推しのVtuberの正体は隣の席のぼっち女子でした。配信外では俺にしか懐きません

Ruka

第1話

退屈だ。

窓の外を流れていく雲を眺めながら、俺、佐藤陽太(さとう ようた)は何度目になるか分からないため息を飲み込んだ。

古典教師の抑揚のない声が、まるで安眠を誘うBGMのように教室に響き渡る。クラスの半分はすでに夢の世界へと旅立っているか、あるいはスマホの画面に意識をダイブさせているかのどちらかだ。俺もどちらかと言えば後者になりたいクチだが、生憎と窓際の席は教師の視線が届きやすい。


平凡な容姿、平凡な成績、平凡なコミュニケーション能力。それが俺のスペックだ。スクールカーストで言えば、下の中か、よくて中の中。積極的にいじめられることはないが、クラスの中心グループに名を連ねることもない。いるかいないか分からない、モブキャラA。それが俺の立ち位置だった。


高校二年の秋。このまま何も起こらず、何も変えられず、灰色の三年間は終わっていくのだろう。そんな諦めにも似た感情が、胸の奥に澱のように溜まっていた。


だが、そんな俺にも一つだけ、世界で一番だと胸を張って言えるものがある。

この灰色の日々を、鮮やかな極彩色で塗り替えてくれる、たった一つの『光』が。

だから、放課後のチャイムがゴングのように鳴り響くと、俺は誰よりも早く教室を飛び出すのだ。友人からの「カラオケ行かね?」なんていう誘いも「わりぃ、用事あるわ」と素気無く断って、家路をひた走る。

今日の夜9時。彼女が、世界が、俺を待っている。



午後8時55分。

風呂と食事をハイスピードで済ませ、自室のPCの前に陣取った俺は、すでに臨戦態勢に入っていた。ディスプレイには、これから始まる配信の待機画面が映し出されている。チャット欄は、俺と同じようにこの瞬間を待ちわびていたファンたちのコメントで、すでに凄まじい速度で流れていた。

そして、定刻の午後9時。

画面が切り替わり、星空を背景にしたステージに、一人の少女がふわりと舞い降りる。


『みんなー! こんルナー! 銀河から一番近いお月様、あなたのアイドル、ルナ・アクエリアだよー!』


ヘッドホンから響く、鈴を転がすような声。モニターの中では、銀色の髪を揺らし、碧い瞳を輝かせる美少女が、満面の笑みで手を振っていた。

俺の推し、チャンネル登録者数50万人を誇る超人気Vtuber『ルナ・アクエリア』だ。

彼女を一言で表すなら、『完璧』。これに尽きる。

その歌声は、どんな栄養ドリンクよりも俺の心を奮い立たせる。その笑顔は、どんなバラエティ番組よりも俺を笑わせてくれる。リスナーへの丁寧なファンサービス、時に見せる少し天然な一面、そして何より、歌っている時の彼女は、この世の誰よりも輝いて見えた。

【YOTA:こんルナー! 今日も待ってた!】

【ニワトリ男:ルナちゃん今日も可愛い! 愛してる!】

【世界は青色:歌枠たすかる】

【田中建設:おかえり、俺たちの歌姫】

高速で流れていくコメントの奔流に、俺もすかさず参加する。リスナー名『YOTA』。それが、この色鮮やかな世界での俺の名前だ。古参を自負する俺は、今日も今日とて配信開始と同時にコメントを打ち込む。


『わ、YOTAさん! こんルナー! いつも一番乗りで嬉しいな。ありがとう! ニワトリ男さんも、田中建設さんも、みんなありがとうね!』


「うおっ……!」


思わず声が漏れた。名指しのレスポンス。いわゆる『認知』というやつだ。画面の向こうの彼女は、何十万人というファンの中の一人にすぎない俺の名前を、確かに覚えてくれている。心臓がバカみたいに跳ねる。頬が緩むのが自分でも分かった。これだから、彼女の配信はやめられないのだ。

今日の配信は歌枠だった。リクエストに応え、流行りのJ-POPから懐かしのアニソンまで、どんな曲でも完璧に自分のものにして歌いこなすルナ。そのパフォーマンスは圧巻で、コメント欄は賞賛とスパチャの嵐に埋め尽くされる。

完璧なアイドル。非の打ち所がない、俺だけの、そして、みんなの歌姫。

その日の配信も大成功に終わり、配信終了の挨拶『おつルナー!』の弾幕が画面を埋め尽くす頃には、俺の心はすっかり満たされていた。

この充実感があるから、明日からの灰色の日常もなんとか耐えられる。そう、本気で思っていた。




翌日。

昨夜の興奮を胸に登校した俺を待っているのは、やはり灰色の現実だ。

俺の席は窓際の後ろから二番目。そして、その隣――窓際の席に座っているのが、朝比奈雫(あさひな しずく)だ。

長い前髪はいつも彼女の表情を隠していて、青白い顔をさらに影らせている。色素の薄い茶色の瞳は、いつもどこか遠くを見ているようで、一度として合ったことがない。教科書を机に出す時のか細い腕、猫背気味の小さな背中。誰と話すでもなく、休み時間はいつも一人で分厚い文庫本を読んでいる。

体育の授業でペアを組む相手がおらず、教師に促されて仕方なく余り物の俺と組んだ時も、彼女は一言も喋らなかった。グループワークで意見を求められても、「……みんなと、同じでいいです」と蚊の鳴くような声で呟くだけ。

典型的な『ぼっち女子』。それがクラスの全員が彼女に抱いている共通認識だろう。もちろん、俺も例外じゃない。別にいじめようとか、からかおうとか、そんな気は一切ない。ただ、どう接していいか分からない。だから、俺たちは隣の席なのに、ほとんど言葉を交わしたことがなかった。空気のような存在。それが朝比奈雫だった。

昨夜、モニターの向こうで何万人ものファンを熱狂させていた光の化身。

今、隣の席で存在感すら消している、影のような少女。

あまりにも対極的な二つの存在。この時の俺は、まだ知る由もなかった。この二つの存在が、俺の日常の中で、やがて一つの線として繋がることになるなんて。

そして、あの完璧なアイドルが、俺がいないと息もできなくなってしまうほど、弱くて脆い女の子だったなんて――。

物語が、いや、俺と彼女の運命が動き出したのは、その日の夜のことだった。

いつものように午後9時、ルナの配信が始まった。今日は雑談配信だ。ファンからのコメントを拾いながら、最近あったことなどを楽しそうに話している。

だが、今日の彼女はどこか様子がおかしかった。

声が、少しだけ掠れている。時折、言葉に詰まったり、マイク越しに小さな咳が聞こえたりする。

【大丈夫?】

【喉の調子悪そう】

【無理しないで】

ファンからの心配のコメントが溢れる。俺も『今日は早めに休んだ方がいいよ』とコメントを送った。


『だ、大丈夫だよ! みんなの応援があれば、ルナは元気100倍だから! ね?』


彼女は健気に笑顔を作って、そう言った。プロ意識の高さ。それも彼女の魅力の一つだ。だが、その言葉とは裏腹に、彼女の声はどんどん苦しそうになっていく。

そして、配信開始から三十分が経った頃だった。


『……それでね、この前マネージャーさんと……っ、ごほっ!ごほっ!』


マイクが拾ったのは、今までとは比べ物にならないほど激しい咳だった。チャット欄が、ファンの悲鳴のようなコメントで埋め尽くされる。


『ごめん、みんな。今日は、ちょっと……っ、う……』


苦しげな声。そして、ブツリという音と共に、配信は唐突に中断された。画面には『配信が中断されました』という無機質な文字が表示されている。

何が起きたのか、すぐには理解できなかった。

数十秒の沈黙の後、チャット欄は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

「ルナちゃん!?」「大丈夫か!?」「誰か助けに!!」

Twitterを開けば、#ルナちゃん が日本のトレンド1位になっている。心配する声、憶測、ただただ混乱が広がっていた。俺も心臓が嫌な音を立てるのを感じながら、ただ呆然と暗転した画面を見つめることしかできなかった。



翌朝。

ほとんど眠れないまま、重い足取りで教室に入ると、いつもより少しざわついた空気が漂っていた。クラスのオタク仲間たちが、昨夜のルナの配信について深刻な顔で話し合っている。俺もその輪に加わろうとした時、ホームルームの開始を告げるチャイムと共に担任が入ってきた。


「えー、連絡事項だ。朝比奈が風邪で休みだ。結構熱が高いらしい。それから佐藤、お前隣の席だし、悪いが放課後プリントを届けてやってくれ」


――朝比奈が、風邪で。

その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で、昨夜の出来事と、今聞いた事実が、カチリと音を立てて繋がった。

まさか、な。

頭の中に浮かんだ、あまりにも突飛で、アニメやラノベみたいな偶然。俺は力なく笑って、その馬鹿げた考えを打ち消した。そんなわけがない。

偶然だ。偶然に決まってる。

だが、放課後。担任からプリントと地図を渡された俺の胸には、拭い去れない小さな疑惑のトゲが刺さったままだった。

地図アプリを頼りにたどり着いたのは、駅から少し離れた住宅街にある、古びた二階建てのアパートだった。表札には、確かに『朝比奈』と書かれている。ここに、あのクラスで一番地味な女の子が住んでいるのか。

俺の胸のざわめきは、大きくなる一方だった。

階段を上り、二階の角部屋『201号室』の前で足を止める。

深呼吸を一つ。大丈夫だ。ただプリントを渡して、すぐ帰る。それだけだ。

俺は自分にそう言い聞かせ、インターホンに指を伸ばした。

その、瞬間だった。

ドアの向こう側から、微かに、でもはっきりと聞こえてきたのだ。

苦しそうな息遣いに混じって、俺が世界で一番聞き慣れた――いや、聞き慣れすぎた、あの歌声が。

それは、昨夜の配信でルナが歌っていた、アカペラの鼻歌だった。

音程は少し外れていて、声も弱々しい。だが、間違いなく彼女の声だ。

頭を鈍器で殴られたような衝撃。思考が停止する。

嘘だろ。

なんで。どうして。

偶然だと言い聞かせていた可能性が、今、目の前で99.9%の確信へと変わっていく。

どうする?

逃げるか? 聞こえなかったフリをして、プリントをポストに入れて帰るか?

いや、でも。

昨夜の、あの苦しそうな声が脳裏に蘇る。一人で倒れていたら?

心配が、恐怖と好奇心を上回った。

俺は震える手で、インターホンではなく、ドアノブにそっと手をかけた。

鍵は、かかっていなかった。


「……朝比奈さん? 佐藤だけど。プリント、持ってきたぞ……?」


ギ、と小さな音を立ててドアを開ける。

薄暗い玄関の先、開け放たれたリビングのドアから、光が漏れていた。

そして、俺の目に飛び込んできたのは。

PCモニターの青白い光に照らされた、見慣れた配信部屋の光景。壁に貼られた防音シート。高性能そうなコンデンサーマイク。そして――ベッドの上で、ぐったりと横たわり、苦しそうに息をする、一人の少女の姿。

着ているのは、ヨレヨレのスウェット。長い前髪は汗で額に張り付き、いつもは隠れている顔の輪郭が露わになっている。

その顔は、紛れもなく。


「……あさひな……?」


俺の呟きに、彼女の瞼がゆっくりと持ち上がる。

色素の薄い瞳が、虚ろに俺を捉えた。


「……さとう、くん……? なんで……」


それは、俺の推し、『ルナ・アクエリア』と、寸分違わぬ声だった。

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