第3話
あれから二日後。
月曜日の朝、教室のドアを開けた俺は、自分の席の隣に小さな背中が座っているのを見て、心臓が大きく跳ねた。
朝比奈雫が、学校に来ていた。
俺の視線に気づいたのか、彼女の肩がびくりと震える。そして、ゆっくりとこちらを振り向いた。まだ少し顔色は白いが、あの夜のような危険な熱っぽさはもうない。
目が合う。ほんの一秒にも満たない時間。
彼女は、何かを言いかけたように小さく口を開き、しかし、すぐに俯いてしまった。長い前髪がカーテンのように彼女の表情を隠し、耳だけがほんのりと赤く染まっているのが見えた。
俺は平静を装って自分の席に着いたが、心の中は嵐のようだった。
どう接すればいい? 何か声をかけるべきか? いや、ここで話しかけたら周りに怪しまれる。
俺と彼女の関係は、この教室においては『ほとんど話したことのない隣の席の生徒』のままでなければならないのだ。
結局、俺たちは朝のホームルームが始まるまで、一言も言葉を交わさなかった。
だが、以前とは何かが決定的に違っていた。
これまでの彼女は、俺にとって景色の一部、いてもいなくても変わらない『空気』のような存在だった。しかし、今は違う。彼女の些細な仕草一つひとつが、嫌でも俺の意識に飛び込んでくる。
ノートを取る時の、少し丸まった背中。
教師に指名されて、消え入りそうな声で答える時の、緊張した横顔。
時折、ちらりとこちらを窺うような視線。
そのすべてが、あの部屋で見た彼女の姿――努力の跡が詰まった本棚や、ファンからのプレゼントを大切に飾っていた光景、そして、涙でぐしゃぐしゃになった無防備な泣き顔――と重なって、俺の胸をチクリと刺した。
俺は、朝比奈雫という少女のことを、今まで何も知ろうとしていなかったのだ。
昼休み。いつものようにクラスの中心グループが騒がしく弁当を広げる中、雫は一人、席で文庫本を開いていた。その時だった。
グループの一人、お調子者の男子生徒である鈴木が、雫の机のそばを通りかかった。
「うおっ、わりぃ」
わざとらしくそう言って、鈴木は雫の机の角にぶつかり、床に落ちていた彼女の筆箱を蹴飛ばした。シャープペンや消しゴムが、無残に床へ散らばる。明らかに、わざとだ。
雫は、びくりと肩を震わせただけで、何も言えない。鈴木の仲間たちが、それを見てクスクスと笑っている。
教室の誰も、彼女を助けようとはしない。それが、このクラスにおける彼女の立ち位置だった。
俺の腹の底で、何かがぐらりと煮えくり返った。
以前の俺なら、きっと気づかないフリをしていただろう。面倒なことには関わりたくない。それが俺の信条だったからだ。
だが、今は違う。床に散らばったキャラクターもののシャープペンは、配信部屋のマグカップと同じシリーズのものだった。
あれは、彼女が『ルナ』として、ファンのみんなに支えられながら、必死に生きている証だ。それを、お前らなんかに踏みにじられてたまるか。
俺は無言で席を立ち、雫の足元にしゃがみ込むと、散らばった文房具を一つひとつ拾い始めた。
「……え、佐藤……くん?」
「……別に。落とし物、拾ってるだけ」
驚く雫と、気まずそうな顔をする鈴木たちを無視して、俺はすべての文房具を拾い集め、彼女の筆箱に入れて机の上に置いた。
「……ありがとう」
蚊の鳴くような声で呟く彼女に、俺は「ん」とだけ短く返して、自分の席に戻った。
たったそれだけの、ほんの些細な出来事。
それでも、俺と彼女の間には、確かに昨日までとは違う空気が流れ始めていた。
放課後。俺がスマホをチェックすると、メッセージアプリに一件の通知が入っていた。
送信主は、『朝比奈雫』。
あの日、緊急連絡用にと交換した連絡先から、初めて届いたメッセージだった。
『今日は、ありがとう。それと……今夜9時、復帰配信します』
短い文面の後に、少し間を置いて、もう一通。
『……見てて、ほしいな』
俺は、スマホを握りしめた。
ただのファンじゃない。クラスメイトでもない。
彼女にとっての、たった一人の『特別』。俺は、そのポジションに足を踏み入れてしまったのだという事実を、改めて突きつけられた気がした。
午後9時。
俺は、あの日と同じようにPCの前に座っていた。しかし、画面を見つめる心境は、以前とは全く違っていた。
それは、好きなアイドルのライブを待つファンの心境というよりは、我が子の初めての発表会を見守る親の心境に近い。ちゃんと喋れるだろうか。歌えるだろうか。咳き込んだりしないだろうか。
そんな俺の心配をよそに、定刻通り、画面の中のルナ・アクエリアは、満面の笑みで現れた。
『みんなー! こんルナー! 心配かけてごめんね! ルナ、完全復活だよー!』
いつもと変わらない、完璧なアイドルの姿。
チャット欄は、「おかえり!」「待ってた!」「無理するなよ!」という温かいコメントで埋め尽くされる。
【YOTA:おかえり、ルナちゃん。無理せず楽しんで】
俺も、いつも通り『YOTA』としてコメントを送る。
『YOTAさん! ありがとう! うん、今日は楽しむって決めたから!』
画面の向こうの彼女が、俺のコメントを読んで微笑む。
その笑顔が、今は俺だけに向けられた特別なサインのように思えて、心臓が勝手に音を立てた。
配信は、ファンへの感謝を伝える快気祝いの歌枠だった。
一曲、また一曲と、彼女の美しい歌声が部屋に響き渡る。その歌声は、以前よりもどこか力強く、そして楽しそうに聞こえた。
俺は、知っている。
彼女がこの日のために、どれだけ練習を重ねてきたのか。どれだけ不安と戦っていたのか。
チャット欄に流れる何千、何万という賞賛のコメント。そのすべてが、自分のことのように嬉しかった。これが、特別観覧席の特権というやつだろうか。
ライブの終盤、最後の曲を歌う前に、ルナがふっと息をついて語り始めた。
『あのね、みんな。私が今回、こうしてまた元気に戻ってこれたのは、ファンのみんなの応援はもちろんだけど……もう一つ、すごく、すごく心強い味方がいてくれたからなんだ』
チャット欄が「誰?」「マネージャーさん?」「家族?」とざわつく。
もちろん、俺には分かっていた。
『その人がね、「君は一人じゃない」って言ってくれたの。その言葉が、私にすごい力をくれて……。だから、今日の最後の曲は、そのたった一人の“君”と、応援してくれるみんなに、感謝を込めて歌います』
そう言って彼女が歌い始めたのは、優しいメロディのラブバラードだった。
それは、俺が知る限り、彼女が初めて歌う曲だった。
きっと、この日のために、練習してくれたのだろう。
俺だけに向けられた、秘密のメッセージ。
気づけば、俺の視界は、少しだけ滲んでいた。
配信は、過去最高の盛り上がりを見せて、大成功のうちに幕を閉じた。
「おつルナー!」の弾幕が画面を埋め尽くし、ファンたちが祭りの後の余韻に浸っている、その時だった。
ブブッ、ブブッ。
机の上で、俺のスマホが震えた。
画面に表示された名前は、『朝比奈雫』。
俺は、大きく一度深呼吸をしてから、通話ボタンをタップした。
「……もしもし」
『……もしもし、佐藤くん? 見てて、くれた……?』
電話の向こうから聞こえてきたのは、配信中の『ルナ・アクエリア』のハキハキとした声とは全く違う、甘くて、少しだけ掠れた、素の『朝比奈雫』の声だった。
さっきまで何万人もの前で堂々と歌っていた人物と、同一人物とは到底思えない。
「ああ、見てたよ。最高のライブだった」
『……よかったぁ……』
電話の向こうで、彼女が心の底からホッとしたような、深い息を吐くのが聞こえた。
『佐藤くんに、そう言ってもらえたら……安心、する……』
その声は、まるで全身の力が抜けてしまったかのように、とろけるように甘い。
完璧なアイドルという鎧を脱ぎ捨てて、無防備な素顔を晒す瞬間。
そして、その姿を知っているのは、世界で俺一人だけ。
『あのね……』
「ん?」
『一人でいると、また不安になっちゃうから……もう少しだけ、話してても、いい……?』
ライトが消えた後の、特別なアンコール。
それは、俺だけが許された、秘密の儀式の始まりだった。
「……ああ、いいよ。好きなだけ」
俺は、これから何度となく繰り返されることになるこの甘い儀式を、静かに受け入れた。
隣の席のぼっち女子は、配信(ライト)が消えた後、こうして俺にだけ懐いてくる。その事実が、たまらなく俺の心を独占欲で満たしていくのを、感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。