高飛車オメガは奴隷のアルファをお望みです

なつきはる。

第1話

 これはまずいことになったかもしれない。

 シエロ=ガルシアは両手両足を縛られて地べたに転がされていた。あまりにも普段の自分からはかけ離れた出来事に頭がついていかず、どこか他人事のように感じる。どうしてこうなったのかと言えば少し長くなるが、迷い込んだ路地の先で運悪くガラの悪い男たちに目をつけられたのが運の尽きだった。

「こいつは上玉だ。賞金の代わりに、勝ったやつにはこのオメガを進呈することにしよう」

 踏ん反り返ってそう言った、でっぷりとした体格の男がどうやら親玉らしい。手下のひとりに髪を掴まれて、乱暴に頭を上げさせられる。あまりの屈辱に抗議しようと思っても、汚い布で口を覆われているせいで呻き声しか出せない。どうせいくら叫んだところで表通りまでは届かないだろうから、減らず口を叩いて痛い目に遭うよりはマシかもしれない。

「これでちったぁあいつらもやる気が出るだろう。いつまでもアルバのひとり勝ちじゃあ、客も飽きてくるだろうからな」

「可哀そうだが、元の生活に戻れるとは思わない方がいい」

「いいとこのお坊ちゃんなんだろう。身包み剥がすだけで、金貨百枚はくだらねぇなぁ」

 口々にそう言った男たちが、唾を飛ばしながら笑った。身包みを剥がされるのは流石に困るなと思うシエロを他所に、幸い男たちはすぐにそうするつもりはなさそうだ。どうやら彼らはシエロを〈賞品〉にするつもりらしいので、見栄えがいい方がよいのだろう。

 そのうちにシエロはひとりの男に担がれて、一角に置かれた檻の中に投げ込まれた。多少は手荒だったし動くには窮屈な体勢だったが、とりあえず大きな怪我を負わなくて済んだ。それにひとまず安心して、ここからどう脱出しようかと思考を巡らせる。万が一手足の拘束を解けたとしても、堅牢な檻からひとりで出ることは難しい。いなくなったシエロを血眼になって探している護衛たちがいるのは、少なくともここから離れた表通りの方だ。まさかこんないかがわしい場所に捕らわれているとは夢にも思うまい。

 さて、そもそもどうしてこうなったのかと言うと、シエロが今朝がた行われる予定だった婚約者候補との見合いから逃げ出したところまで遡らなければいけない。父親がシエロのために見つけてくる候補者との見合いは、シエロの〈運命の相手〉が見つかるまで永遠に続けられる。数日に一度行われるそれにとうとう嫌気がさしたシエロは、城内が準備に追われている隙を見計らって抜け出すことに成功したのだった。

 もちろん、すぐにバレて追いかけられる羽目になった。しかし上手いこと護衛の目から逃れることに成功し、物珍しさからうっかり路地の奥の方まで来てしまった。そこは闘技場に続く道で、聞くところによれば剣闘士の勝敗を予想する賭け事が行われているという。ある程度の人通りもあったし、まだ明るいから大丈夫だと油断していた。どんなところか見てみたい、という好奇心に勝てなかった代償に、シエロは気づいたら先ほどのガラの悪い男たちに囲まれていた。考えなしに普段通りの格好で出てきてしまったが、シエロの服装は市井を歩くには些か立派で目立ち過ぎたようだ。

 頬に当たる土の感触を初めて体験しながら、その体勢でいる時間が長くなるにつれ、流石に焦りが顔を覗かせる。奴隷を使っての剣闘はこの国では禁じられていない。けれど今日の〈商品〉がこの国の皇太子であることが非常にまずかった。あの男たちはシエロのことをその辺の貴族の息子だろうと高を括っている。しかし大変困ったことに、シエロはこの国の皇太子である。しかも国王からは溺愛されているとくる。あの父王のことだから、シエロを貶めた男たちを黙って見過ごすはずがなかった。

 剣闘を廃止し、闘技場を壊すことなど朝飯前だろう父親に、こうなっていることを悟らせるわけにはいかなかった。シエロの身勝手な不注意で国民の娯楽を取り上げるわけにはいかない。こんな羽目に陥っていても、常に国民のためを想い、国民のための政治を学んできた身としては、自分の身は二の次だと考えてしまう。もし自分の身に最悪なことが起こっても、幸いシエロには双子の弟がいる。優秀な弟がいてくれるというのも、シエロの無茶ができる理由なのだった。

「これが今日の賞金の代わりか?」

 抜け出すための思案に沈んでいたシエロは、降って湧いた声に視線を上げた。檻を覗くようにしゃがんでいる男の顔は逆光でよく見えない。上裸に革製の胸当てをつけている様子から、剣闘士のひとりなのだろうと予測する。すっかり物思いに耽っていて気づかずにいたが、シエロの檻は少し拓けた、中を覗きやすい場所に置かれているようだった。今日試合に出る剣闘士たちが本日の〈商品〉をじっくり品定めできるようにとの配慮だろう。

 上裸の男がどう思う?と背後を振り返る。それでようやく、シエロはそこにもうひとり長身の男が立っているのに気づいた。

「俺は興味がない」

「じゃあ今日は俺に勝利を譲ってくれよ。毛並みのいいオメガちゃんを抱く機会なんてそうそうねぇからさ」

 そう笑う男の声に、シエロは俄かな恐怖に襲われた。〈商品〉にされるということは、勝ち取った男になにをされるのかわかったものではない。その事実にようやく頭が追いつくと、身体が小刻みに震えだした。全身が怖気だって、絶望の淵に落ちていきそうになる。

 シエロの様子に気づいたのか、うしろの男が前の男の肩を掴んだ。檻から離すような仕草に、微かな優しさを感じる。長身の男の褐色の肌はこの国では非常に珍しかった。薄手のシャツの上に防具を身に着けているのを見るに、この男も剣闘士なのだろう。短く切った小麦色の髪に緑がかった目を持つその秀麗さに、思わずシエロは見惚れてしまっていた。

 もうひとりの男の顔はよく見えないのに、彼の顔だけは輝いているようによく見える。じっと見つめている視線に気づかれたのか、男が不愉快そうに顔を顰めて寄越した。そんなことをされたのは初めてのことだが、ちっとも腹立たしく感じない。いつの間にか恐怖もどこかへ吹っ飛んで、この男の素性を知りたいという欲の方が勝ってきていた。この顔がどんな表情を浮かべて、どんな声で話すのか知りたい。

 そう想うのは生まれて初めてだった。

「なんだぁ?この子、お前に見惚れているぞ?」

 上裸の男に揶揄されるのを、褐色の男が鼻で笑い飛ばした。行くぞともうひとりに声をかけて立ち去ろうとするのへ、思わずシエロは呻き声を上げる。噛まされている布を舌でどうにか押し出すと、上手いこと弛んでいたせいもあるのか口が自由になった。

「待て!僕を助けろ!」

 焦っていたせいで、つい高慢な物言いになってしまった。シエロの寵愛を得ようと媚び諂う男たちを跳ね除けるのには有効でも、意中の相手に助けを乞うのには相応しくない。上裸の男が面白そうに笑って、俺が助けてあげようか?と猫撫で声を出した。それにお前じゃないと噛みついても、にやにやとした笑みを浮かべられただけだった。

「僕はそっちの男に言ったんだ。お前!名前はっ、」

「よくもまぁ、そんなところに捕まっていてそんな口をきけるもんだな。人にものを頼むときは、少しくらい下手に出た方がいい」

 感心しているのか、はたまた呆れているのか。溜息と共に吐き出された声音は、シエロの耳に心地よく響いた。程よく低くてよく通る。耳から侵入してきた声音に心の芯が痺れるのを感じる。その声で名を呼ばれたらどんなしあわせを覚えるのだろう。しかし今はそんなことを夢想している場合ではなかった。

「下手に出る?この僕が頼んでいるのに?」

「どこの誰だか知らないが、随分と甘やかされて育ったんだな。痛い目に遭いたくなければ、試合が終わるまでその口は閉じておいた方がいい」

 生まれたときから敬われる立場だったので、遜って頼むという態度がそもそもどういうものなのかわからなかった。欲しいものが手に入らなかったことなどないし、そもそも誰かにものを頼むという行為自体したことがないような気がする。どうにか頭を起こしているだけの体勢で助けて欲しいと懇願するのさえ屈辱なのに、この男はシエロを憐れんでもくれないらしい。

「口を閉じていたら助けを呼べない」

「お前、自分の立場がわかっていないようだな。お前はこのあとの試合で優勝した男にいいようにされるんだ。もっと危機感を持った方がいい」

「危機感なら持っている。でもお前に逢ったらどっかにいってしまった」

「はぁ?意味がわからん」

「僕だってわからない。だが、お前が助けてくれるんだろう?」

 シエロと話しているのが苦痛だとでも言いたげに、男が顔を顰めた。けれど生憎と、シエロの言葉は本心だった。好かれている気配など微塵もないのに、この男がいてくれたら大丈夫だという確信がいつの間にか生まれていた。この男はシエロのことを護ってくれる。既に護られているような気配さえ感じているのは、シエロの思い上がりだろうか。

上裸の男はその様子ににやにやとした笑みを浮かべていたが、とくに口を出すきはないようだった。先ほどまでは自分に譲ってくれと言っていたのに、シエロの様子を見てその気持ちも失せたのか、面白そうに会話の行方を見守っている。シエロの体勢がつらそうなことに気づいたのか、太い腕を鉄格子の間から差し入れて座れるように態勢を整えてくれた。ついでに縄を解いてほしかったが、それはできぬ相談であるようだ。

「こんなかわいこちゃんに頼まれたら、流石のアルバも流されないわけにはいかねぇなあ」

「残念だが俺はオメガに興味がない。お前がどんなに見目麗しかろうとな」

 面倒くさそうな溜息を吐かれてようやく、シエロに対する酷い態度に説明がついた。シエロがいくらこの優秀なアルファに惹かれていようと、この男はシエロに対してなにも感じてはいないようだ。オメガとアルファの間にのみ成立する〈運命〉は出逢った瞬間に強く惹かれ合うと聞いていたが、どうやら自分たちは例外であるらしい。

 それでもシエロの気持ちは潰えなかった。ここから出た暁には、この男のことはどうとでもできる。シエロはそれだけの権力も権限も持っているのだから。

「僕をここから出してくれたら、お前を自由にしてやってもいい」

「だから、お前は何様のつもりでものを言っているんだ。自分の自由は自分で買う。お前の情けは受けない」

「だったら僕のことを勝ち取ってみせろ。そうすればこの僕をすきなようにできるぞ?」

 そんなつもりはなかったのだけれど、ついシエロの口からはいつも通りの傲慢さが出てしまった。その上声には些か命令の響きが含まれている。それに気づいた男たちが鼻を鳴らして、上裸の男がお高く止まっているねぇと口笛を吹いた。

 運命の男は盛大な溜息を吐いたあと、なにも言わずにどこかへ行ってしまった。シエロの名残惜しさに気づいたのか、立ち上がった上裸の男が期待しておきなよと笑った。

「ああは言ってもあいつは結局優しいから、あんたを放っておいたりしないさ。それにどうせ誰もアルバに敵いやしない」


 その言葉通り、アルバは見事にその日の優勝を勝ち取ってみせた。彼の人気は凄まじく、最後の相手を打ち押したとき、シエロは満員の闘技場が歓声で震えたように感じた。

 シエロを監禁した男がこの剣闘の主催者であるらしい。彼の席の側に座らされていたシエロは、アルバが勝ち残ったことを知るやいなや、傍に控えていた下っ端たちに無理矢理彼の元へと引き摺り出される羽目になった。着ていた服はすっかり薄汚れてしまっていたし、顔だって汚れているに違いない。それでもシエロの可憐さは観客たちから感嘆の溜息を引き出した。金色の髪に澄んだ青い瞳は皇族の証だと知る人間がここに何人いるだろう。シエロは只今捕らわれた可哀そうなオメガであったが、弱々しい姿を国民たちに見せるのは忍びなくて、精一杯胸を張って顎を引く。皇太子たるもの、常に凛としていなければいけないと気を引き締める。

 負けて悔しがる剣闘士たちはアルバを野次ったり冷やかしたりしながら、好き勝手な喚きを上げていた。檻に閉じ込められていた間、男たちは代わる代わる本日の賞品であるシエロを見定めるように見にきていたが、どんなに酷い言葉を投げかけられてもシエロはアルバの忠告に従って口を開くことはしなかった。痛い目には遭いたくなかったし、アルバ以外の男に触れさせるつもりもない。あのあと彼は姿を見せなかったが、しっかりと優勝を勝ち取ってくれたことが答えだと、勝手に解釈させてもらう。

「結局はお前のひとり勝ちか。それとも、この子が欲しくていつもより本気を出したのか?」

 下っ端のひとりが揶揄するようにシエロの肩に腕を回してきた。ずっしりと肩に乗っかる腕の重さが気持ち悪くて、思わず顔を顰めそうになるのを懸命に怺える。まるで触れている部分から嫌悪感が染み出してくるようだ。

「勝ったんだからそいつは俺のものだろう。その汚い手を離してもらおうか」

 冷静なアルバの声に会場が水を打ったように静まり返った。シエロはよく知らないけれど、彼がそんな反応をするのは珍しいことであるらしい。戸惑うような返事をした男に突き飛ばされたシエロは、慌てたようなアルバの腕に抱き留められた。足の拘束は解かれていたものの手は縛られたままだったので、上手くバランスが取れなかったのだ。

「乱暴なことをするな。傷がついたらどうしてくれる」

 そう凄んだアルバの気迫に周りにいた男たちがどよめいた。大丈夫かと顔を覗き込まれて肯くと、彼が安堵するような溜息を吐いた。抱き寄せられる腕に力が籠って、護られている感覚が強くなる。さっきは興味がないとはっきり言ったくせに、いざとなったらしっかりと助けてくれる優しさに、シエロの心は完全に持っていかれてしまった。

「アルファだからって驕るなよ、アルバ。その男はお前が味わったあと、こっちに返してもらうんだからな」

 事の成り行きを見守っていた主催者が、下卑た笑みを浮かべながらこちらへと歩いてきた。観客たちはその様子を固唾を呑んで見守りながら、時折どよめいたり息を呑んだりする。男の言葉にぞっとしたシエロだったが、そんな目には遭わないという謎めいた確信を持ってもいた。アルバの腕の中にいる間は、どんな危機が訪れようとも絶対に安全だと感じていたからだ。

「話が違うじゃないか!買ったやつに僕を進呈すると言っただろう!?」

 だからつい、口を開いてしまった。にやにやとした男の顔が間近に迫ると、アルバが庇うように身を引いてくれる。その様子に鼻を鳴らした主催者に、奴隷風情がと罵られた。流石のシエロもそこまで言われると黙ってはいられない。

「お前こそ誰に口をきいている!僕はこの国の、」

 うっかり正体を明かしそうになったところでアルバの手がシエロの口を覆った。講義するように見上げれば、減らず口は叩くなと言っただろうとその目に咎められる。それから顎を固定されたと思ったら、彼の唇に唇を奪われていた。初めてのくちづけに動けずにいるうちに、アルバの舌に唇をこじ開けられてしまう。

 まるで食べ尽くすようなくちづけに頭が真っ白になった。身体から力が抜けてアルバにしがみつくのがやっとで、鼻に抜ける自分の甘い声が聞き慣れない。お前は俺のものだと教えられているようだった。頭の芯が痺れて、上手く状況が理解できない。

「なにをする、」

「貰った賞品になにをしようと俺の勝手だろう。悪いが、これは俺のオメガだ。返すつもりはない」

 そう断言したアルバに主催者が鼻白んだ。観客が爆発的な歓声を上げる隙間に、祝福の声や冷やかしが混じっているのが聞こえる。男はぐっと抗議の声を飲み込んだらしく、まぁいいだろうと吐き棄てた。その代わり、今日の分の賞金はチャラだと言う。

「その男にはそれくらいの価値はあるだろう。身包みだけでも金貨百枚以上だ」

「それでいい。じゃあ、貰っていくぞ」

 くちづけの余韻でぼんやりしていたシエロは、不満げに鼻を鳴らしたアルバの肩に担ぎ上げられた。軽々とそうされてしまってから、ようやくじたばたと抗議の声を上げる。それを煩そうに動くなと一括されると、むっと唇を尖らせながらも黙るしかなかった。いくらシエロの方が身分が上だとはいえ、オメガはアルファには本能的に逆らえない。

 そういう風にこの世の中はできている。

 担ぎ上げられたまま闘技場をあとにしたシエロは、捕まったあたりの路地まで来たところで地面へと降ろされた。闘技場の方からはまだ観客のざわめきが聞こえており、今しばらくは興奮が冷める気配はない。こっちだと言われてついて行くと、細い路地を抜けて大きな通りへと辿り着いた。なにをされるのかと身構えていたシエロは拍子抜けして、戸惑うような視線を彼に向けてしまう。

「なにもしないのか?」

「興味がないと言っただろう。お前が勝ち取れと言ったから約束通り勝ち取ってやった。それで充分だろ。俺たちはもう二度と逢わない」

「さっき僕にキスしたじゃないか!」

「あれはお前が余計なことを言いそうになったからだ。あんなところで身分を明かしてみろ、簡単に逃してもらえるわけがない。これに懲りたら二度とこんなところには来ないことだ。少なくともひとりではな」

 そう釘を刺されてはぐうの音も出ない。手の拘束をほどかれてさっさと行けと追い払われては、食い下がる気力さえ起きなかった。オメガにとって好いたアルファに邪険に扱われることほど、身に堪えることはない。

お前にならばなにをされてもよかったのに、と言う言葉は、ついぞシエロの口から出ることはなかった。



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