第12話:戸籍の亡霊

調査の地図が反転し、新たな目的地が設定された。 70年前の被害者一族、その最後の血脈に繋がるであろう「周梨花」という名の亡霊を追跡すること。


それが、三隅と王に課せられた新たな、そしておそらくは遥かに困難な調査の始まりだった。


三隅はまず、最も正攻法と思われる手段から着手した。

戸籍の調査だ。墓石の名前だけを手がかりに、横浜中の行政区役所に片っ端から問い合わせを入れる。


歴史研究家を名乗り、戦後の華僑の足跡を追っているという、もっともらしい理由をつけた。だが、返ってくる答えは、どこも同じだった。


「昭和30年代の記録、特に外国人登録原票となりますと、空襲による焼失や、その後の混乱で散逸してしまっているものが多くて……。

『周梨花』というお名前では、残念ながら該当する記録は見当たりませんね」


壁は、予想以上に厚く、高かった。

戦後の混乱期。

その言葉が、まるで分厚い鉛の壁のように、三隅の前に立ちはだかる。記録は失われ、人々の記憶は薄れ、70年という歳月は、一人の人間の生きた証をいとも容易く飲み込んでしまう。


彼女は、戸籍の上ですら亡霊だった。


「やはり、公の記録は当てにならんか」


「四海堂」のカウンターで、調査の進捗を報告する三隅の言葉に、王はさして驚くでもなく、静かに茶をすするだけだった。彼の口癖の一つだった。


「言ったはずだ。理には必ず痕跡が残る。

戸籍という公の記録だけが、人間の生きた証ではない、と」


王の言葉に促されるように、三隅は次の手段に打って出た。 聞き込みだ。

彼の最も得意とするフィールドワーク。


戦後の横浜中華街を知る人間は、今や数えるほどしかいない。

三隅は、過去の取材でリストアップしていた長老たちのもとを、一軒一軒訪ねて回った。



「周文徳の一家かい。

ああ、いたいた。気の毒な話だったよ」


海沿いの古いアパートで一人暮らす、90歳近い老婆は、濁った目で遠くを見つめながら言った。


「旦那さんが亡くなってから、奥さんはすっかり気落ちしてね。

一人息子の明くんも、病気がちだったし……。

結局、中華街にはいられなくなって、どこかへ引っ越していったよ。でも、どこへ行ったのかまでは、誰も知らないんじゃないかねえ」


「梨花、という名前の女の子に、心当たりはありませんか?」


三隅が尋ねると、老婆はゆっくりと首を振った。


「梨花?

さあ……聞いたことない名前だねえ。

明くんはまだ若かったし、子供なんていなかったはずだよ」


他の長老たちからも、得られる証言は似たり寄ったりだった。周文徳一家の悲劇は、朧げな記憶として残ってはいる。


だが、その先に続く血脈、梨花の存在を知る者は、誰一人としていなかった。

彼女は、人々の記憶の中ですら、亡霊なのだ。


調査は完全に行き詰まった。公の記録にも、人の記憶にも、周梨花という少女が生きた痕跡は、どこにも見当たらない。まるで、初めから存在しなかったかのように。


「どうするんだ、王さん。打つ手がないぞ」

事務所に戻った三隅は、苛立ちを隠さずに、電話の向こうの王に言った。「戸籍もダメ、聞き込みもダメ。これ以上、何をどう調べろって言うんだ」


『……ならば、理を変えるまでだ』


電話の向こうから、王の静かな声が聞こえた。


『人の記憶になくとも、土地の記憶に残っているやもしれん。

あるいは、同郷の人間が集う、互助の仕組みの中にな』


王が言っているのは、戦後の混乱期に各地の中華街で組織された、同郷出身者のための互助会や、死者を弔うための宗廟のことだった。

それらは、公的な記録とは別に、独自の帳簿や名簿を管理していることがある。


翌日、三隅は王と共に、横浜中華街の片隅にある、古びた福建省出身者のための同郷会館を訪れた。


埃っぽい事務所の奥から出てきた管理人の老人に、三隅はこれまでの経緯を丁寧に説明し、過去の名簿を閲覧させてもらえないかと頼み込んだ。


管理人は、最初は渋い顔をしていた。

だが、隣に立つ王が、静かに、しかし流暢な福建語で何かを囁くと、老人の顔つきが明らかに変わった。


彼は王の顔をじっと見つめ、何度か頷くと、奥の書庫から、虫食いだらけの分厚い和綴じの帳簿を数冊、持ってきてくれた。


ページをめくるたびに、古い紙の破片がはらりはらりと舞い落ちる。

そこに記されているのは、墨で書かれた無数の名前と、寄付金の額、そして彼らが日本へ渡ってきた日付だった。


戦後の混乱を生き抜いた人々の、生の記録。その膨大な名前のリストの中から、「周」の姓を持つ人間を、一人一人、指でなぞっていく。


周文徳、周美玲、周明。三人の名前はすぐに見つかった。

だが、やはり「梨花」の名は、どこにも見当たらない。


「ダメか……」

三隅が諦めかけた、その時だった。帳簿をめくっていた王の指が、ぴたりと止まった。彼が指し示したのは、周明の名前が記された欄の、そのすぐ下の余白だった。そこには、後から書き加えられたような、ひときわ細く、か弱い筆跡で、こう記されていた。


『明の死後、一女を遺す。名は梨花。母と共に、神戸へ』


「……神戸」

三隅は、その二文字を呆然と呟いた。横浜から遠く離れた、西の港町。周梨花は、死んではいなかった。生まれてすぐに、母親と共にこの街を離れ、神戸へと渡っていたのだ。ようやく掴んだ、70年前の亡霊の、最初の足跡だった。


だが、喜びも束の間、新たな絶望が三隅を襲う。神戸。あまりにも広すぎる。今から70年も前に、母子二人で移り住んだ人間の足取りを、この広大な土地でどうやって追えばいいというのか。記録は、ここで再び途切れている。


帳簿を閉じ、同郷会館を後にした二人の足取りは重かった。手掛かりを掴んだと同時に、その追跡がいかに困難であるかを思い知らされたからだ。夕暮れの雑踏の中、三隅の肩に、言いようのない重圧がのしかかる。それは調査の行き詰まりから来る焦りだけではない、もっと別の、じっとりとした何かが、自分の周りの空気にまとわりつき始めているような、不吉な感覚だった。


「なあ、王さん」

歩きながら、三隅は不意に口を開いた。

「気のせいかもしれないんだが……さっきから、どうも視線を感じるんだ。誰かにつけられているような……」


振り返っても、そこには雑踏に紛れて行き交う人々の姿があるだけだ。だが、背中に突き刺さるような、粘つく視線の感覚は消えない。

王は立ち止まると、三隅の顔をじっと見つめた。その目は、いつもよりも鋭く、険しい光を宿していた。

「……気のせいではないかもしれんな」

王は低い声で言った。「お前、自分の匂いが分かるか?」

「匂い?」

「ああ。線香の匂いだ。お前の周りだけ、古びた仏壇のような、線香の匂いが微かに漂っている」


言われて、三隅は自分の服の匂いを嗅いだ。だが、彼には何も感じられない。王の言葉の意味が分からず、怪訝な顔をする三隅に、王は続けた。

「調査は、一旦中断だ。店に戻るぞ」

その声には、有無を言わせぬ響きがあった。ただ事ではない。三隅は、自分の身に何かが起こり始めていることを、この時、ようやく予感し始めていた。

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