第7章・境界を越えて

第39話《まず立ち止まろう》

 葦原 廻は、劇場の電源システムの前で崩れ落ちていた。膝をつき、世界が遠ざかるように視界が揺れた。耳鳴りがして、呼吸が浅くなった。


「母さんの仇である、《死神》を倒せても……俺は、守れなかったっ! 祐奏に、生命の歌を聴くって、それが約束だって……言ったのに」


 血を吐くような叫びだった。とても立っていられなくて、地面に手と膝をついていた。涙がボロボロと流れ出て、色を失った世界に落ちた。


「うわ、ぁぁぁぁぁぁあああ」


 言葉にならない叫びが漏れだし、絶望の色を帯びた。


 《死神》の目的は、廻と戦うことでも、藍坂 祐奏を殺すことでもない。珠子の世界にいる祐奏が《畏怖王》に取り込まれることを抵抗しているので、魂を共有するこちらの世界の祐奏を絶望させようとしただけ。


 16時44分に生命が尽きると予告したのも、祐奏を絶望させるため。廻には、それがわかっていた。


 そんな現実を突きつけても、祐奏の心は折れず、彼女はリスナーのために最後の歌を歌う決意をした。


 だから《死神》は、歌わせないために、会場の電源を落とした。その阻止が、間に合わなかった。これでは、戦いに勝利しても何の意味もない。


「お兄」


 妹の葦原 祷が声をかけた。祷自身が不思議だったけど、彼女は絶望していなかった。祷は自分の直観を信じている。言葉にするのは苦手だけど。言語化は得意だけど、理屈に偏りすぎる兄は、何かを見落としている。そんな気がしたのだ。


「まず立ち止まろう。幸い時間は止まっているからさ。一杯考えられるよ」


 いつもの口調で、明るく声をかけ、笑った。廻はゆっくりと顔を上げた。


 祷は泣きじゃくっている兄を、初めて見た。


(それだけ、本当に、祐奏ちゃんのことが大切なのね)


 かっこいいと思った。だから、腰を落として、抱きしめた。


「祷」


「あたし、思うんだ。《畏怖王》は神様なのかもしれないけど、完璧じゃないって。完璧なら、珠子様に身体を破壊されたりしない。あたしは夢で会ったことないけどさ、珠子様って、人間なんでしょ?」


 祷の問いかけは、廻の目に光を取り戻させた。知性の輝きが宿っていく。


「ああ。悲しいほどにね。あの方は人間なんだ。末端の兵が亡くなっても、心に置いている。部屋から一歩も出られないのに、不平不満も言わず、心の中では泣いていることを《九曜家》の人たちはみんな知っているから、切ないほど澄んだ瞳をして、《畏怖王》との戦いに行くんだ。俺は臣下じゃないけど、気持ちは……わかる」


 廻は小説『モノクロームトリガー』を書く中で、珠子がどれほど多くの臣下のことを気にかけ、そして把握しているのかを知っていた。実感を持って肯定した。


「そうだ。完璧じゃないという前提に立って、考えるべきなんだ」


 廻は立ち上がり、拳を小さく握った。倒した《死神》から落ちたわずかな量の黒い砂に目を向ける。


 祷は嬉しかった。本当は優しいのに、溢れる知性で考え、見下すような態度でイニシアティブを取る。それが、世界的ゲーマーとしても活動していた兄の本当の姿なのを、妹は誰よりも知っている。


「それでこそお兄! あたし、思うよ。何か、見落としているって。お兄なら、見つけられるよ」


「お前が言うなら、そうなんだろうな。祷の勘は外れたことないから」


 そう言って、黒い砂に触れた。物品や生物に宿る記憶を《ウィスパリングパスト》で引き出した。《死神》が見ていた風景が脳裏で再生されていく。


 それは、見覚えのある風景だった。一度しか行ったことはないが、忘れることはない。藍坂姉妹の実家である、藍坂家。祐奏の父である岳寛が倒れていた。


 祐奏がいて、倒れた父に複雑な表情を向けていた。悲しみと慈しみと、ほんの少しの憎しみが入り混じったような表情。一筋の涙が流れた。


「そんな奴のために、泣くのぉ。ボク、理解できないわ」


 複数の声が重なったように響いた。恐ろしく人工的な美形をした西洋人の女が、嘲るように笑い、祐奏を見ていた。


「貴女みたいな人には……わからないわ。この方が、どんな気持ちでいたのかなんて」


 祐奏の声に怒りと悲しみが宿る。


「うん。キョーミない。興味があるのは、君の美しい顔と、神性を帯びた声だけ。思った通りネ。今の、こんな顔と声とは比較にならないわ。あの方もお喜びになるよ。光栄でしょう?」


 そう言った時、視点からくぐもった声が漏れ出した。


「Collectionneur, ne plaisantez pas.Yuuka Aisaka votre cible prioritaire, récupérez-la immédiatement.(《コレクター》、遊ぶな。その藍坂 祐奏は最重要目標故、すぐ回収しろ)」


 《死神》の視点で、フランス語が響き渡った。


「神の器なんて、どうでもいい。貴女たちがわたしの顔と、声で、ひどいことを始めるのがわかるから、わたし……最後の最後まで、抗う。大切な人たちのために」


 祐奏は涙を流しながら、毅然と言い放った。そこで記憶は途切れる。


 廻は立ち上がり、祷を優しく抱きしめ返した。


「祷。《死神》の記憶が見えた。珠子様の世界の祐奏は、最後まで抗っている」


 見えた記憶だけで、全身の毛が逆立ちそうだった。


「そして……横には誰もおらず、孤独に殺されていこうとしているんだっ!」


 声が震え、涙があふれた。怒りが溢れて、血が流れそうなほど、強く拳を握った。


「お兄、落ち着いて。運命、変えるんだよね。今、怒りに囚われちゃダメ」


 祷が廻の胸におでこを当てながら、背中をさすった。


「ごめん。できるかどうか、わからないけど……一つだけ思いついたよ」


 廻はなんとも言えない表情を浮かべた。策がうまく行っても、祐奏を助けられるわけではない。記憶の中の祐奏の声を聞いたばかりの廻には、それが堪えた。


 少し、沈黙して、小さく息を吸った。


「でも、祐奏の最後のステージは、間に合うかも、しれない」


 強く決意して、口調を強くした。リスクがあろうと、前に進むと決めた。


「──いや、間に合わせて、見せる」

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