ここは第三図書館、最寄りは青色巨星です

青木十

ある図書館にて

第一話

 その図書館には、奇妙なうわさがあった。


 星が輝き人の気配がしない夜は、あるはずのない書架が現れる。

 その書架には、未来の話や過去の未解決事件の真相といったあり得ない内容の本、遥か昔に失われた著名な本や稀少本、そしてこの世のどの言語にも当てはまらない文字で書かれた本がいくつも並べられているのだ。

 その希少図書並ぶ書架を見つけることができたのならば、言葉では言い表せないほど素晴らしい出会いがあるという。


 ――その話を聞いた私はそんな馬鹿なと笑ったが、話をしてくれた友人は心底信じているようであった。



「随分と遅くなってしまったな」


 ふうと小さな溜め息とともに独り言ちる。

 その日の私は、受付の返却棚に残っていた本を抱えてその図書館――実のところ私の勤務先である――の館内を歩いていた。


 今日の返却は、とにもかくにも多かった。隣接する研究所の先生方が、閉館間際に大量の書籍や論文を持ってきたのだ。どうやら返却日が迫ったものが沢山あり、本日が期日のものと合わせて目に付いたものは全て持ってきたらしい。しかも皆で力を合わせて。

 それらには専門書が多く含まれ、分類に従ってあちらこちらにある正しい場所へ戻すには大層手間がかかった。該当する書架は背ラベルで分かるのだが、そのどこに並べるのかというのは、いちいちデータと照合する必要があったからだ。


 それに一人で捌くにはそもそも多過ぎた。身から出た錆ではあるが、利用客もいないからと他の職員たちを先に帰らせた後だったのだ。

 それでも粛々と配架をしなくてはならない。こういう重要な専門書は、誰の目にも留まる返却棚での保管は厳禁だ。紛失しては問題になる為、速やかに戻す必要があった。


 コツコツと足音を響かせながら本を抱えて歩く私は、この図書館で司書をしている。勤めるようになってもう四年か、そろそろ五年だったかもしれない。同僚の皆の顔を思い浮かべるに、すっかり古株と言ってもよいだろう。

 そういう立場であったものだから、友人の話す奇妙なうわさには全く興味が沸かなかったのだ。


「先ず以て、そんなうわさなど聞いたことがない」


 難解過ぎてよく分からない科学の本を書架へ戻しながら、また呟いた。

 最上段へ手を伸ばし、踵を浮かせる。高い位置に分厚い専門書を置くのは骨が折れた。脚立を持ってくればよかったと悔やんだが、なんとか並べることができた。

 次の書架へ向かいながら引き続き考える。勤務年数が四年か五年か定かではないが、仮に四年だとして。その間に耳にしなかったうわさ話が、急に湧き出てくるなどあるのだろうか。

 そういうものは、まさしく――


「そんな馬鹿な」


 私の口から漏れ出た呟きは、静かな館内でやけに響いた。



 館内で配架を繰り返す。私の足音だけが響くこの場は、何故だが神聖な場所のようにも思えた。――人の気配のしない静かな夜。読書をするには最適な夜だと思った。


 呑気に歩く私だったが、ふと後ろを振り返る。何だかは分からないが、違和感を感じたのだ。


 見えるのは見慣れた開架通路。

 怪訝に目を眇めたところで、館内が一斉に消灯した。

 突然のことに身を竦めた私を助けるように、足元の非常灯が小さな光で通路を照らす。その道標にふうと安堵の呼気が漏れた。

 誰かが間違えて消したのかもしれない。そう思って入り口へと向かおうとした時、私はようやく違和感の正体に気が付いた。


 暗闇で私を支えるはずの非常灯――それらが並ぶ通路は、あまりにも長く遠く続いている。


 取り落としそうになる本を抱えながら振り返った。反対側を見ても同じだった。

 こういう時、人は言葉を失うのかと心の隅で思った。


「あれ?」


 耳に届いたただ一言に心臓が跳ねる。暗い場所なのに眼前が明滅しそうな程に鼓動が激しい。

 私は後ろを見やった。数秒前、確かに誰もいなかった場所を。


 ――色のない男だった。

 髪も肌も着ているシャツもズボンも淡く、昏い通路に薄ぼんやりと立っていた。


「ここはキミが来るにはまだ早い場所だよ」


 男は淡々としているが穏やかに言った。

 しかし、闇に浮かぶその顔は表情というものが存在せず、何の感情も読めなかった。口調との差に私の蟀谷から汗が一つ垂れ落ちる。


「ここは……図書館のはず」


 静かに漏れ出たその声は、想像以上に大きく響いた。私自身も驚きで息苦しい。心臓は必死に血を送り続けていた。


「図書館? ああ確かにそうだけれど」


 彼は首を傾げながら、私を見つめた。色素の薄い髪がさらりと目元に落ちる。

 まるで目の前にいるような、彼との距離が曖昧に感じて目眩がした。


 そんな私を余所に、彼は言葉を続ける。


「――キミの知っているそれと同じだと思うのかい?」


 じいと私の顔を覗き込む彼の瞳は、とても深い、そして不可思議な色をしていた。

 夜空を思わせる暗藍色に、青や翠の色が煌めく虹彩――まるで星々が瞬くかのように輝いている。奇妙なことに、じっと見つめていれば時々オーロラのように七色の遊色が揺れるのだ。

 しかし――


 その中央、ぽっかりと開いた瞳孔は、とても深く昏く底の見えない深淵のように真っ黒だった。


 その奥の昏さに、思わず怖気を震う。

 言いしれぬ不安が私の心に滲み始めた。


 彼は私を見つめて微動だにしない。

 何を思い何を判断しているのか分からない。その瞳からは何も察せず理解できず、感じ取ることも不可能だった。


 私は何と返してよいのか分からず、言葉を紡ぐどころか何かの音も発することができなかった。瞬きすらしてよいのか分からなかった。口内はじわじわと乾いて違和感を感じるが、喉を鳴らすことにも私は怯えた。

 耳の奥が、そして脳の中心がこの沈黙から与えられる鋭い痛みに苦しんでいる。


 何の音もしない一切無音のこの空間。


 ここは本当に私の知る図書館だったのか。

 私はなぜここに勤めているのだったか。

 分からない、何も分からない。


 その事実はすぐさま私の中に広がって、滲みは瞬刻淀み、不安は心の澱となった。


 そうやって募りに募った不安が私を支配し果て、慌てて周りを見回せど、私と淡い彼以外は全て書架、そして本、本、本――至る所にただ本があるだけだった。

 見渡す限り、本が詰まった書架の並ぶ長い通路が続いている。友人の語ったうわさが頭を過った。背表紙には、見たこともない文字のような記号が羅列され、私がこの図書館に相応しくないのだと知らしめてくる。先程まで、本をあるべき場所に戻していたのは、確かに私であったのに。


 ふとその奥の奥、深い夜のような色をした分厚いカーテンが目に留まる。書架が整然と並ぶ開架通路の最奥に、こちらとあちらを分け隔つ帷が確かにあった。


 距離感が曖昧になる程、それへと意識が吸い寄せられる。まるで魚眼レンズを覗き込んだような、普段のそれと異なる視界。遠くにあり遠くにおり、近くのようでやはり遠い。その事実を分からせるように、そう思い込ませるように視界は畝った。

 歪んでいるのは外界なのか私の視界なのか、それすらも分からない。規則的に並ぶ本は正しく垂直に並んでいるのだろうか。私が立っているのは、本当に図書館の開架通路なのだろうか。そしてきちんと立てているのだろうか――

 そんな曖昧な感覚に、頭の中がぐわんぐわんと大きく揺れた。目眩で大層気分が悪い。視界が揺れ脳が揺れ脊髄が揺れたように思えた。


 それでも、厚いカーテンは僅かにも揺れはしなかった。

 そのカーテンが頑なに隠す先へ、意識が吸い込まれていく。カーテンのその向こうを見なくてはならない。そんな観念が、心も思考もじわりじわりと侵食していった。


 我慢できずに私は走り出した。止まっていた全てが動き出す。目眩で傾ぐ身体を気力で無理やり立たせ、異様に距離を感じる窓辺へと駆け出した。意識に引き摺られ、更にはそれを追いかけるように。


 こんなに窓際は遠かっただろうか。

 こんなに長い通路だっただろうか。

 これ程までに本が並んでいたのだろうか。


 答えの解らない疑問が浮かんでは消える。

 それでも私は走ることをやめなかった。

 静かだったこの場所に、私の足音、私の呼吸音、そして私の鼓動が早鐘のように響き渡った。


 想像よりも長い距離を駆け抜けた私は、カーテンに手を掛けひと思いに開け放った。カーテンレールの鳴る鋭い音が、異様に大きく耳に障る。金属の擦れる音、軋みが上げる雑音、開かれることを拒む悲鳴――そういった心の棘と淀みを刺激する音を立てながら、厚いカーテンは開かれた。

 此処と其処を別け隔つ帷は、その役目から降ろされた。


 そうして姿を現した窓の先には――


 大きな青白い光と、果てへと広がる落ち窪んだように昏い闇があった。その闇にはチラチラと揺れる、小さいながら多くの煌めきが散りばめられている。それらは青や赤、白や黄色の光で瞬いた。星が、輝いていた。

 眼前に浮かぶ大きなそれは、青と月白が入り混じる眩く輝く青い巨星で、ガスの帯がゆったりと円盤を形作っていた。周りには中規模、小規模の星々が浮かび、一帯を覆うようにガスが漂っている。そのガスも星の光を受けて、僅かに青く揺れているようだった。


 それらの合間には、光を射しながら何かが揺蕩う。私の知識と照らし合わせるなら、父が若い頃に流行った映画シリーズの最新作に出てきた巨大戦艦に似ていた。その戦艦らしきものは、己が身をゆったりと見せびらかすように下方へと進んでいく。冷静になれば、下方には金属と思しき物で建造された大きなモジュールが広がっており、戦艦はその開口部へと消えていった。


 私は認めたくはなかったが、それを表す言葉は自ら転び出た。


「宇宙……」


 それは、私が映像や写真で見て、知った気になっていたものとは比べ物にならなかった。

 昏い宇宙の海に様々な色が散りばめられている。目の前の星団は蒼茫として、更に奥へと続く宙色は終わりが見えなかった。

 私の陳腐な語彙で表してよいのなら――


 ――途轍もなく広大で、遥か彼方は真に果てしないものであった。



「あまり見つめては駄目だよ」


 視界が遮られ、直ぐ傍らで声が聞こえた。それにより私は我に返る。


「あれらは恒星だからね。エネルギーを得るにはいいが、この距離で見つめるには目に負荷がかかる。装置で光を格段に軽減しているとは言え、キミは控えた方がいい」


 その男は、現れた時と同じく気配が感じられず、大層冷たかった。それによる驚きと『恒星』と言う単語に思わず息を飲んだ。知らされた事実で更に不安が増し、カーテンを握る手に力が籠もる。様々な疑問が脳裏に浮かぶが、尋ねる言葉を私は持ち得ず、かと言って振り払ったり駆け出したりする気力も胆力もなかった。


 私の心は一つの感情に支配されている。


 得体の知れない男に囲われる肩、縋るようにカーテンを掴む手、健気に私を支える両膝、それら総てが小さく弱くそれでも確かに震えていた。


 そうして私は、この感情が畏れだと今更ながらに気が付いたのだ。


 もう何もできず佇むしか能のない私に、頭上から声が降ってくる。感情のない淡々とした声音と話し口であるのに、何故だが私には楽しげに聞こえた。


「ここはね、中型ステーション█████、キミたちの言葉を参考に名付けた。伝わるように発音するなら――」


 私の目元から手を話した彼は、くるりと私の身体の向きを変えた。

 ばちり、あの昏い瞳と視線が合う。ああこの色は宙の色なのだと、思考の隅にいる私が言ったような気がした。


 彼は数回咳払いをした後、歪な笑みを作った。彼の表情らしい表情を見たのは初めてだが、その笑みは、普段それを必要としない者が無理やり作ったものにしか見えなかった。


「プレアデス――女神たちを示す名だ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る