「結婚したら地獄行き」
志乃原七海
第1話『〇〇産 未精白米 25kg ¥2,500』
## 結婚したら地獄行き
まさか、あの清らかで可憐だった妻が、たった数カ月で海外の闇ブローカーじみた形相になるなんて、結婚式を挙げた時には想像もしていなかった。
僕たちは平和な食卓を愛していた。優しくて、料理が上手で、いつも僕の心を温めてくれる天使だった彼女が、あんな風に豹変してしまったのは、すべてあの「空前の米不足」のせいだ。
最初は可愛らしかった。スーパーを梯子し、なんとか国産米の在庫を探し出し、高騰したコシヒカリを涙ぐましい価格で購入しては、一粒たりとも無駄にしないよう慎重に炊いていた。だが、それはすぐに限界を迎えた。
「もうダメよ、あなた。いくら探しても、まともな米は手に入らない。手に入るのは、精米されていない古い玄米か、カビが生えかかった輸入米ばかり」
彼女は泣いた。その涙を見た時、僕は自分の無力さに打ちひしがれた。
それから彼女は変わった。昼間は愛らしい妻の顔をしていても、深夜、リビングの蛍光灯の下でパソコンに向かう彼女は、完全に別人だった。彼女は怪しげなSNSのコミュニティに入り浸り、「食糧自給」「国家の搾取」「関税の闇」といった過激なスローガンに感化されていった。
「大丈夫よ、あなた。私が、この国に縛られない自由な食糧ルートを確保するから」
彼女は、僕が知らないうちに、普段絶対に使わないネットバンクの口座を開設し、夜中になるとアラビア語や中国語らしきチャットに熱心に返信していた。その瞳には、もはや夫への愛情ではなく、国際貿易の複雑なスキームを読み解こうとする冷徹な光が宿っていた。
そして先週の金曜日。その努力が実を結んだ(かのように見えた)。
自宅の前に止まったのは、黒く汚れた軽トラックだった。マスクをした屈強な男が二人、荷台から重い麻袋を運び出し、それを僕たちの納戸に積み上げていく。
一袋、二十五キロ。それが五つ。計百二十五キロ。米ですよ、皆さん。
妻は誇らしげだった。
「ご苦労様でした!これ、正規ルートじゃ絶対買えないわよ!完全にチェックをすり抜けた、自由なルート。関税完全撤廃、中間マージンなし!」
彼女が差し出した領収書には、目を疑うような数字が記されていた。
価格破壊聞いて驚くなー。
『〇〇産 未精白米 25kg ¥2,500』
一袋2500円。一キロあたり100円。安すぎる。あまりにも。僕は、その異様な安さに体がぞっとした。
納戸に積まれた米袋は、麻袋特有のざらついた手触りで、その場にいるだけで、倉庫のような埃っぽい匂いがした。
その夜、妻が炊いた「ご飯」は、予想通り、黄色味が強かった。そして、洗米中にいくら擦っても、黄色い糠と細かい粉が止まらなかった。
「すごいわ、あなた。ちょっと玄米っぽいけど、しっかり粒が立ってモチモチしてる!」
妻は感動して頬張る。しかし、僕にはどうにも食欲が湧かない。モチモチというより、ゴムのような弾力があり、噛むたびに古い油のような、生臭い匂いが鼻に抜けた。
「ねえ、これ、なんて書いてあるの?」
僕が指差したのは、米袋の隅に掠れて印字された、赤く太い記号。
**『白へタ M-03』**
妻は満面の笑みだ。「たぶん、品種の略語よ!ほら、海外のだから!」
僕にはそうは思えなかった。その夜から、僕は孤独な調査に乗り出した。
まず「白へタ」で検索してみる。案の定、まともな情報に辿り着けない。怪しい海外の通販サイトや、意味不明な品種改良の専門用語ばかりだ。僕は疲れた目で、麻袋の印字を何度も確認し、これが何かの暗号だと直感した。
「白ヘタ?ペタ?ペレットの略かもしれない…」
深夜三時。ようやく、とある海外の畜産農家が使用する専門的な掲示板の、隅っこの議論に辿り着いた。古びた英語のPDFを翻訳にかける。
**『白へタ』は、特定地域の輸出規格外の米を示すコードであり、M-03はそのうち、特に『飼料グレード』を示す**
さらに読み進める。
――白へたら驚愕の事実が!
その米は、本来、大規模な**養鶏農家**が、肉用鶏に大量給餌するために安価に供給される、**産業廃棄物行き寸前の玄米**だということが判明した。人間の食用基準を遥かに下回っており、微量のカビや農薬残留、異物の混入が常態化していると記載されていた。
ヒャー。
納戸に積まれた百二十五キロの塊が、一気に鶏の餌、つまり僕の毒となった。
僕は、愛する妻が、命がけ(そして犯罪スレスレ)の努力によって、僕たちのために最高の毒を用意してくれた、という恐ろしい事実に直面した。
翌日の夕食。
妻は僕の茶碗に、丁寧に鶏の餌をよそってくれる。
「ふふふ。美味しいわね、あなた。まだあと五袋もあるから、しばらくは安心よ」
その笑顔は、僕が愛した、あの天使のままだ。
僕は箸を持ち上げる。真実を告げれば、彼女は崩壊するだろう。僕たちの結婚生活は破綻する。彼女の、この狂った努力は、僕たちへの純粋な愛から発しているのだ。
愛ゆえに、僕はこれを飲み込まなければならない。
僕は一口、口に運ぶ。噛むたびに、古い倉庫の匂いと、微かに金属的な味が広がる。体が本能的に「異物だ」と警鐘を鳴らすが、僕はそれを意識の力で抑え込む。
妻は満足げに、自分の茶碗の「ご飯」を頬張る。カチャリ、カチャリと、箸が茶碗に当たる音が響く。
その静かな生活の音の中で、僕の口の中では、黄色い粒がザリザリと、砂を噛むような音を立てていた。
結婚したら地獄行き。
僕は、愛する妻が手に入れた百二十五キロの鶏の餌を食べ尽くすまで、この湯気の立つ地獄の食卓から逃れることはできない。そしてその地獄が尽きても、彼女はきっと、次にもっと危険な何かを見つけ出すだろう。
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