夕暮れの残響

寛ぎ鯛

第1話

 蝉の声が急に弱まってきた。つい数日前まで、耳を塞ぎたくなるほどの合唱が空気を埋め尽くしていたのに、今日はまるで何かを察しているみたいに途切れがちで、間延びした声だけがぽつり、ぽつりと残響のように続いている。

 夕方の空は高く、まだ昼間の熱を含んだアスファルトから白い靄が立ちのぼっていた。街灯のオレンジ色がにじんで、その靄の向こうで赤や青の浴衣姿が揺れている。夏はまだ去ってはいない。けれど、もう振り返りながら手を振っているような、そんな気配が確かにあった。


 夏祭りの帰り道を、俺たちは三人で歩いていた。

 屋台が連なる参道の最後尾。焼きそばのソースの匂いがまだ鼻に残っている。澪は浴衣の帯を少し緩めて、「歩きにくいね」と笑った。夜店の灯りが遠ざかり、赤い紙灯籠がひとつ、またひとつと闇に沈んでいく。

「金魚すくい、やればよかったのに」

 俺がそう言うと、澪は手にした扇子でそよそよと風を送りながら首を振った。

「朝には弱っちゃうよ。ちゃんと世話できないなら、すくわない方がいいんだって」

 その言い方が大人びていて、やさしくて、胸の奥がきゅっとなった。俺は屋台の灯で浮かび上がる澪の横顔を見つめた。白いうなじ、浴衣の襟から覗く首筋。夜風が触れて生まれた小さな鳥肌。目に映ったものを、すべて一度で覚えてしまった。


「おーい、置いてくぞ」

 少し後ろから悠真が俺の肩を突いた。

「なんだよ」

「見るなら堂々と見ろ。変に間合い取るから怪しいんだって」

 澪が振り向き、笑いながら俺たちを待った。

「二人とも、はぐれるよ」

「はーい、すみません」

 悠真がわざとらしく頭を下げる。俺も笑った。照れを隠すような笑いだった。


 屋台が途切れた先には暗い参道が続いていた。

 射的の銃声や綿菓子を巻き取る機械の音はもう聞こえない。ただ遠くで太鼓の残響が小さく響き、線香花火を売る屋台の小さな灯が最後の名残みたいに揺れていた。

 俺の体は汗でまだ重く、浴衣の裾を少し持ち上げて歩く澪の姿が、まぶしいくらいに鮮やかに映った。俺はラグビー部で、大柄で、いつも泥にまみれて走り回っている。そんな自分の姿を思い浮かべると、澪の細い指や白いうなじとの対比が胸をざらつかせた。俺なんかが隣にいていいのか、そんな気持ちがどうしても拭えない。


 大通りに出ると、風の匂いが変わった。昼の熱が引き、かわりに草の青臭さが鼻をかすめる。遠くでコオロギが鳴いていた。蝉の声はもうほとんどない。耳を澄ますほど、別の季節が忍び寄ってくるのが分かった。

「来年も、こうして来られるといいね」

 澪がぽつりと言った。

「来年もって、まだ今年も終わってないのに」

 俺が返すと、澪はうん、と曖昧に笑った。

「でも、夏は終わるから」

 その言葉が頭の中でくるくる回った。終わるなら、何かを始めなきゃいけないんじゃないか。名前を呼ぶ回数を増やすことか、連絡先を一番上に固定することか。馬鹿みたいだ、と分かっていても、胸の熱がそういう馬鹿を許してしまう。


「優太」

 澪に呼ばれて、息が詰まった。

「なに」

「帯、曲がってない?」

「お前の?」

「うん、ここ」

 背中を向ける澪。俺は手を伸ばしかけて引っ込めた。

「悠真」

「俺?」

「お願い……できる?」

「はいはい」

 悠真が帯を整える。指の動きが無駄なくて、何でも器用にこなすこいつらしい所作だった。

「ありがと」

「どういたしまして。優太はこういうの絶対できないだろ」

「悪かったな」

「いいって。……ほら、帰ろ」


 分かれ道。澪の家と俺たちの家の方向が斜めに離れている。電柱の影で三人が一瞬、同じ沈黙になった。

「じゃあね」

 澪が軽く手を振る。浴衣の袖がふわりと揺れ、笑い声を遠くに押しやった。

「またな」

 俺も手を振る。口の中に残った言葉は「もっと話そう」とか「また今度も一緒に」とか。どれも声に出せば急に薄っぺらくなりそうで、呑み込んだ。

 澪は小走りに消えていった。


 静かになった道で悠真が大きく伸びをした。

「はー、終わった終わった」

「なにが」

「夏祭り。あの人混み、俺は苦手」

「そうか」

「優太は元気だったな。視線がせわしなかった」

「うるせえ」

 二人になった途端、空気が軽くなった気がした。俺は足元の影を踏みながら、さっきまで胸を焼いていた熱の行き場を探した。


「好きなんだろ」

 悠真が唐突に言った。

「……なにが」

「澪」

 心臓が跳ねた。

「まあ、別に。どうかな」

「優太が誤魔化すとき、語尾がくしゃっとなるの、昔から変わらん」

「うるせえ」

 夜風が汗の乾いた首筋を撫でた。

「……なんで分かる」

「長い付き合い」

「……そっか」


 歩道脇の桜の葉が少し色を薄めていた。季節は、ほんの些細な変化で姿を変える。言葉にすると逃げてしまう気がして、心の中で形を失う。


「言うの?」

「なにを」

「好き、って」

「……分かんない」

 本当は分かっていた。言わずに持っていられるほど軽くない。けれど、言って砕ける未来も同じ強さで見えていた。


「焦らなくていいだろ」

 悠真は何気なく言った。

「夏は終わるけど、全部終わるわけじゃない」

「そうかな」

「そうだろ」

 それだけ言って黙る悠真。その空白に俺はうなずいた。

「なあ、悠真」

「ん」

「……ありがとな」

「なんで」

「なんか、分からんけど」

「分からんけどは便利な言い訳だな」

「悪かったな」

「別に」


 家までの道で俺たちは歩幅を合わせた。幼いころから自然に調整してきた歩幅。そうやって、いつも隣にいた。これからも同じだと、勝手に思っていた。


 玄関前で悠真が踵を返す。

「じゃ、また明日」

「おう」

 同じ動作のはずなのに重みが違う。俺はドアを開けてから振り返った。悠真はポケットに手を突っ込み、歩き出す前に空を見た。その一瞬だけが妙に鮮明に残った。


 部屋に戻ると、汗が冷えて肌がべたついた。シャワーを浴びても、どこかに夏の匂いが残る。窓を開けると網戸越しに夜風。鈴虫の声が遠くで確かに聞こえた。

 リビングからは父親がテレビを見ている音が小さく漏れていた。母親が台所で片付けをしている水の音もする。普段なら安心できる家庭の音なのに、今夜はやけに遠く感じた。俺だけ別の時間を生きているような気がした。


 スマホを開き、澪に「今日はありがと」と送ろうとした。五分くらい悩んだ。送らなきゃ始まらない。でも送っても何も変わらない。結局、消した。胸に小さな穴が開き、そこに風が吹き込んだ。


 ベッドに寝転ぶと、金魚すくいの赤い灯、線香の煙、澪の浴衣、悠真の笑い声が浮かんでは消えた。どれも大事で、どれも等しく指の間からこぼれていった。


 明日から九月。

 夏は終わっていく。

 俺はまだ、何も始めていない。

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