料理を作って夜の会社に持って行く様なった。

 

 そんな日々が一ヶ月くらい続いたある日。

 お得意様接待があるとのことで、洋樹がウチに来ないと知った今日も、課長の為に料理を作る。

 母が大量に送ってくれた茄子を使って肉味噌炒めを作成し、タッパーに詰め込んでると、玄関のチャイムが鳴った。

 インターホンには洋樹の顔が映っている。

 え? 何で?

 取りあえず玄関のドアを開けると、

「今日、先方の都合で接待なくなったー‼ 超ラッキー‼ お腹減ったー‼ 何か食わせて、日花里ちゃーん‼」

 洋樹が満面の笑みを浮かべながら、私に抱き着いてきた。

 仕事、大変なんだな。と洋樹の背中を摩りながら労う気持ちはあるのに、課長に手料理を持って行く事が出来なくなってしまう事への残念な気持ちが押し寄せる。

「何か、味噌のいい匂いがするー‼」

 洋樹が私の肩越しに、さっき作った茄子の肉味噌炒めの匂いを嗅ぎ取った。

「……食べる? 茄子の肉味噌炒め」

 本当は課長に食べて欲しくて作ったもの。でも、洋樹にそんなことは言えない。言えるわけがない。

「もちろん食べまーす‼」

 洋樹が靴を脱ぎ捨て、先に中に入って行った。

 洋樹がスーツから部屋着に着替えている間に、ご飯の支度をすることに。

 茄子の肉味噌炒めは課長の分しか作らなかった。男の人用だから、少し多めに作っていたけれど、二人で食べるには少ない、微妙な量。

『自分はもう食べたから、洋樹だけ食べなよ』と洋樹の分の夕食だけ用意しようか?

 でも、今はそれほどお腹が空いているわけではないが、寝るまでに空腹にならないか? と言われれば、それまでには普通にお腹が鳴るだろう、胃のコンディションだ。 

 さっと玉ねぎでも炒めて肉味噌に混ぜ込んでかさまししようかな。と冷蔵庫の野菜室を開けていると、

「なんか、中途半端な量作ったね」

 着替え終わった洋樹がキッチンへやってきた。

「分量間違った」

 洋樹に嘘を吐きたいわけではないが、本当のことなど言えない。


「……俺さ、大学から一人暮らしで、割と自炊する方だったから分かるんだけどさ、茄子の肉味噌炒めって、作るのにそんなに時間かからないよね? 日花里、手のかからない料理を作り置きするタイプじゃないよね?」

 洋樹の怒っている様な、悲しんでいる様な声を聞いて、『あぁ、私はカマを掛けられたんだ』と悟った。

 洋樹が浮気をした時、私はすぐに見破った。だって、洋樹がどんなに普段通りを取り繕っていても、ちょっとした違和感の様な変化を感じたから。

 洋樹も感じ取っていたのだろう。私の課長に対する気持ちを。

「洋樹を欺きたかったわけじゃない。洋樹を裏切る様なことは何もしていない。だけど、洋樹が嫌がるだろうから、隠さざるを得なかった。ごめん」

 散々言い訳を放ってからの、私の『ごめん』に、洋樹が顔を歪めた。

 洋樹に疑いを持たせる様なことをしたのが悪い。私が悪い。分かっているけれど、洋樹はあれから曇りっぱいなしの私の心を晴らしてくれない。洋樹が努力してくれているのは分かっている。だけど、心に出来た曇天は、雨さえ降らずとも薄暗いままで、ここ最近は雲一つない晴天状態になったことがなかったんだ。課長といる時は、そんな厚い雲に切れ間が出来て、暖かい光が差し込んでくる様な感覚になったんだ。

「……やっぱり。課長に持って行く気だったんだ。何だかんだ日花里も分かり易い奴だよね。日花里は気付いてなかったかもしれないけど、俺が『明日は接待の日』とか言うと、『大変だね』って言いながら冷蔵庫の方に目を向けて考え事してたんだよ。俺がいない日の料理の考え事って、普通におかしいだろ」

 眉間に皺を寄せて笑う洋樹は、苦笑いでも何でもなく、怒りが滲んでいた。 

 洋樹に指摘されてもピンと来なかった。それほどに、私の行動は無意識だった。

「……ごめん」

「ねぇ日花里。俺が曽根さんが作った料理食ってたら腹立たない? 日花里は俺に同じことをしているんだよ⁉」

 洋樹が声を荒げながら私の肩を掴んだ。

 洋樹の言いたいことは分かるよ。それほどに洋樹に嫌な思いをさせてるんだよね。

 だけどね、洋樹。同じじゃないんだよ。全然違うんだよ。だって私は……、

「……同じじゃない。同じじゃないよ。だって私は課長と、キスもハグもセックスもしていない‼」

 私は浮気を、していないんだよ。

「……それを言われたら、俺に言い返す言葉なんかないよな」

 洋樹の手が、私の肩からするりと滑り落ちた。

「……俺、帰るわ」

 唇を噛みしめた洋樹は、俯きながらリビングに戻ると、壁に立てかけていた鞄を拾い上げ、部屋着のままアパートを出て行った。

 パタンとドアが閉まる音がした瞬間に、その場にへたり込む。

「……ごめん、洋樹。だって、ずっと悲しいままなんだもん。どうしたら許せるの? どうしたら嫌な記憶を消せるの?」

 やるせなく床に這わせた拳の上に涙が落ちた。

 自分を心の広い人間だなんて思ったことはないけれど、洋樹に浮気をされるまで、自分の心がこんなにも狭いなんて思いもしなかった。

 日に日に、許せない自分のことが嫌になる。

 洋樹にあんな顔を、あんな思いをさせたいわけじゃないのに。

 洋樹を許せない自分を許せなくなってくる。

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