バカし愛 ―遅すぎた好き、伝えたくて―

堀口大晴

第1話 名前も知らない君に、恋をした

入学式といえば、晴れた桜並木を想像していた。

でも現実は、しとしと雨。

満開の桜は咲いているのに、花びらは舞うことなく地面に貼りついている。

「始まりの日」にしては、少し頼りない天気だった。


 入学式の朝。百四十五センチの背丈に、ダボダボすぎる学ランという最悪のコンディションで昇降口へ向かっていた。

 母は『どうせすぐ大きくなるんだから』と笑ってた。けど、今この瞬間に成長する予定なんてない。

 袖は手の甲をすっぽり覆っていて、肩は学ランの中で泳いでる。

思わずその中で指をギュッと握ったら、小学生の頃の自分が一瞬だけ蘇った。

 ──余計に不安になった。

 本当はピシッと決まった制服でキメて、初日から「イケてる男子」としてのスタートを切る予定だった。

 なのに現実はこれだ。小学生の頃ランドセルの中で、水筒のフタが開いててぐっしょりになった教科書みたいに、今の僕の気分は湿っていた。


 ──その時だった。

 昇降口の床が、雨で思いっきり濡れていた。

 やべ、と思った瞬間、足がすべった。

 体が後ろに傾く。「やばいやばいやば…っ」

 次の瞬間、腕をガシッとつかまれた。

前に回り込んで支えてくれたのは──栗色の髪の女の子。

制服の肩から雨粒が伝い落ち、濡れた前髪の隙間から、薄茶の瞳が真っ直ぐ僕を射抜いた。

 僕より少し背が高い。たった五センチほどの差なのに、その差がやけに意識に刺さった。


「……ドジだね、君」


 イタズラっぽく口角を上げながら、そう言って腕を離した。

 僕は反射的に縮こまって、即座に視線を逸らした。

 本当は「守る側」でいたかったのに、初日から「守られる側」になってしまった。


 ──男としての面目? 開始一分で丸つぶれだ。


 振り返ると、その子はもう僕のことなんて気にしてない様子で、別の女子と笑いながら靴箱に向かっていた。

 その笑い声が、なぜか耳に残った。

 内容も声も忘れたのに、笑いの「間」だけが残ってる。そんなの、ある?


「おーい、何やってんだよ!」


 後ろから声をかけてきたのは田島駿だ。小学校のときからの腐れ縁で、口は悪いけど面倒見はいいやつだ。いつもニヤニヤしてて、僕のことをよくいじってくる。

 

「いや…ちょっと滑って」

「お前らしいわ。で、誰?今の。可愛くね?」

「知らん」

「知らんって、お前助けてもらっといて?」

「……」


 田島のニヤけ顔がうっとうしい。僕はそそくさと靴箱で上履きに履き替えた。


 廊下の先、人だかりができている。クラス分け表だ。

 田島が「お、行こうぜ」と前に出ようとするが、人の波がすごい。


「わっ……満員電車かよ」

「お前が突っ込んでこい」

「やだよ」

「チビの特権だろ」

「…っ、クソッ」


 確かにこういう時だけ身長が武器になるのが悔しい。


 仕方なく人混みの隙間をくぐり抜けると──いた。

 さっきの、あの子。

 栗色の髪のその子が、友達と並んでクラス表を見上げていた。

 友達が「一緒だ!」と声を上げ、その子は口元を押さえて笑う。

 その笑い方は、昇降口のときよりずっと柔らかくて、なんだか眩しかった。


 ……なのに、僕は見てはいけないものを見てるような気がして、視線をクラス表に移した。


 一年二組──加賀湊かがみなと田島駿たじましゅん


「……あった」


 後ろから田島が覗き込んでくる。


「お、俺ら同じクラスだな。……てか、なんか顔赤くね?」

「赤くない」

「いや、赤いって」

「赤くない」

「絶対なんかあったろ」

「……ないって」


 田島はジト目で僕を見たが、それ以上追及せずに表から離れた。


 二組の集合場所に向かう途中、もう一度だけ振り返る。

 あの子はまだ友達と話していて、時々クラス表を指差しながら笑っていた。


 あの子は、僕の名前なんて知らない。

 あの小さな字の中に「加賀湊」がいても、きっとあの子の世界にはまだ存在していない。

 そう思ったら、少しだけ胸がざわついた。


 やがて集合の列が作られ始める。

 僕と田島は、二組の最後尾に並んだ。

 隣の列には一組が集まっていて、その中にあの子の姿があった。


 男子に何か話しかけられて、軽く受け流している。

 僕だったら、そんな余裕ゼロで変な返事してただろう。


 ──なんだあれ、強いな。初日から防御力高すぎだろ。


 列が動き出す。体育館の扉が近づくたび、胸の奥に変な感覚が広がっていった。


 恋って言葉はまだ背中が痒い。けど、鼓動は勝手に前へ出る。

 栗色の髪と、薄焦げ茶の瞳。

 さっきの一瞬だけが、まだ僕の中で終わっていない。


(……あの子と、また会うことはあるのか?)


 そんなモヤモヤを抱えたまま、僕は体育館の扉をくぐった。


 春の湿った空気が、体育館にこもっていた。

 そしてその匂いの奥に、あの子の「瞬き」だけが、しつこく残っていた。


 名前も、知らない。

それでも──たった一度の笑顔が、もう脳裏から離れなかった。


 田島が「おーい、湊、体育館行くぞ」と袖を引く。

 我に返って、慌てて後をついていく。


 ──入学式なんて、正直どうでもよかった。

 でも、もう一度だけ、あの子を見たいと思った。

 それだけで、足が少しだけ速くなる。

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