第25話《絶対にたどり着いて》
東京・麻布。葦原家の邸宅。朝の光が麻布の街並みに沈み、冬の朝は静かだった。
朝の8時50分に、藍坂 歩奏(あいさか・ほのか)と綴 冬燎(つづり・ふゆあき)は葦原家のインターホンを押した。
歩奏は深紅のベレー帽をかぶり、ツインテールを結ぶリボンはいつもより大きめだった。首元は小さなハート形のロケットが揺れるチョーカー。
上半身は大胆な赤のタータンチェック柄のブラウス。肩にはクロスモチーフの装飾が施されている。袖口はふっくらとして、黒いリボンで止められる。
ブラウスの上はシャープな黒のコルセット。その下は何層にも重なった黒いフリルスカート。左足は黒の二―ハイソックスがフィットし、太ももに赤いリボンのガーターベルト。右足は赤と白のチェッカーフラッグ柄のニーソックスが遊び心とポップさを加えている。
デザインした冬燎に言わせると「足元に変化を加えて、歩奏の脚線美から目を離させない」という性癖丸出しのデザインらしいのだが。
足元は蝙蝠の羽のような飾りがついた、黒のメリージェーンシューズ。ゴシックでキュートな衣装は、冬燎が「歌うまコロシアム」のために作ったものだった。
その冬燎は、いつもより抑えめのコーディネイト。夜の闇を溶かしたようなソフトハットをやや斜めに被っていた。全体がダークトーンなのは「一緒にいる歩奏が主役となる日だから」という意図だった。
上半身はフード付きの黒に近いブラウンのブルゾン。ゆったりとした肩回りから袖口にかけての流れるシルエットが色気を感じさせた。ブルゾンの縁は白のピコットレースのような繊細な装飾が、アクセントとなっている。
ブルゾンの内側は白のパーカー。その下にロング丈の白いインナーを重ね着し、首元と裾から覗く白のレイヤーが、全体を軽やかにしていた。
ボトムスはダークブラウンのスキニーパンツで、足元は磨き上げられた黒のエナメルシューズ。控え目にしても、彼のセンスは隠しきれない。
出迎える葦原 祷(あしはら・いのり)は昨日と同じ、幾何学模様の入った白と黒のジャンパー姿だ。色々なことを考えすぎて、服を選ぶ元気がないのだ。
「いらっしゃい、歩奏ちゃん! そっちは……カレシ?」
祷が歩奏と冬燎の距離感を、微妙に察知する。
「もちろんそうさ」
そう言おうとする冬燎の口を、歩奏はさっと塞いで。
「ただの幼なじみ。この服のデザイナーよ。これ、ステージ衣装でもあるから、何かあったら修理してもらわないといけないし、付いて来てもらったの」
「服は、めっちゃかっこいいね。作った人は怪しいけど」
祷が公平な客観的評価を下したので、冬燎は「でしょ~」とにんまりした。
「葦原 祷ちゃんだよね。歩奏から聞いてるよ。可愛いし、服のセンス、いいね! 身体の動きが綺麗だから、僕の妄想膨らんじゃうな。服のデザインさせてよ……って、いて!」
「あ、こいつ、デザインは天才だけど、ど変態なんで。スルーしてね」
冬燎の掌をつねりつつ、歩奏は微笑んだ。
「気にしないけど、付き合う男は選んだ方がいいよ。あ、服は作ってネ」
あっけらかんと、祷は笑った。
「で、歩奏ちゃん。祐奏ちゃんが……」
祷は口調を変えて、悲しみを込めて俯く。
「聞いてるよ。で、祷ちゃん。最初に言っとくけど、『《死神》がいるかもしれないのに、日本に呼んでごめんなさい』とかは、やめてね」
歩奏は祷にさっと手を出して、反応を制した。
「お姉ちゃんは、お館様が日本に来なかったら、自分がアメリカに行っただけ。『どこでもVTuberはできるわ』とか言ってね。納得して生きるって言葉を貫くのは、悲しいけど……でも、でもね。リスクを負ってもそうするのがお姉ちゃんなの。だから、尊敬するし、大好きなんだ。わたしは、それを大切にするしか……ないっ!」
言いながら、歩奏の目にも涙が浮かぶ。
(あの釉さん様が、そこまで惚れ込むって、遠野先生。ヤバいな)
祐奏との距離がある冬燎だけが、やや冷静に見ていた。
「歩奏ちゃんも、出るんだよね。番組」
「出るわ。お姉ちゃんは『歩奏は、一歩一歩、進むけど、絶対にたどり着いて、みんなを感動させる声で奏でる子』って、わたしのことを言っていたもの。そして『きっと、僕のいるところに……歩奏は来るよ』っ……て!」
歩奏の目から、大粒の涙が流れ落ちた。それは決意表明だった。
「お姉ちゃんがもし、世界からいなくなるのなら、わたしは、お姉ちゃんがしていた仕事を、できるようにならないと……いけないのっ」
魂の底から祐奏への尊敬心を込めて、歩奏は気を吐いた。冬燎は黙ってハンカチを差し出して、歩奏は「ふゆ、ありがと」と小さく言って受け取った。
祷は、そんな歩奏を優しく、ただ抱きしめた。
* * *
冬の朝、淡い光が坂の石畳を撫でていた。雪は夜の名残をわずかに残して、舗道の隅で静かに溶けている。東京のざわめきが、まだ目を覚ましていない時間だった。
自分の横を、藍坂 祐奏が歩いている。それだけじゃなくて、自分の左手を彼女の右手がしっかりと握っている。つい、横顔を見てしまう。葦原 廻には、彼女の横顔があまりにも綺麗に感じられ、現実の風景とは思えなかった。
本郷は東京大学など、大学生も多い町。坂や古い建物も多く、風情のある風景に、昨晩からの雪が輝く。本郷通りの銀杏並木には、まだ冬の光が淡く残っていた。
早朝の空気は冷たくて、車の排気音がやけに遠く感じる。都会の喧騒に戻る前の、一瞬だけの静寂。大好きな人と歩くと、世界の全てが輝いて見えた。
「どうなされたのですか。僕の顔をちらちらと見て」
祐奏は小さく笑って、廻の顔を覗き込んだ。廻は身長178cmで、祐奏は165cm。少しだけ低い位置に顔がある。吐く息が白く揺れて、すぐに消えた。
「いや、綺麗だなって思って、見とれてしまったんだ。眼鏡、していないんだね。あ、見た目を言われるのは、嫌かな。もしそうなら、もう言わないよ」
「眼鏡は伊達眼鏡なので。顔を隠したくて。廻くんには、隠さないわたしを見てほしいから、眼鏡はもうしないと思います」
そう言って、祐奏は立ち止まった。大切なことを伝えたいから、思考を整理したいと思ったのだ。廻もそれを理解して、立ち止まる。
「廻くんに綺麗と言われるのは嬉しいですし、もっと綺麗になりたいですよ。わたしの中で矛盾は、していないんです。聞いて頂けますか」
「もちろん」
「わたし、思うんです。『好きな人を理解しようとするのは、負担じゃなくて、喜び』だって。廻くんは、わたしを好きになった理由を所作だと言った。振る舞い、動きの美しさだって。それは造形じゃなくて、精神の在り方だから、染み渡るみたいに嬉しいの。……わたしが今、綺麗になりたいという理由は、わかりますか」
廻は油断せずに聞いた。さらっと言われたことにも、大切な問いが含まれている。
藍坂 祐奏はそういう人だ。嘘は言わないけど、相手のためだと思えば、止められたことにさえ命を懸けられる。人としてのあり方が美しいけど、儚いとも思う。自然と、あり方の尊さを感じて、守りたくなる。言葉を探して言った。
「俺や、リスナーのみんなを喜ばせないから?」
「はい。わたし、廻くんの在り方が好きなんです。一緒にいる人を理解したい。居心地をよくしたいって振舞われているところが。そういう人に好きと言ってもらうことが嬉しくて、自分のできることの全てで喜ばせたくなるの」
廻は、澄み切った祐奏の人となりを感じて、自分がそこまで尊重されていいのかと感じた。戸惑いながら、言葉を発する。
「そんな……祐奏は俺なんかに勿体ない人だよ。そこまで思わなくても」
「もったいないとはなんですか。納得して、わたしは貴方と手を繋いでいます」
むっとした、よりもやや強い怒気を感じて、廻は慌てた。
「ごめん。謙遜すると、俺に価値を感じた君に失礼になるよね。それはいけない」
祐奏が怒った理由を必死に考え、一旦手を離してから、頭を下げた。
「そういうところですよ。そういうところが好きなんです。でね、正論を振りかざしたがる人はいるし、時に必要ではあるでしょうけど、わたし、あまり好きじゃないの」
祐奏は微笑んで、前より強く廻の手を握りしめた。
「興味深いね。聞かせて」
「だって、相手の人格や知性を踏まえるって、相手のお立場も考えることですもの。相手のあり方を尊重しない正論は、人の居心地をよくしないわ。『一言多い自己満足』になってしまったなら、発した言葉の正しさも消えてしまう。選んだ言葉が生み出した敵意によって。廻くんは、そういうことをしない。だから、好き」
人の嫉妬が集まる芸能界で、ずっと考えてきた祐奏らしい言葉だと、廻は思った。社会的要因があろうと、彼女は考えることをやめない。やめられないのだ。
「俺は、そういうことを考える祐奏が好きだ。──愛しているよ」
恋人同士の甘い囁きではなくて、言葉を噛みしめるように廻は言った。
「……そういうこと、不意打ちで来ないでください。すごくドキドキしてしまいます、から。あの……わたし、面倒くさいですよね。ご負担になっていませんか」
手をぎゅっと握りつつ、少し不安そうに祐奏は廻を見つめた。
「祐奏、俺も相当面倒くさい人間だけどさ、人には相性があると思う。俺と君は、その面倒くささが『問いを受け止めてくれる』ってなっているから、いいんだよ。『俺は』君を面倒くさく感じないし、誠実に生きようとしている君が、誰より愛おしい」
そこまで話したところで、通りの先に、スーパーの看板が見えた。日常がすぐそこにあることが、どうしようもなく切ない。ずっとスーパーに着かないで、大切なことを話していたかったから。
「祐奏。俺、取り戻すからさ。そしたら、続きを話そう」
何も言わなかったのに『わかってくれた』。祐奏はそれがあまりに嬉しくて、俯いて泣いてしまった。廻は少し脇にそれて、そっと祐奏を抱きしめた。
「ごめんなさい。嬉しくて……っ」
「わかっている」
そう言いつつ、「祐奏、ココア飲む?」と自販機を指さした。廻から差し出されたココアを、祐奏は飲んで、そして「廻くんもどうぞ」と差し出した。
二人は笑い合って、それからスーパーに入る。自動ドアが開く音。
魚売り場の冷気が二人を包んだ。店内BGMに祐奏が作曲した「raison d’être」のアコースティックが流れていた。祐奏が小さく口ずさむ。
食材を選んだり、お惣菜を指さしたり、相手の食べられる量を確認したり。そうした、全てが愛おしかった。
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