第2話:符合する現場

事務所の静寂を、スマートフォンの短い通知音が切り裂いた。


三隅はディスプレイに表示されたメール受信の知らせを、瞬きもせずに見つめていた。

添付ファイルが数点。

その文字列が、まるで開けることを躊躇させるかのように、鈍い光を放っている。


外の雨音は、先ほどよりも一層激しさを増しているように感じられた。

彼は一つ、短く息を吸い込むと、震える指先でダウンロードのアイコンをタップした。


最初に表示されたのは、現場の広角写真だった。

夜間の撮影らしく、強力な照明に照らされた殺風景な更地が広がっている。

建設用の重機や資材がシートをかけられて点在し、その中央に、警察関係者らしき数人の人影と、ブルーシートで囲われた一角が小さく写り込んでいた。


無機質で、現実感の希薄な光景だ。

この時点ではまだ、藤巻が語った事件の異常性は、ノイズの多い画像の中に埋没しているように見えた。


三隅は指をスライドさせ、次の画像を表示させた。


その瞬間、室内の空気が数度、下がったような錯覚に陥った。

遺体の全身を、真上から撮影した俯瞰の写真。


白いビニールシートの上に横たえられた男性は、藤巻が言った通り、全身を紐状のものでびっしりと覆われていた。


それは単なる拘束ではなかった。

まるで、一体の人形を装飾するかのように、計算され尽くした幾何学的なパターンで、無数の紐が身体に巻き付けられている。


手足、胴体、首筋。露出した皮膚の部分はほとんど見えず、その異様な姿は、もはや人間の尊厳を完全に剥奪されていた。


三隅は無意識のうちに、息を止めていた。


彼の脳裏で、二年前に資料室のマイクロフィルムで見た、ざらついたモノクロ画像が急速に明滅する。


『中華青年会-館事件』の現場写真。

不鮮明で、細部までは判読できなかったあの古い記録と、今、目の前にある高精細なデジタル画像が、ぴたりと重なった。


三隅は画面を拡大し、緊縛の細部を食い入るように見つめた。

指先が冷たくなっていくのを感じる。


彼の記憶が正しければ、中華青年会館事件の被害者の両手は、親指と小指だけを伸ばし、残りの三本を固く握り込んだ状態で縛られていたはずだ。

それは仏像の印相にも似た、特殊な形状だった。


三隅はディスプレイの中の被害者の手を、さらに拡大する。

そこには、記憶と寸分違わぬ形で固定された、指の姿があった。


「……なんだ、これは」


掠れた声が、自分の喉から漏れたことに、彼はしばらく気づかなかった。


ただの模倣ではない。

オカルト系の記事を書いていれば、過去の猟奇事件を真似ただけの、浅薄な模倣犯などいくらでも見てきた。

彼らは、事件の最もセンセーショナルな部分だけを切り取り、自己顕示欲を満たすために再現する。


だが、これは違う。

この現場を作った人間は、自己顕示など求めていない。

求めているのは、完璧なまでの「再現」そのものだ。


三隅は急いで次の写真へ移った。


遺体の頭部周辺を接写したものだ。

被害者の顔は苦悶とも安寧ともつかない無表情を浮かべていた。

その頭が、僅かに北を向けて横たえられている。


三隅は椅子を乱暴に引き、背後の書棚に駆け寄った。

積み上げられた資料の山から、『昭和未解決事件ファイル』と背表紙に書かれたバインダーを抜き取り、乱暴にページをめくる。


中華青年会館事件の項目。

そこには、彼自身が手書きで写した、当時の現場見取り図のコピーが挟まっていた。


方位を示す矢印の先には、走り書きのような文字で「頭部、ほぼ真北」と記されている。


「方角まで……」


背筋に冷たい汗が伝う。

偶然の一致で済ませられる範囲を、とっくに超えていた。


これは、70年前の事件の捜査資料を、極めて高い精度で入手した人間による犯行だ。

しかし、当時の資料の多くは非公開のはず。

三隅自身、あの記事を書く際に閲覧できたのは、ごく一部の公開情報と、引退した老刑事から聞き出した断片的な証言だけだった。


こんな細部まで知り得る人間は、一体何者なのか。


最後の写真には、遺体の足元が写っていた。

そこに残された微かな痕跡を見て、三隅は確信した。

これは、人間の仕業であっても、その動機は人間の理解の範疇にはない。


遺体の周囲の地面に、白い粉のようなものが、特定の模様を描くように撒かれていたのだ。

それは、70年前の事件の資料にだけ、ごく小さく記載されていた事実と一致していた。


「被害者の周囲に、原因不明の塩らしきものの散布痕あり。関連性は不明」。


当時の捜査陣が意味を見出せず、重要視しなかった些細な痕跡。

ほとんどの人間が知らないはずの、忘れ去られたディテール。

それを、この犯人は正確に再現している。


「再現……。

違う、これは『儀式』の再演だ」


三隅はバインダーを机に投げ出し、頭を抱えた。

藤巻が電話口で漏らした、「そうしなければならない、という強迫観念」という言葉が、脳内で不気味に反響する。


そうだ、これは殺人事件の模倣などではない。

70年前に、何らかの理由で執り行われた呪術的な儀式を、現代に、もう一度、完璧な形で執り行うこと。

それ自体が、犯人の目的なのだ。


だとすれば、これはもう警察の手に負える事件ではない。

動機は怨恨でも金でもない。


物証をいくら集めたところで、犯人が抱くであろう、常軌を逸した信仰や目的にたどり着くことは不可能だ。

科学的捜査やプロファイリングという、近代的な論理が全く通用しない領域の犯罪。


三隅は顔を上げ、事務所の窓の外に広がる、黒く濡れた横浜の街を見つめた。

この華やかな港町の、どこか古く、薄暗い路地裏に、彼の知る男はいる。


王雷山(おう らいざん)。


横浜中華街の片隅で、表向きは「四海堂」という中国雑貨と古書の店を営む、厭世的で、何を考えているのか分からない中国人道士。


三隅がオカルトライターの仕事を始めたばかりの頃、取材で出会って以来の、腐れ縁のような関係だった。


王は怪異を、恐怖や超常現象としてではなく、常に「理(ことわり)」、すなわち世界の法則の乱れとして捉える。

感情を排し、物事の筋道と因果関係だけを冷静に分析する男。


彼ならば、この儀式めいた現場写真から、警察や自分では到底読み解けない「法則」や「意味」を読み解いてくれるかもしれない。


三隅は、王の面倒くさそうな、全てを見透かしたような目を思い浮かべた。

どうせ「また厄介事を持ち込んできたか」と、深い溜息をつかれるに決まっている。

だが、他に頼れる人間は思いつかなかった。


自分の直感が、この事件の鍵は、現代の論理ではなく、忘れられた過去の「理」の中にあると、強く告げていた。


彼は冷え切ったコーヒーを乱暴にあおり、立ち上がった。


壁の時計は午前2時半を指している。

非常識な時間であることは分かっていた。

だが、70年の時を経て蘇った儀式は、もうすでに始まっているのだ。

躊躇している時間は、一刻もなかった。


三隅はコートを掴むと、スマートフォンをポケットにねじ込み、事務所のドアを開けた。


冷たい雨が吹き込み、彼の顔を濡らす。

この雨の向こうにある、赤いランタンの灯る街へ。


人知を超えた謎の答えを求めて、彼は躊躇なく、暗い階段を駆け下りていった。

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