第10話:石に刻まれた名

翌日、空は鉛色の雲に覆われ、朝から冷たい雨が降り続いていた。


三隅と王は、横浜山手の丘の上に広がる外国人墓地の、濡れた石畳の小道を歩いていた。西洋式の墓石が整然と並ぶ一角もあれば、古びた中華系の墓がひっそりと佇む区画もある。


雨に打たれる木々の葉擦れの音と、時折遠くで鳴る教会の鐘の音だけが、静寂を破っていた。


管理事務所で教えてもらった区画は、墓地の最も古い一角、忘れ去られたように木々に囲まれた場所にあった。


雨水でぬかるんだ土を踏みしめながら進むと、やがて苔むした数基の墓石が目に入った。

その中央に、他よりわずかに大きな墓石が建っている。


そこに刻まれた文字を、三隅は息を飲んで読み上げた。


「……周文徳。間違いない、ここだ」


墓石は長年の雨風に晒され、角は丸みを帯び、表面には黒い染みがまだらに広がっていた。


その隣には、寄り添うように二回りほど小さな墓石が二つ並んでいる。

一つには「周美玲」、もう一つには「周明」と刻まれている。


管理事務所の記録によれば、美玲は周文徳の妻、明は一人息子だという。

周文徳が亡くなった数年後に相次いで亡くなり、この場所に埋葬された。


「これで、終わりか……」

三隅は、目の前の三つの墓石を見つめながら呟いた。


周文徳、その妻、そして息子。

一族の墓はここで終わり、血は70年近く前に、すでに途絶えている。

これでは、王の言う「“血”を追う呪い」も、「奪われた側の復讐」もあり得ないではないか。


やはり、自分の最初の仮説が間違っていただけで、真相はまた別の、全く予想もつかない場所にあるのかもしれない。

振り出しに戻ったのだ。

焦燥感が、冷たい雨と共に再び彼の心を侵食し始めていた。


「いや、まだだ」


沈黙を破ったのは、隣に立つ王だった。

彼は三つの墓石には目もくれず、そのすぐ傍らに、まるで見捨てられたかのようにひっそりと立つ、小さな石に視線を注いでいた。


それは墓石と呼ぶにはあまりに粗末な、ただの自然石に近い、苔むした塊だった。

誰からも供養されず、無縁仏として長い年月をこの場所で過ごしてきたのだろう。


「ただの無縁仏だろ。この墓地には、こういうのが沢山ある」


三隅が言うと、王は静かに首を振った。


「理が乱れている」

王は呟いた。


「この場所だけ、気の流れが妙に淀んでいる。まるで、この石が何かを必死に隠そうとしているかのように」


王はゆっくりとその小さな石の前に屈むと、懐からお守りや羅盤を取り出すでもなく、ただ静かに目を閉じた。

そして、肺の空気を全て吐き出すように、長く、深い息を吐いた。


しん、と静まり返る雨中の墓地で、王は次に、まるで深淵から空気を汲み上げるかのように、ゆっくりと、深く息を吸い込んだ。

彼の胸が僅かに膨らみ、その状態のまま、ぴたりと動きを止める。


息を止めている。


その時間は、異様に長く感じられた。

一秒、二秒……三隅が息苦しささえ覚え始めた頃、王は閉じた目のまま、その苔むした墓石に向かって、蓄えた息をゆっくりと、糸を引くように細く、長く吹きかけた。


派手な術ではない。

それは、彼の道術が常にそうであるように、世界の法則に僅かに干渉するための、極めて地味で、しかし研ぎ澄まされた「技術」だった。


常人であれば、湿った石に吹きかけられた呼気は、白い靄となって均等に広がり、すぐに雨に溶けて消えるはずだ。


だが、王が吹きかけた息は違った。

白い呼気は、石の表面で霧散することなく、まるで目に見えない一点に引き寄せられるかのように、すうっと中央に集束していく。

そして、凝縮された湿った空気が、墓石の表面を覆う分厚い苔を、内側からじんわりと濡らし始めた。


すると、苔の緑色が、その一点だけ僅かに濃くなった。

いや、違う。

苔の隙間から、その下に隠されていた石の肌が、湿気によって黒々と浮かび上がってきたのだ。


それは、一つの文字の形をしていた。

そして、その文字をなぞるように、呼気はさらに別の文字の輪郭を浮かび上がらせていく。


やがて、苔の下から、雨と呼気の湿り気だけを頼りに、かろうじて判読できる、細く、か弱い筆跡で刻まれた女性の名が、70年の時を経てその姿を現した。


「周……梨花(りふぁ)」


その名前を声に出して読んだのは、三隅だった。

彼は自分の目に映るものを信じられなかった。

周文徳の息子、明。

彼には、誰にも知られていない娘がいたのだ。


おそらく、父親である明が亡くなった後、あるいはその直前に生まれ、身寄りもなく、この場所にひっそりと葬られた。

公式な記録にも残らない、忘れ去られた墓標。


王はゆっくりと息を吐ききると、静かに目を開けた。

「……血は、途絶えてはいなかった」


その言葉は、三隅の脳天を貫く雷鳴のようだった。

全てのピースが、今度こそ、正しい場所で、正しい形に嵌っていく。


犯人はA一族ではない。

これは、周一族による「復讐」なのだ。


王が指摘した通りだった。

呪いは「血」だけを追っていた。

そして、その結び方は「返す」ためのものだった。


奪われた側の人間が、奪った側の人間に対して行う、最後の報復の儀式。

70年前、周文徳の死によって全てを奪われた一族の、その最後の末裔が、70年の時を経て、復讐の儀式を始めたのだ。


だが、なぜ橋本が?

彼はA一族とは無関係のはずだ。

なぜ、周一族の復讐の相手に、彼が選ばれなければならなかったのか。


新たな、より深く、おぞましい謎が、目の前に浮かび上がってきた。


三隅は、雨に打たれながら、苔の下に浮かび上がった「梨花」の名を呆然と見つめていた。


自分の立てた仮説がいかに浅はかで、物事の表面しか見ていなかったかを、痛いほど思い知らされていた。

論理を追い求めたはずが、最も重要な感情――70年間、この土地の暗がりで熟成され続けたであろう、凄まじいまでの「憎悪」という名の理を、完全に見落としていたのだ。


雨脚が、少しずつ強まっていた。

それはまるで、忘れられた墓標の下で眠る魂が、ようやくその存在に気づいた者たちを祝福するかのように、あるいは、これから始まる本当の恐怖を予告するかのように、静かに、そして激しく降り注いでいた。

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